カラメル・シロップとチョコレート・クランチ
手持ち無沙汰なメルヴィッドにはガードナー家の主寝室に存在するある物を少量分けて欲しい頼んだが、昨晩の行動は本当にそれだけだ。今は何よりもまず、この瀕死の状態から抜け出さなければならない。
悪環境の上この体でははっきりしないが、恐らく翌朝の午前6時過ぎ。甲高い声の女が物置の鍵と扉を乱暴に開け、大分口汚くハリーの事を罵しりながら起こしに来た。
さっさと起きて支度をしろと喚いていたが、治療を施していない耳は矢張り音を拾い難い。全身の傷は痛み、平衡感覚も戻っていなかった。真っすぐ歩行する事すら相変わらず困難なので、やることを終えたら早目に治療しなければならない。この体は、ハリーから奪った大切な器だ。
耳障りでヒステリックな声は未だ止まない。穴の空いたバケツと黒くカビて異臭の漂う雑巾が投げ込まれ声は続く、床を掃除しろと言いたいらしい。
女、恐らくペチュニア・ダーズリーが去った後でホグワーツから失敬した内の1本、メルヴィッドが私の護身用だと置いて行った杖を振って適当に見える程度に床を掃除した。あまり綺麗にし過ぎると怪しまれるので、この辺りの加減は意外に難しい。
使いようがないバケツと雑巾は魔法で廃棄して部屋を出ると、何とも言えない不味そうな匂いがキッチンから漂ってきた。薄いトマト味の付いた缶詰のビーンズでも煮ているのだろう、それに果実の香りが全くしないジャムと、そのジャムを乗せる為の薄いトースト。甘ったるいオレンジジュースと酸味の強いコーヒー。
食欲を刺激される所か勢いよく減退させる虚無の香りに胃を押さえ、トイレに駆け込む。昨晩胃に入れた物が逆流し、口と鼻から吐き出されていく。幸い体が未成熟で幼かった事と固形物はほぼ消化済みだったので喉に詰まらせることはなかったが、それでも息苦しく多少は辛い。食べ物を吐いたのなんて、何年ぶりだろうか。
父がこの場に居たら悪阻かと揶揄して女性陣に殴られていただろうかと現実逃避をして苦痛を誤魔化す。駄目だ、自己診断をすると精神的に既に相当来ている。
氷になる手前の冷たい水で胃液とミルク臭い口を洗ぎ、改めてキッチンへ向かい顔を出すと、この家の挨拶代わりなのか金色のヘタを頭に乗せ仕立てのいい制服を着た薄ピンク色の丸い物体が近寄ってきて、思い切り殴られた。
肉体派を自称するのならば避けろと突っ込まれそうだが、今まで殴られていたハリーの回避力が急に上がれば怪しまれるので甘んじて受けたに過ぎない。元の体が無くとも武器さえ手元にあれば脳天から竹のようにカチ割ってやったのだが、そんな即死級の剣技を繰り出してはハリーとの約束を違える事になる。
相手を苦しめるにはこちらの我慢も必要なのだ。
「ダッドちゃん、そんな汚いものに触っちゃいけません!」
「そうだぞダドリー。この間子供用のゴルフクラブを買ってやったろう、あれにしなさい」
「あれでたたいたら、この前こわれちゃったよ!」
「そうか、そうだったな……なら今日の帰りに新しくバッドを買ってやろう」
「やった! パパ大好き!」
「よかったわねえ、ダッドちゃん」
この家庭、他人から話が通じないと匙を投げられる私から見ても朝の挨拶の内容が余りに異常で物騒過ぎる。ハリーはよくこんな家庭の中で耐えた、と言うよりも、死なずに生きて来れたものだ。悪環境で育つというのは問題だとしみじみ思う。
メルヴィッドがこの場に居なくて本当に良かった。こんなものを目撃した日には私の制止など聞かず即死系の一家惨殺に走っていたに違いない。
かく言う私も衝動的な殺人に走りたいのだが、嬲り殺さなければならないというハリーとの約束が私の理性を支えている。
「何時まで突立っているんだ小僧! その臭い体を近付けるな!」
バーノン・ダーズリーらしき丸い男が汚物に触れるようにハリーの体を摘み上げ、裏口から外に投げ捨てた。一応受け身は取ったが、それでも筋肉が無く体術に全く慣れないこの体では相当痛い。
冷たい風に身を凍えさせながら、ふらふらする頭を支えて体を起こす。久しく感じる幾つか視線を感じて辺りを見ると、私と視線が合ったらしき近隣住民が目を逸らしたり、家のカーテンを閉めたり、足早にその場から去っていく様子がぼんやりと判った。
被虐児童を取り巻く環境など、何処の国も同じか。ならばそれで良い。
「随分遅い起床だな。暇だから来てやったが、……昨晩より窶れているし、傷が増えていないか?」
「ついさっき吐いて殴られて臭くて汚いと丁度今ここに投げられた所ですよ。おはようございます、貴方は元気そうで安心しましたよメルヴィッド」
今来たばかりなのだろう、人目があるので姿を見せないメルヴィッドの透明な声だけが私の周囲で浮遊する。上手く隠しているが漏れた殺気を感知、嫌な予感。
