小豆と玄米のお粥
すんと鼻を鳴らしてみると焼いた肉から滴る油の甘く香ばしい匂いが何処からかした、丁度夕食の頃合いなのだろうか。
部屋の外では冷え始めた夜の縁を叩き割る程大きな声が救急車だとか喚いているのでダドリー・ダーズリーが発症したらしい、どうせ混乱中の夫妻は気付くまいと高を括り試しに例の果汁飲料を呼んでみると半分程が飲み干されていた。
明らかに怪しいペットボトルが受け取り口にあったり、キャップが既に開いていたりしたというのに持って帰って来て飲むとは教養もなければ心底どうしようもないと感心しつつ、ボロ布のような毛布を纏って換気用の小さな窓辺に寄る。
冬の夜を頬や唇で感じながらまどろんでいるとサイレンの音が徐々に近付いて来て、ダーズリー家の前で停止した。夕食時というのが不幸だったのかもしれない、その頃には野次馬が外にまで出てきている始末である。
半狂乱の男と、理性を失っている女の金切り声。それを宥めながら仕事をする隊員のやり取りを窓から覗くとまだ若い救命士と目が合った、ような気がした。はっきり確定出来ないのはこの視力の所為だ。
やがて救急車とダーズリー家の乗用車が家を出て、近所の人間も見物から普段の何気ない夕食へと戻って行った。後者の彼等の一日はこのまま穏やかに終わるのだろう。
ゆらゆらと宙に浮いていたペットボトルを元の場所に戻すよう指示し、起きたついでにと扉の鍵を魔法で外しその足で水を飲みに行った。ミネラルウォーターだと流石に露見するので、不味い水道水を直接手に受けて飲み干す。冬の冷水に骨と皮しかない手がかじかんだが、これにももう慣れた。あの家族が起きている間に飲みに行こうものなら雨水でも啜っていろと殴られるのでこうするしかないのだ。
喉が潤うと他にする事もなくなった。湿度を持った冷気をから身を守るよう両腕を擦り、少しでも暖を取る為に寝室とは到底呼べない場所に戻る。ダドリー・ダーズリーはきちんとした治療さえ行えば今晩中に死ぬような事もないので搬送先まで付いて行く理由もない、それならば少しでも体力を温存させておいた方がいい。
どうせ明日にはバーノン・ダーズリーかペチュニア・ダーズリー、あるいはその両方が八つ当たりでも始めるに違いないのだから。
白い溜息を吐いて体を震わせながら夜を越す事にもここ1ヶ月で慣れてしまった。出会った当時枯れ木のように細かったハリーの四肢は相変わらずで、ともすればそのまま乾いた音を立てて割れてしまいそうな程脆く見える。
汚れたままのピーター君を抱きしめ夜の暗闇を意識の中に迎え入れた、兎に角今は体力が欲しい。その為に食べる事が出来ないのならば、眠るしかない。
ゆっくりと呼吸して再び眠りに付けば、次に目覚めるのは昼だろう。朝ではないのかと言われそうだが、十中八九ペチュニア・ダーズリーは起こしに来られないはずだ。
「……それにしても。ある程度は予想していた事ですが本当に迷惑な方々ですね、まあ、今回に限ってはその方が都合がいいんですが」
予想通り翌日の昼過ぎ、こういったものを一体何処から嗅ぎつけてくるのか、ダーズリー家前の道路には報道関係各社が集まっていた。数はそれなりで、好き勝手に機材を広げ周囲の迷惑など顧みず自らが真実と正義の代弁者だとばかりに喚いている。
本日何度目かのクラクションを聞きながら溜息を吐く。この周辺の住宅地は中流階級より上の人間が住んでいる事もあり、朝夕の道路はそれなりに混むのだが今日は邪魔者が居る所為で昼間でも流れが悪い。
時刻は昼の11時を過ぎているが、夫妻はまだ病院に居るようでこの家には帰って来ていない。自らに監督責任があるとはいえ、一人息子が毒を盛られてたのだから親としては気が気でないのだろう。
パラコートの治療法はないに等しいが、それに対する検査法はあるので毒自体の露見はし易い。この時間だと毒の種類も特定され集中治療は終わっているはずなので、面会をしているのか、それとも警察に事情聴取でもされているのだろうか。
鳴り響いては留守電に切り替わるという作業を繰り返す電話機の音を聞きながら、再び冷たい真昼の微睡みの中に落ちていく。勝手に物置から出て電話を取っても殴られるだけだ、それにクリスマスが近いこともあり最近は節約と称してハリーへの食事も日に二食あるかないかという有様になっているので、これ以上動くのも億劫になって来た。
実は今日という日の為にあの日以降メルヴィッドからの差し入れも拒否したのだが、矢張り水で胃を誤魔化してみても空腹は辛い。受け取りを断る際に今後の為の断食だと言ったら呆れたような声でよく耐えるなと返されたのは未だ記憶に残っている。
