ホットミルクに浸されたパン
「止めるな、この家のマグル共を皆殺しにしてやる」
『杖を構えたまま阿呆な事を仰らないで下さいませんか』
今までにないくらい殺気を帯びているメルヴィッドと冷めた視線で対立する私、ベッドの上には横になったハリー・ポッターが居て、ここはバーノン・ダーズリーの家。
一触即発の空気に思考が乱れる。この状況に到るまでに何が起こったのか、説明しなければならないだろう。
少々時間を遡り、私とメルヴィッドはハリーが居る可能性が最も高い場所、サリー州リトル・ウィンジングのプリベット通り4番地に姿を現した。統一規格で建てられた家を何件か回った後に目的の家を見つけ、ハリーが居ると思わしき階段下の物置に板で塞がれた窓から侵入し、そして自分の予測が当たっていた事に嫌悪を感じた。
白い肌に黒い髪と緑色の目、額の稲妻型の傷がない事を除けば、色彩は私の世界の彼と大して変わらなかった。しかし、それだけだったのだ。それしか、似ていなかったのだ。
傷だらけの肢体、伸び切って不衛生な髪、落ち窪んだ眼窩、同年代の子供と比べて小さ過ぎる体、不自然に大きな頭、骨の浮いた細過ぎる手足、サイズの合わない薄地の服から覗いた浮いた肋骨、伸び切って割れた爪、床擦れして腐りかけた僅かな体の肉と、表面を這い回る蛆。床は腐った食物の滓と糞尿と嘔吐物に塗れ、蝿が集っている。
ある程度これを予測していた私は嫌悪の感情を表に出さず耐えられた。しかし予測出来ていなかった隣の男、闇の帝王として人を殺し、物資不足の時代だった第二次世界大戦を生きたメルヴィッドですら絶句した光景がここにあった。
ここは、この世界の、この時代のイギリスは、まごうことなき先進国であったはずだが、目の前の少年はそこに生きてはいない。
『ハリー』
「では、これが……お前の言ったハリー・ポッターなのか?」
未だ動けずにいるメルヴィッドに首肯だけして、栄養失調状態のハリーに近寄る。薄暗いくせにぎらぎらと輝く緑色の瞳が私をじっと見て、緩慢だが口元が動き呻き声が漏れた。
私を認識した、死にかけている。同時に、今後の為の打算が高速で脳を駆け巡った。
『メルヴィッド、申し訳ありませんがキッチンからパンとミルク、それと砂糖を拝借して来て下さい。少量で構いません』
「助けるのか?」
『この子は私を認識しました。それともまさか半純血とはいえ、貴方と同じペベレル家の血を継ぎポッター家の末裔であるこの子を見殺しにするつもりですか。この状態で死ねば、魔法使いがマグルに殺されたも同義ですよ』
「……最後に一番嫌な所を突いてくる男だ。しかし、事実だな」
音も無く消えたメルヴィッドを確認して、すぐに私の方でも魔法を幾重にも唱えた。部屋を出来るだけ清潔にし、家畜小屋の方がマシだったベッドを変え、最後にハリーの汚れを生理食塩水で落としヨードで消毒する。薬用石鹸の方がいいのだろうが、生憎手持ちがない。
蛆を取り除き、顕になった皮膚は相当壊死している。医学に精通しているお祖母様や、八方に知識の広い父ならばどうにか出来たのかも知れないが、私にはこれ以上為す術がない。あったとしても、前述通り手持ちが全くないのだ。
「……!」
声にならない声を上げるハリーの頭辺りに手を翳し、撫でるような仕草をすると先程よりは生気の戻った瞳が、それでも私を見ていた。当たり前だが、まだ不十分だ。
「持って来た、これでいいか」
『ありがとうございます。すみません、小間使いのような真似をさせてしまって』
「適材適所という言葉があるだろう」
ミルクを器の中で温め砂糖を入れる、溶け切ったら強制的にぬるくしてパンを浸した。
こういった時は粥ばかりを作ってきた所為でこれでいいのか判らないが、この家に米はないだろうし、そもそも作るのに時間のかかる粥をキッチンで一から作る余裕はない。
