曖昧トルマリン

graytourmaline

カシスシロップのソーダ割り、カラメル風味

 両親が出かける準備をしているので暇なのか、リビングでスナック菓子とジュースを交互に貪っている肉質の悪そうな金髪の豚野郎、失礼、ダドリー・ダーズリーはハリーと対照的な肥満体を揺らしながら子供向けの勧善懲悪アニメをにやにやと笑いながら見ていた。
 時折廊下の向こうから夫妻の声も聞こえたが、いつも通り閉じ込めておくとか、家を荒らされては困るとか、相変わらずの会話をしているようなのであまり意識しないようにする。ハリーの体から抜けた状態の私の隣で、透明マントを被り宙に浮いた状態のメルヴィッドが耳元で小さく悪態を吐いているが、今回は時間もあまりないのでこれも無視しておこう。
 番組がCMに入った事を見計らってダドリー・ダーズリーの隣に例のピーター君を出現させると、それまでテレビ画面に向かっていた薄い青色の目が突如現れた直立歩行のぬいぐるみに移った。というよりも、そのぬいぐるみの手にあったチョコバナナフレーバーの飴玉に興味を持ったようだった。矢張り金髪豚野郎と呼んだ方が的確だろうか、否、月並みだがそれでは豚に失礼だろう。豚は優秀な動物なのだ、無論、味も含めて。
 どうでもいい事を考えながら球体に近い物体を見下ろして観察していると、やがて油まみれの口元がにたりと笑い、ジュースを倒しながら脂肪に覆われた短い指が飴を奪おうと伸ばされる。ぬいぐるみとはいえ流石にそんな愚鈍な動きに捕まる程神経が切れている訳でもないので、布製の短い両手足を操ってクッション部分から肘掛けの位置まで跳ねさせた。途端にダドリー・ダーズリーの表情が怒りに変わり、機嫌が癇癪を起こす寸前まで跳ね上がる。隣でクソ餓鬼がという悪態が聞こえた気がした、否、聞こえた。
 どうにもメルヴィッドの舌は彼の心に正直過ぎる。尤も昔の私を振り返ってみれば、彼くらいの年齢ならばそういう事も大いにあると納得出来るのだが。寧ろ人間嫌いを患っていた分、私の方が酷いのかもしれない。
 そういったどうでもいい過去回想はさておき、ここからが肝心なので余計な思考を振り払い、腕を軽く振ってあらかじめぬいぐるみに設定しておいた魔法を起動させると、まずは長い耳が繋がった小さな頭が恭しく下げられた。
「はじめまして、僕はピーター」
 兎口から可愛らしい声で流暢な言葉が流れ始め、それに合わせてぬいぐるみが生きているかのように動く。予想に外れた行動を取られた所為で癇癪を爆発させようとしていた体がぴたりと止まり、その隙を付いて言葉を続けさせた。
「今日は君にとっても大事な話を伝えに来たんだ。いい? よく聞いてね?」
 未だ呆気に取られているダドリー・ダーズリーの前でぬいぐるみは一度跳ね、ソファの肘掛けからクッションの上に着地した。綿の入った長い耳がふよんと揺れる。
「君は今日の買い物で余分にジュースを貰う事が出来る。とても幸運だと思うかもしれないけど、本当は違うんだ。それを取るのは不幸の引き金だ。そのジュースを正直に店に返せば不幸は起きない、でも嘘を吐いて持って帰ったりしたら、とても酷い事になるよ」
 無機質なビーズの瞳がダドリー・ダーズリーを見るが、本人は全く理解していないといった表情でぬいぐるみに手を伸ばし、頭を鷲掴んで飴玉を奪い取った。前々から躾がなってないとは思ったが、それを含めてここまでは全て予定通りだ。
 頭をダドリー・ダーズリーに掴まれた状態でも、感覚も感情も一切が存在しないぬいぐるみはあらかじめ設定された通りに動き続ける。
「今日一日、君が正直者になるのなら、その飴玉はあげるよ。でも、そうじゃないなら食べないで。それを食べて嘘を吐くと、とても酷」