外の喧騒が激しくなったような気がするが、どうせあの夫妻が帰って来ただけだろう。報道陣が騒ぎ立てる声とカメラのシャッターを切る音が嫌に耳に付いた、何かが泣き崩れる音も混ざったがどうでもいい。私は眠かった。
一瞬飛んだ意識の後、がたん、と大きな音と共に暗闇が訪れる。うっすらと目を開けると顔を真っ赤にしたバーノン・ダーズリーが右脚を上げている所だった、一瞬だと思った眠りは意外に長い時間だったらしい。そしてこれはどう予測しても蹴られる前兆だろう。
視線を逸らすと、いつの間にか物置の窓が大きな空の棚で塞がれていた。音と暗闇の正体はこれらしい。周囲から向けられる好奇の視線から少しでも逃れようとした苦肉の策なのだろうかとのんびり考えている眠たげな脳が腹部の痛みを感知、筋肉のない太い右脚は胃の少し下辺りを蹴ったようで反射的に内容物が逆流する。とはいっても、口や鼻孔から出てくるのは胃液と水だけでそれ程苦しくはない。
巨漢に蹴られた勢いで軽くて薄い体は壁にぶつかっていて、今になって骨が軋み始める。反吐を出しながらも眠気と痛みで全身を動かせずにいると、昨日の昼に見たダドリー・ダーズリーと全く同じ形をした指が伸びきった黒髪を鷲掴んだ。
「いいか、今から一言でも喋ったらただじゃおかんぞ」
複数台の車が外で停まる音、事件内容が内容である、警察が捜査でもしに来たのだろう。口封じの為に頭の悪い脅し文句を幼子に突き付けるのは非常にどうかと思うが、それをこの男に言った所で何になる訳でもないので、眠たげな目で胡乱に笑っておいた。しかしそれも気に入らないようで、脂肪が詰まりグローブのようになった拳に三度殴られる。左目、左頬、鼻梁の各部位だ。
「絶対に黙っていろ、一言も喋るな。一言もだぞ」
鼻血を散らす甥を罵り、痣だらけの小さな体を冷たい床に捨てて、豚に劣る子供の親は激しく愚痴りながら鼻息荒く物置から出て行った。
挑発をして目印は付けた、これでいい。しかし、全くの馬鹿だ。最早逃げ場はない。そこまで彼等の目は甘くない。
玄関の扉が開き、警官らしき男が夫妻と何事かを話し始める。合間に他にも十数名、速いが重く乱暴な足音が床板を軋ませていた。外からは鈍いシャッター音と、飽きるほど聞いたクラクション音。視覚が薄暗闇で使えない分、聴覚が代わりに発達した気がするが、もしかして気の所為かもしれない。
口の中に溜まった血を吐き出す。短時間に色々なものを吐き過ぎてまた気分が悪くなり、嘔吐に慣れてしまった胃が蠕動して鼻血と胃液を床にぶち撒けた。口内の不快さも耐え難くなってきた、いい加減胃液で焼かれた喉も痛い。
汚れた毛布に口を押し付けて咳を殺し、口元の血を拭う。力任せに殴られた箇所が腫れて熱を持ち始めた、そろそろ体力も限界値に突入しているので早目に治療をしたいのだが果たして彼等は何時頃気付いてくれるのだろうか。
体の痛みが増した所為で眠気も飛んでしまい、仕方なくピーター君を手繰り寄せて抱きしめる。この子は現在裸同然で居るので、生活が落ち着いたら布を買ってあの青いコートでも繕ってあげようか。
シミや埃、蜘蛛の巣で出会った当時以上に汚れたピーター君を撫でながら、俄に騒がしくなった扉の向こうに耳を澄ます。どうやら警官の一人がここを開けだがっているようだ。
「ダドリーは物置に入ったりしておらんと言っているだろう!」
「しかしですね、ダーズリーさん。我々としては犯罪行為をこれ以上見過ごす訳には」
「だったら早くダドリーを殺そうとした犯人を逮捕しろ! それが警察の仕事だろう!」
「無論そちらの捜査も最大限の努力をさせていただきます。ですが」
「なら口先だけじゃなくさっさと動けこの無能な公僕が!」
「……失礼ですが、ダーズリーさん。その袖とズボンの血はどうされましたか?」
「何を訳の判らない事を言っている! いいから早く犯人を」
「場合によっては貴方が犯人である可能性もあります」
「犯人だと!? いい加減な事を言うな!」
「ならばその血痕の説明をお願いできますか、今、ここで!」
馬鹿の相手に飽きたのか、とうとう感情を爆発させた警官らしき男の質問に今まで煩かったバーノン・ダーズリーの舌が急停止する。何処で血が付着したのか思い出したのだろう。
私は乾き始めていた鼻血を拭い、扉に向かって笑ってみせた。挑発に乗って殴った事を後悔してももう遅い、目印の血痕を見つけた以上、警察はこちらの件でも動く。そうしなければメディアの向こうの国民が黙ってはいない。もっと早く動けたはずだと無責任に叩かれるのは目に見えているが、ここで虐待の可能性を無視する行為や隠蔽工作をしようものならそれでは済まないレベルにまでなる。報道陣は目と鼻の先にあるのだ。
「これは、そう、何でもない。ちょっと色々あっただけで何の関係もない」