ゆっくりと食事をさせるように言ってからメルヴィッドに器を渡し、私は私で壊死した肉がこれ以上傷つかないよう清潔な布を裂き傷を覆う。無論きちんとした外科治療をしなければならず、これはただの気休め程度に過ぎない事は判っている。
「手慣れたものだな。持ち合わせがある所を見ると、治療の経験はあるのか」
『幼い頃から実家で、肉の腐り落ちた方々を相手していた程度です』
私達に敵意がない事を理解した、というよりも、極限状態で食べ物しか目の入らなくなったのだろう。少ない体力で獣のようにがっつこうとするハリーを躱しながらメルヴィッドがゆっくりと食事を与えていく。意外に上手い。
視線がそう語ったのだろう、メルヴィッドが私を見て言った。
「お前も知っているだろう。不本意だが、私は孤児院育ちだ」
『昔の経験が、こんな所で役に立っては欲しくありませんよね』
「同感だ。嫌な記憶ばかり蘇る」
メルヴィッドが遠くを見て呟いた。リドルも自分とハリーは似ていると評し重ねて見ていた事があったが、もしかすると彼もそうなのかもしれない。多少歪ではあったが、裕福な家庭に生まれ愛されながら育った私には判らない共感だ。
他に何も言えることがなく、口を噤んで視線を戻した。胃が満たされていくにつれ、目の前のハリーの血色が少しだけマシになって行く。しかし、それでも健康的とは言い難く、他の子供に比べれば遥かに及ばない。
器の中を綺麗に平らげたハリーはまだ物足りなさそうな顔をしていたが、胃に物が詰められて多少安心したのだろう。しばらくもしないうちに瞼を下げ、やがてベッドの上で丸くなり寝息を立て始めた。
ひとまずハリーはこれでいい、問題は背後で私を見下ろすメルヴィッドだ。
「驚かなかったな」
嫌悪が滲んだ赤い瞳が得体の知れないものを見る目で私を射抜く。怒りが噴出している。予言から外れ、自らを殺す存在ではないハリーに同情しているのだろうか。
「貴様は、は、ハリーがこうなっていると判っていたのか」
『ええ。寧ろ、貴方が気付かなかった事の方に少々驚いています』
少し考えれば判ります、と私も彼を正面から見る。
この事態は予測出来たのだ。彼にだって私の知る、私の世界のハリー・ポッターという存在を伝えた。私は知り得る限りを伝えたはずだ。
『言ったはずです。この家、ダーズリー家の性質を。孤児のハリーを引き取った伯母は見返りとしてダンブルドアから保護され、大なり小なり恩恵も受けたはずだと。この世界ではハリー・ポッターがネビル・ロングボトムに成り代わっていると。これで十分でしょう』
「判らない」
頭の回転が速い彼にしても返答が早過ぎる、反射的に答えただけで何も考えていないし、判断もしていない。
仕方がないので視線を伏して大きな溜息を吐き、メルヴィッドに私の考えを述べる。部下に恵まれないことの他にも、情報を読み取れず熱くなり過ぎるというのも問題だ。第一、それは私の役目のはずだ。
勝手な話だが、私は彼が常に冷静で在って欲しいと望んでいる。そう望むくらい、計算高い彼の思考は貴重なのだ。
『落ち着いて、きちんと考えて下さい』
この世界のハリーは、闇の帝王を退け生き残った男の子ではない。ただ単なる、ハリー・ポッターという名前の少年に過ぎないのだ。
その少年を、あのダンブルドアが手厚く保護すると思うか、答えは否だ。そんな事はありえない、有り得るはずがない。
事実、私の世界のネビル・ロングボトムは魔法界の組織やダンブルドア個人から保護も援助もされず、祖母に育てられたのみだった。そもそも、あれがその手の情を持つ男ならば、私は今、ここに居ない。
ただの子供に過ぎないハリーがダーズリー家に居る。彼は英雄ではなく、数えきれないくらい起こった事件の中で生き残った被害者の子供の一人に過ぎない。しかも、同時期に現れたネビル・ロングボトムが居る所為で、誰からも気に留められない影のような存在だ。
