アーモンドのドラジェ
「陰気な家だ。とても財産を貯め込んでいる人間の家には見えない」
『貯蓄癖があるなら兎も角、人生の終着点が見えたから突如自棄になり寄付であろうと財産を使い果たすような精神構造の方は最初から除外しています。それに陰気だと仰いますが、お体が芳しくなくて手入れが出来ていないだけなんです、元は薔薇が咲く綺麗なお庭だったそうですよ』
「庭に薔薇か、凡庸で悪趣味だ」
『悪趣味、ですかねえ』
私はそういった凡庸な庭園が好きなんですが等と余計な事を言いながら浮かせた杖でノックをして、返事を待たずドアの鍵を開ける。先に彼を通し、再び鍵をかけてから投函口の下に広がった郵便物を魔法で拾い上げて我が物顔で階段へ向かった。この家の間取りは外観と同様に典型的なテラス・ハウスなので苦もなく覚えられる。
『一応簡単に説明させていただきます。玄関からすぐ左手は倉庫、右手にリビング、奥がダイニングルームとキッチン。上はバックに主寝室、フロントにゲストルーム、それに子供部屋が2つとバスルーム。あとは屋根裏ですね』
半開きのドアから部屋の様子が見えたのか、綺麗な形をした眉が顰められた。どういったものが見えたのかは、手入れが行き届かず荒れ果てたフロントガーデンと婦人の現状を考慮して察して欲しい。
「まるで魔窟だ。病気で老い先短いと聞いて多少は覚悟していたが、庭以上に汚いな」
『貴方が合意して戸籍を手に入れた場合は真っ先に片付けたいと思っています』
「是非そうしてくれ」
本日付けの新聞を流し読みながら返答をすると、意外にも素直に頼まれてしまった。魔法を使おうと自分で片付けるのはうんざりだと顔に書いてある。彼は取り立てて潔癖症という訳ではないと思うのだが、魔法使いの感性を以てもこの家は汚部屋や塵芥屋敷といったものに分類されたらしい。
本来ならば今すぐにでも片付けて本来の部屋としての機能を取り戻したい所だったが、現状では何時NPOの人間が来るとも判らないので不用意に手を触れることが出来ないのだ。それでなくても彼女にしか判らない大切なものもあるだろう、邪魔だからといって勝手に捨てるのは忍びない。
清々しいとは言い難い表情で宙を漂う彼に家の説明をしながら暗い階段を登り、明かりの漏れる主寝室をもう一度杖で叩くと弱い女性の声がどうぞと入室を促した。
一度、隣の青年を見上げてみるといつの間にかちゃんとした、というよりも毛並みのいい猫を4匹程被ったような非常に人当たりの良い顔を作っている。先程まで家の汚れ具合に不快そうな顔をしていた人間と同一人物とは思えない、大したものだ。
アイコンタクトで軽い会話をした後で私がドアを開けると彼の被る猫の量が1.5倍程増加した。物腰の柔らかい、年齢を問わず女性に受けそうな青年にしか見えず、演技とはこうやるものなのかと素直に感心してしまう。
そういった思考を表面に出さないようにして視線を動かす、寝室であるからかこの部屋は他に比べて散らかり具合は酷くない。手近に引き寄せたはいいが片付けられなかったのだろう、物が散乱しているベッドの上では枯れ枝のように細い女性が横になっていた。
『こんばんは、メアリー。今日も寒いようですけれど、よかった、顔色がいいですね。新聞は、いつもの場所に置きますね』
「ありがとう。こんばんは、今日は体調も気分もとても良くて。待ちに待った日ですもの。それで、そちらの方が?」
「初めまして、ガードナーさん。私は……メルヴィッド、メルヴィッド・ルード・ラトロムと申します。今回の件に賛同していただけて、本当に、なんとお礼を言えばいいのか。こうして貴方と直接お会い出来て良かった」
ああ、結局あの名前を使うようだ。少し空いた間はどう名乗るべきなのか躊躇ったのだろう、彼女に悟られないよう赤い瞳が非難するように私を見たのだが、これも私が悪いのだろうか。気に入らないのならば別の名前を名乗ればいいのにと思う私が悪いのか。
水面下で何が起こっているのか理解していない彼女はふんわりと笑い、私と……暫定的にメルヴィッドと呼ぶ事にしよう、彼に背の低い小さな椅子を勧めた。しかし当然座れる身ではないので丁重に、それこそメルヴィッドに至っては穏やかな声で馬鹿が付くぐらい丁寧に断りの返事をする。
彼は自分がどう動けば女性の心を掴む事が出来るのかよく知っているのだろう、更にこの容姿なのだから相乗効果は計り知れない。
これは空気が読めない私が変に口を挟むよりもメルヴィッドに全てを任せた方がいいのだろう。たった数秒の出来事だというのに、既にメアリーの心は彼に掴まれ、会話を弾ませているようだ。
たとえば、こんなにも細い貴方を見て胸が痛んだとか、薔薇の花が好きなんだとか、美しく花が咲いた庭園をまた見せてあげるだとか、物凄い勢いで嘘を並べても平然としている事に感心する。他人との齟齬が妙に多い私は大袈裟な嘘も引っ括めてこの社交性溢れる彼を見習うべきなのだろうが、しかし話術以前にあの仮面が被れそうにないので無理そうだと早々に諦めた。人間には得手不得手があるのだ、と言い訳がましいことを考える。