「成程、関係ない。ではこれも関係ありませんかね。実は昨夜通報がありまして、どうやらこの家に虐待されていると思わしき子供が居るといった内容なのですが」
昨夜に通報、もしかしてあの若い救命士なのか。近所から出てきた野次馬はとっくの昔にハリーの虐待を見て見ぬ振りをしているので、消去法として彼が最有力候補だ。目が合ったのは気の所為ではなかったのか。
世の中にはどうしようもない人間が溢れているが、ほんの一握り、まだ世の中は捨てたものではないと思える人間が居る。自分の中に正義を持った、英雄のような人間が。
生憎だが、私にはそれはない。私もまた、どうしようもない人間の一匹だ。
「ダーズリーさんは、書類上では息子さんと同い年の甥子さんを預っている事になっていましたが、その少年は今何処に? まさか従兄弟が救急搬送されたこの騒ぎの中で平然と学校へ行った、などという事はありえないでしょう?」
「い、いや、あいつ。あの子はちょっと頭の可怪しい所があって、もしかしたらいつも通り学校へ行ったのかも」
「でしたら今すぐ学校へ確認を取っても構いませんね」
「それは……!」
「それは、何ですか?」
「あ、あの子は不良。そう、不良だから滅多に学校にも行かずにその辺をほっつき歩いているに違いありません。だから学校へ連絡をしても無駄で」
「6歳の子供が素行不良ですか、無くはありませんが何とも……いえ、それは兎も角、無駄かどうか決めるのは貴方ではありません、警察です」
あまりにも間抜けな言い訳に、再び扉の向こうの警官が苛々し始めているのが判った。因みに私が警官と同じ立ち位置だったら間違いなく一発殴って関節を極めた後に両足を折ってから本格的な拷問を開始、というどこから見ても立派な犯罪者の行動を取っているに違いない。多分メルヴィッドも暴力の振るい方が違うだけで同じような事をするだろう。
しかしあくまでも法に則る警察という組織は私達のようには行かない。少なくとも、建前上はそういった行為をしてはいけない。日本に居た頃からこの手の組織とは関わり合いが薄かったので、実際はよく知らないが。
さて、ここで私が大声を上げて助けを求めるのもいいが、放っておくのも案外面白いかもしれない。どの道、バーノン・ダーズリーには既に助かるという道はない。警官の態度に逆切れして殺しに来なければ、だが。
「通報内容によると、虐待されたらしき子供が目撃されたのは丁度この物置の位置にある部屋だったという事です」
「そんなのは気の所為だ!」
「気の所為かどうか、それは物置の中を私達に見せていただければすぐに判明します。それともダーズリーさん、この中には見られては困るものでもあるのですか?」
「そんなものはない! 言い掛かりもいい加減にせんと訴えるぞ!」
ああ、どうやら逆切れたようだ。これは私が内側から叫んだ方がいいだろうか、と考え到る前に公務執行妨害という単語が扉の向こうで発せられた。
まさかとは思うが、まさかなのだろう。
バーノン・ダーズリーは目の前の警官に手を上げたらしい。恐らくハリーや私や自社の社員に対するような気持ちでやったのだろうが、手の施しようのない間抜けさに呆れるしかない。短気は損気とは良く言ったものだが、これは損気程度では済まないだろう。
これ以上状況は進展しようがないと思われるので、暴れる音に混ざるように物置の扉を軽く叩き、枯れた喉に力を入れ声を出した。
「誰か、居るんですか?」
「黙っていろと言っただろう! この糞餓鬼が!」
「誰か、そこに」
「言いつけも守れない出来損ないが! 一体誰が育ててやったと! 恩も忘れおって!」
「こいつを連れて行け!」
板切れ一枚隔てた向こうの世界は最早完全な修羅場だ、この声量だと外にも漏れているかも知れない。彼の墓穴が深まるだけなので、それはそれで私は一向に構わないが。
「鍵はあるか!? 子供が閉じ込められている!」
「確かダイニングに……!」
「持って来ました! 開けます!」
野太い男達の怒号に鍵の開く音が混ざる。一筋の光が徐々に帯のように太くなり、大人の形をした影を作り出していった。見上げた先の表情は判断が付かなかったが、息を飲む音が聞こえたような気がする。
当然だろう、この日の為に、私はハリーの肉体を奪った後も必要以上の栄養を取ろうとしなかったのだから。彼等の目には、あの時メルヴィッドが見たものよりも少しだけマシなものが映っているに違いない。
メルヴィッドが居た痕跡も出来るだけ消した。足跡を残さず、彼の物と思われる髪も拾い集めて捨てた。
救急車を手配しろと誰かの叫びを聞いた後、私は意図的に意識を手放した。これで今日はもう、好きなだけ眠る事が出来る。