 全てを聞き終わる前に油まみれの指が飴を摘み、口の中に放り込む。それでも設定された台詞をしゃべり続けるぬいぐるみが鬱陶しく思ったのか、鷲掴んだそれでテーブルの上に溢れたジュースを拭き始めた。
 流石にこれ以上の警告は無駄だと判断して、雑巾扱いされた可哀想なぬいぐるみに掛けた魔法を解除する。それとほぼ同時に、ダーズリー夫妻がリビングにやってきて猫撫でた声でダドリー・ダーズリーを呼んだ。
「偉いわ、ダッドちゃん。ジュースを拭いてくれたのね」
「流石パパとママの息子だな……しかしペチュニア、この汚いぬいぐるみは誰のだ」
「どうせアレが何処かから拾ってきたんでしょうよ、全くなんて卑しい。さあ、ダットちゃん。そんな汚いのはゴミ箱に捨てて、パパとママと一緒にお買い物に行きましょうね」
 ペチュニア・ダーズリーはぬいぐるみを摘むと躊躇うことなくゴミ箱に捨て置き、息子と一緒に手を洗いに行った。与えてもいないのに飴玉をいつの間にか口に含んでいるという事は日常茶飯事なので、これに対してもノータッチだった。
 やがてテレビの電源を落としたバーノン・ダーズリーもリビングから出て、しばらくするとガレージで車が動く音が聞こえ、そのまま何処かへと出ていった。
「どうした。生温いと悪鬼の形相で笑った割には、お前も十分生温いじゃないか」
 一家が居なくなったリビングで透明マントをするりと抜いたメルヴィッドが、厳しい目付きでようやくはっきりと口を開いた。赤い目が、自分ならもっと大きな不幸を齎すことが出来るのにと言っている。
 対して、私は困ったように苦笑するに留めた。メルヴィッドのやり方では、彼等は駄目なのだと説明した方がいいのだろう。
『一家揃って丸ごと全滅なんて、それこそ軽過ぎる仕打ちですよ、苦しむ期間があまりにも短過ぎる。家族という単位を苦しめるのなら、基本は子供から始めて1人ずつです』
「ではその子供に忠告するのはどういう神経だ」
『まあ、面白そうだからというだけの単純な前振りですかね。親切心ではない事は確かですよ、だってそうでしょう? あんな忠告をしてもダドリー・ダーズリーは飲みますよ。1ヶ月以上見てきましたが、彼は口先だけでは更生しようもない、そういう性質ですから』
 手を翻すと現れた黒い果汁飲料が宙を泳ぎ金色の文字がそれを取り巻く。その金色の魔法式は先程の飴玉を通して封じ込められ、今頃はダドリー・ダーズリーの腹の中で起動しているはずだ。
「アスポート系の魔法式か……いや、待て。こんな単純な罠で引っ掛かるのか?」
『7割強、といった所ですかね』
 赤い瞳が式を読み解き、心配そうに私を見つめるので大丈夫だと頷いておく。実際メルヴィッドが心配になる程この式は非常に単純で、対象が自動販売機でジュースを買った場合にリビングで漂っているこの果実飲料が受け取り口に出現するというだけのものだ。
 ダーズリー家の日常を観察した結果、彼等は週に1回買い物に出る度に息子に菓子やら飲み物やらを大量に買い与えている。中でも店舗ではなく態々自動販売機で買う炭酸飲料がダドリー・ダーズリーの好みらしく、彼は必ず何らかの飲み物を買っては帰って来ていた。
 では、自販機で買った炭酸飲料の他に、受け取り口にこのジュースがあった場合、あのダドリー・ダーズリーはどういった行動を取るか。
『正直に店側に申告すると思いますか』
「ないな」
『でしょう? あの両親も止めそうにありませんし、彼がこれを見つける事が出来ればそこで王手がかかります』
「……そうか、先程の忠告で余分に手に入る事を印象付けた訳か」