「ハリーとの約束ですから、死の呪文で簡単に殺さないで下さいね」
「磔の……」
「足が付くのは止めて下さいって忠告したでしょう。周りが裏切り者ばかりで滅多に表に見せる機会がないから勘違いされていますが、実は相当情に厚い方なんですよね、貴方」
このくらいならまだ大丈夫だと笑うとメルヴィッドは舌打ちをしてから私の手の中に小瓶を出現させた。中は茶褐色の液体で満たされていて、決して漏れないようにきつい封がきっちりしてある。容量は15ml程度だろうか。
「本当にそれだけでよかったのか」
「ええ、十分です。ありがとうございます」
「マグルの作ったそんな物が、魔法薬以上に役に立つとは思えないがな」
「魔法族至上主義者の貴方は不服かもしれませんが、科学的に物質を特定出来る毒殺は魔法使いの目に留まり辛いんです。貴方もこれがどんな物か、詳しくは判らないでしょう?」
「……やマグル共は知っているというのか」
「少なくとも薬剤の関係者は確実に知っているでしょうね。一般人の私が知っているのは単に、私の時代にこれで無差別連続殺人事件が起こって大きなニュースになったからですよ。これでも一応、他の魔法使いよりは科学技術に馴染んで生活していましたから」
指先を振って小瓶を消し、見えない目でメルヴィッドの声が聞こえる辺りを見上げる。今彼がどんな表情をしているのかは全く判らないが、若干不服そうな雰囲気ではある。
しかしすぐに何かを考え付いたようで、話題を次に移した。
「で、はしばらくどうするつもりだ。まさか爺の癖に大人しくマグルの学校にでも通うのか?」
「そのまさかですよ」
私とてこの歳で幼子の学校でお遊戯やらお歌やらをやるのは非常に嫌だが背に腹は変えられず、仕方なしに肯定しておく。
「この家で療養は無理そうですから、大人しく保健室に登校します。私が中に居ても回復は早まらないので、向こうで体だけ休ませて、それから動きますよ。メルヴィッドはどうされますか」
「だから暇だと言っているだろう」
「本日の予定はゴドリック・ホロウと聖マンゴにジェームズ・ポッターとリリー・ポッターの生存確認をしに行くだけですので作業自体は相変わらず地味ですが、宜しいのですか?」
「死亡確認、の間違いだろう。生きていれば殺す癖に、顔に似合わず恐ろしい男だ」
「何故恐がる必要があるんですか、ただ単純に、約束通りハリーに会わせてあげるだけじゃないですか」
「物は言いようだな」
は、とメルヴィッドが鼻で笑う声に被さるように、家の中から冬場に着るにしては薄い生地で出来た服と破れた鞄のようなものが放り出された。声が言うには、これ以上家に居るなさっさと何処かに行ってしまえ夜まで帰ってくるなこの愚図、だそうだ。
メルヴィッドらしき物体が居る辺りから、得体の知れない冷気を感じるのはきっと気の所為ではない。この家の住人がこういったものだと知っているのに逐一怒っていては、彼の眉間の皺が取れなくなるか、未だ存在していない内臓のどこかに穴でも空きそうで心配だ。
「、あいつらを拷問する時は必ず私も呼べ。出来るだけ長く苦しめて、生きて来た事を後悔させてやる」
「それは頼もしい限りです。獄卒も裸足で逃げ出す程酷いものを期待していますよ」
半ば以上は本心で返しながら怪しまれない程度に体を清めてから服を着て、周囲の気温だけを一定にする魔法を使った後で今にも分解しそうな鞄を手に取った。これ以上この敷地内に居て殴られるのは御免だ。かなり早いが学校へ避難するべきだろう。
狂った平衡感覚で奮闘しながら歩き始めると、千鳥足が心配なのか親鳥の如くメルヴィッドが付いて来る気配がした。ふと、彼の気配が一瞬だけ消え、すぐにポケットに違和感が現れる。探った指先に個包装の丸い何かが数個触れた。
「あの女の家から持って来た、それでも食べて凌いでおけ」
痩せ過ぎた手の平が掴んだのは、どこにでも売っている安っぽいチョコレート菓子だった。こんなちっぽけで痩せた体と枯れて腐った爺の事など放っておけばいいものを、本当に彼はどうしようもなく情に厚い。
「ありがとうございます。いただきます」
力の入らない腕を震わせながら中身を砕き、手探りで袋を開けて欠片を口に含む。ぼそっとした後に来るザクザクとした食感が口の中に刺さって痛かったが、肉体的にも精神的にも久し振りの甘味に口元が綻ぶ。
「賞味期限が切れていたが、ならば問題ないだろう」
「消費でなれければ死にはしませんから、仰る通り大丈夫ですよ」
朝霧がかった寒々しい路地を歩きながら、少しずつゆっくりと、メルヴィッドから貰ったチョコレート菓子を口に含んでは咀嚼する。油脂分が白く固まり味自体は落ちているはずなのだが、それでも世界で一番優しい味がした。