状況から更に推測を続ける。託児されているという事は、少なくとも両親は死亡か精神崩壊中であり、後見人のシリウス・ブラックはアズカバンだ。人狼であるリーマス・ルーピンやダブルスパイのセブルス・スネイプは都合が悪く幼児を引き取れない。ピーター・ペティグリューは裏切り者で逃亡中、問題外だ。
「孤児院の方がマシだな」
『そこが一番の問題です』
「どういう事だ」
やや冷静さを取り戻しつつあるメルヴィッドに推測を続ける。
『ダーズリー家にとってこんな面倒な存在は、託児されても即孤児院に送りになります。それなのに彼等はハリーを引き取り、ぎりぎりの状態で生かしている。英雄でもなく、恩恵を受けることもないただのハリーを引き取る理由は、恐らくポッター家の財産です』
「……確かに、ポッター家は純血一族の中でも没落しなかった貴重な家の一つだ。跡取りが産まれ辛い事を除けば、だったが。いや、だからか。ハリーは最後の一人なのだな」
『そういう事です』
養育費を毎月受け取っているのか、ハリーが成人した暁にはポッター家の財産の何割かを受け取れるのか、或いはその両方か。契約内容までは判断付かないが、その付近のやり取りはあったと見て間違いない。
『しかし今の時点で全ては推測、云わば私の妄想です。思い込みで動くのは危険極まりないので、念の為、確認を取りましょう』
メルヴィッドが安易に暴走しない事を確認した後、私は手元にこの家が利用している銀行から送られた明細の束を出現させる。呼び寄せても良かったのだが、その時に発生する音で起床されても困るので一度消失させてから手元で出現させる方法を選んだ。
何の書類か理解出来たらしいメルヴィッドも、私の手元を覗き込む。推測通り毎月銀行から、しかも馬鹿正直にグリンゴッツ協同貯蓄銀行とそれらしく名前を偽った場所から一定額が振り込まれており、養育費としての金額も相場の倍以上あった。
『決定打ですね……って、メルヴィッド。貴方何する気ですか、止めて下さいよ』
「止めるな、この家のマグル共を皆殺しにしてやる」
『杖を構えたまま阿呆な事を仰らないで下さいませんか』
ここでようやく、冒頭に戻る。
人命軽視も甚だしい虐待と財産の搾取からか、ハリー自体を気に入ったしまったのか、怒りで染まっているメルヴィッドに冷静になれと声を掛ける。これで冷静になってくれたら世話はないので再び彼独特の損得勘定と倫理観を刺激するよう畳み掛けた。
『得意の死の呪文でも唱えるつもりですか? そんな事をすればすぐにではなくても、いつかは存在が知られて本体の分霊箱ごと破壊されてお終いですよ。それでなくても貴方はその顔のまま間もなく別人として戸籍を得るのですから、時期的な符号も相まって犯人の最有力候補としてダンブルドアに怪しまれます。足が付かないよう正攻法で攻めると決めたのならば、徹底して下さい』
「ならばは、これを黙って見過ごせと言うのか。お前が助けたのだろう」
獣が唸るような声でメルヴィッドが恫喝するが、無論そんな物は効かない。代わりに私の意志を提示しておく。
『助けるかどうかは、ハリー自身がどうするかで決まるので微妙ですね。それと、私は一言だって殺すなとは言っていませんよ、やり方が駄目だと忠告しているんです』
後半の台詞にメルヴィッドの杖が僅かに動き、やがてゆっくりと下げられた。私の言いたかった事が伝わったらしい。
「策はあるのか」
『どれもこれも、凡人が考え付く模倣の策ですよ。しかし実行するには同意が必要なので』
「私のか? それならば」
『いいえ、今回は違います。同意の必要があるのは、ハリー、貴方ですよ』
私達の喧しい会話に起こされたのか、ずっと前から目を覚ましていたハリーは、まさか見破られていると思わなかったのかびくりと反応してから固まった。得体の知れない何かを感じたのか、獣の警戒姿勢で私を見る。
その得体の知れないものの正体は打算から来る死と不幸だ、とは言わず、私は出来るだけ優しい笑みを浮かべてハリーに問いかけた。
『ハリー。貴方は目の前の化物に、魂と血肉を売る覚悟がありますか?』