『それもありますね』
「それも? 他には何がある」
『死に至る過程は確かに苦しいでしょうが、死んでそれまででは一杯痛くするというハリーとの約束を違える事になりますからね。もう少しだけ先も用意したんです』
 ぼんやりと濁した解答をする私をメルヴィッドは正面から見ていたが、やがて私の考えを察したのか乾いた笑みを徐々に浮かべていった。
「悪鬼羅刹の化物め、それのどこが少し先だ」
『何だか本格的に酷い言い草になって来ていますね、せめて怨霊怪異程度に留めて下さいませんか。大体、私が起こす行動はほんの少し増えるだけですよ?』
の視点の言葉か。ああ、ならばそうだろうな」
『それに、別に一生苦しむ訳ではありませんから』
「一生か。確かに一生ではないだろう、嘘はない」
 メルヴィッドが更に私と距離を置き、矢張りお前は真性の異常者だと本日何回目の台詞を投げかけてきた。
 私はというと、もうそのような態度にも慣れてしまったので軽く流し下準備を始める。とはいっても、目の前で漂っている果実飲料の蓋を魔法で回し開けて内容物を少しだけ外に出して、小瓶の中身を出したものと同量分中に注ぎ入れ蓋をするだけだが。
 外に出た黒い液体は宇宙船内の水分のようにぷっかりと室内を漂い、捨ててもいいがどうしようかと思案している最中にメルヴィッドが食べてしまった。ちょっと意外だ。
「クロスグリか」
『色が黒に近いのでこれを入れても大丈夫かなと思いまして』
「確かに見た目は変化しないな。飲んだら最後、死ぬ程苦しんでから死ぬが」
 15ml程度だと成人なら半数致死量だが、ガキは死ぬか。と一人納得して赤い瞳で私を見下ろした。ここ数カ月でこの時代の非魔法界に慣れた事もあり、今の彼には知識がある。
「しかし、パラコートなんて物騒な毒を一体何時知ったんだ」
『言ったじゃないですか。私の世界で連続殺人事件が起きて一時期ニュースになったと』
 10人以上が死亡し、模倣犯も出てきた未解決事件。当時マスコミが随分騒いでいた事もあり、割と印象に残っていた。
 パラコートという除草剤を摂取すると危険、という程度の私の朧気な記憶を頼りにメルヴィッドが調べ直した所によると、この薬品は開発会社がイギリスにある事もあり正規ルートで簡単に手に入る安易で強力な農薬なのだそうだ。
 ただあまりに優秀だったので毒として使用される事も多く、私が来た時代では相当希釈され犯罪防止のために苦味剤や催吐剤の混入等も行われた。前述の通り無差別連続毒殺事件という物騒な事件も発生したので、これもまた必然だったのだろう。
 しかし今ジュースに入れたこれはそういった物を含まない前世代のもので、一口飲めば確実に死ぬという毒物だ。しかも死に方が非常にえげつなく治療法もほぼ存在しないという代物で、入手条件の割には効果があまりに高過ぎる。
 具体的な症状はまず嘔吐だが、これは催吐剤が含まれない前時代のパラコートなのでそれ程酷くは起こらない。ただ吐き出さなかった量が多かった分、体内に残ったパラコートが血液に吸収され肺を筆頭に腎臓や肝臓に障害を起こしてしまう。そして、この障害が地獄だ。
 腎臓は老廃物の濾過や尿の排出、肝臓は代謝や解毒等を役割とする臓器で、これらに障害が起こるのは即ち死に直結する。
 しかし現代医学は頼りになり、パラコート中毒になろうとも腎臓や肝臓は適切な治療が行われれば元に戻る。ここでの最大の問題は、実は肺だ。
 パラコートは肺に能動的に蓄積し、肺障害を水面下で進行させて行く。私のような医学に無知の素人は遅効性の肺障害ならば酸素を投与をすればいいと単純に考えるのだが、そんな考え等見通しているとばかりにパラコートの細胞障害作用には酸素が働くという設定が盛り込まれている、故に治療の為の酸素投与は禁忌という手詰まりが起こるのだ。
 肺障害が進行するとガス交換が低下するので最後には呼吸不全となり、酸素を体に取り入れる事が出来ず苦しみながら死ぬ。しかもパラコートは神経系統に作用しない為、意識だけははっきりと保ったままというのがまたえぐい。
 治療法としては胃洗浄、腸洗浄、活性炭と大量の下剤投与、長時間の透析。これが上手く行けば低確率で助かるかもしれないが、まあ無理だろう。そもそも医者や薬剤師が治療に意味を見出だせず匙を投げて規制を求めているのが現状だ。
 メルヴィッドを頼って辞書から引っ張んてきた知識を長々と語ったが、要はパラコートを飲んだらすごく苦しんでから死ぬ、という事だ。一時期自殺用にも流行した毒だが、以上の点から考えると良い大人も悪い子供も決して服用してはいけない。
『しかしガードナー家の主寝室にこの除草剤があったのは幸いでした』
は妙な所で物覚えがいいから油断がならない」
『油断って何ですか。何故私がメルヴィッドに警戒されなければならないんです』
「思い付きで人殺しをする男が隣に居て、警戒しないのは馬鹿のする事だ」
『別に私は、あ、殺したいな、と思い付いて殺している訳ではありませんよ』
「殺した方が後々楽だな、程度の、矢張り思い付きだろう」
『そう言われると反論のしようがありませんが……けれど、流石にメルヴィッドを殺した方が良手というシチュエーションは思い浮かびません』
「そこで損得や因果関係なく何が起ころうとも絶対に殺さないと言い切れない以上、油断しないに越したことはない」
『そう仰りますが、たとえ本心から言ったとしても今の貴方は信用しないでしょう?』
「……それもそうだ」
 隠しても無駄だと判っているのかメルヴィッドも私の言葉を肯定し、毒入りのペットボトル飲料とそれを取り巻く魔法式の周囲をするりと滑る。ゆっくりと時計回りに移動する金の光の向こうで、赤い瞳が鋭く輝いて見えた。
 私はというと、先程ゴミ箱送りにされたピーター君を呪文で呼び寄せて汚れ具合を確認する。顔面から腹部にかけてがオレンジ色の合成着色料でべったりと汚れ、無機質な黒い瞳が私を責めているように感じた。早目にシミ抜きをしてやらないと痕が残るかもしれない。
『さて、あの一家が帰って来るまでやる事もありませんので私は寝ます。本当は一仕事してくれたこの子を綺麗に洗ってあげたいんですが、まだしばらくはそうも行きませんし』
「爺の癖に随分少女趣味な事だ」
『おや、年寄りという生き物は小さいものや可愛いものを甘やかすのが大好きなんですよ。ご存知ありませんか?』
 ねえ、と無機質なぬいぐるみに問いかけても、当然返答はない。それを見てメルヴィッドが馬鹿にしたように笑う。
 普段からこうなので馬鹿にさせたままでもいいのだが、ピーター君も頑張ってくれた事を考えると、言われっ放しも癪なので偶には反論しても構わないだろう。特に今日は、私自身もなんだかそんな気分だった。
『メルヴィッド、目の付いた人形は大切にしないと酷い事が起こるんですよ?』
 虚ろな目をしたピーター君に頬を寄せながら言葉と併用する牽制としてメルヴィッド曰く悪鬼の形相で笑うと、彼の笑顔が乾いて割れる。
 意識的にそうなるよう作っているだけなのだからそんなに怯えなくてもいいのにとは思ったが、きっと彼の事だからそのうち慣れて来ると考え至ったので、取り敢えず今の内に使えるものは使っておくというのも一つの手だろうという結論に落ち着いた。
 これを物騒かそうでないかを判断するのは、まあ、見る人次第という所であろう。