二人の会話を邪魔しないよう壁際にゆっくりと後退して、日本人特有の曖昧な笑みを浮かべたまま事の成り行きを見守ることにする。見守るとはいっても主導権を握るメルヴィッドが彼女を気に入るかどうか、だけなのだが。
解れを直した透明マント下で、もぞもぞと動くうさぎのぬいぐるみから魔力を取り上げて普通の人形に戻し、二人の邪魔にならない程度に部屋を見回した。薔薇の手入れの方法が書かれた手書きのノート、美しかった頃の庭の写真と花の種、植物の図鑑にプランターや肥料のカタログ、溶液の残った古い除草剤の瓶、咲く事なく枯れた球根。この部屋の中で昨日と変わったのは、痛み止めの薬の中身が減った事くらいだろう。
私が連れて来た、パステルカラーのアイシングで彩られた言葉が部屋を満たしている。綺麗な嘘に塗れたメルヴィッドの言葉を熱心に聞いている薬漬けの彼女は、あと何日生き延びる事が出来るだろうか。私は現代、近代問わず医学に対して明るくないが、それでも死期が近い事だけは判る。
何故なら彼女は、私を認識出来るのだから。
「ええ、書類の方は私が作っておくから、貴方は何も心配しなくていいの」
「ありがとう、メアリー」
何時の間にか砕け始めていた口調を耳が拾い、ふと意識を二人に向けると既に話が大分纏まっていた。てっきり長時間思考に漬かっていたのかと思い時計の針を盗み見たがそれ程時間は経っていない。メルヴィッドの目の奥が感情を押し殺し過ぎて死んでいたが、もしかして彼はこういった年配の女性を相手するのが苦手なのだろうか。
そういえば、リドルも骨董屋勤めの頃に資産家の女性の相手をしたらしいが、こんな死んだばかりの魚のような目で当時の事を語っていたような気がしないでもない。同じ老婦人でもお祖母様は大丈夫らしかったので、年齢ではなく一定のタイプの女性が苦手なのだろう。そうならば少し悪い事をしたかもしれない、私は交渉術こそ苦手だが、別に彼女の事が得意でも苦手でもなかったので。
「一日でも早く、貴方の義息子になれる事を祈ってる」
「いいのよ、メル。私の可愛い子」
ああ、今、行き場をなくしたドス黒い殺気が私に向けられた。メル呼ばわりが嫌だったのか、それとも可愛い子に腹が立ったのか。きっとどちらもだろう。
「それじゃあ、今夜はここで」
「まあ、メル。一緒に居てはくれないの?」
「ごめんなさい、メアリー。さっき言った通り私の体はまだ完全ではないんだ、だから」
温度を持たない透明な手が彼女の手の甲をなぞるように離れると赤い視線が私の腕に注がれた。ぬいぐるみ、と一緒に入っている分霊箱をご所望らしい。
相変わらず目の死んでいるメルヴィッドに可愛らしいうさぎのぬいぐるみを手渡すと、一瞬だけ呪い殺さんばかりの顔で見下ろされる。これは後で生気を奪い尽くすと宣戦布告されていると取ればいいのだろうか、受けて立ちたくないのだが。
「これを、私だと思って傍に置いてくれないかな」
「あら。メルは以外に可愛い趣味をしているのね」
「可愛い方が、貴方が喜ぶと思って」
貴方が、の部分を強調して言ったメルヴィッドは背中で語っていた。私を殺ると。
「それじゃあ、おやすみなさい。メアリー」
「おやすみなさい、メル」
メルヴィッドは儚げに微笑むような演技をして、その場からすうと音も無く消えてしまった。姿が見えないだけであってその場に居るのだが、彼女に真実を話す必要はないだろう。
「……いい子ね、とっても」
『彼も男の子ですから、あまり子供扱いすると拗ねてしまいますよ』
「あら嫌だ、私ったら」
ふんわりと笑う彼女に私も笑みを返し、一歩前へ踏み出した。話は纏まった、これで私が彼女に会う理由もなくなる。
「ありがとう。あんないい子を紹介してくれて」
『短い間になりますが、どうか、大切に接してあげて下さい』
「ええ、勿論」
私が二度と姿を表すつもりがない事を感じ取っているのだろう、メルヴィッドが消える時とは別の表情で彼女は私に向かい合っている。
『それでは、メアリー』
「ええ。私に幸福を齎してくれた、名前も知らない貴方」
本当に、心から幸福そうな彼女の視線に送られ部屋を後にした私は、速度を緩めることなく家を出て、人気のない路地裏に入るとそのまま一人静かに夜の闇の中に。
「爺、ちょっと面貸そうか」
消えられるはずがなかった。
隣を見ればメルヴィッドが空中で仁王立ちしていて、先程まで被っていた猫は捨てたのか殺したのか判らないが兎に角被ってはいなかった。
彼から溢れ出る禍々しさに、夜の散歩を楽しんでいたらしい猫が尻尾の毛を逆立てて逃げていった。可哀想に。
『それはカツアゲの台詞ですよ、この場合は随分昔に流行した親父狩りなんでしょうかね。ええと……メルヴィッドと呼んで宜しいですか?』
「なんでもいいから来い」
有無を言わさず更に人気が全くない場所まで先行するメルヴィッドに大人しく付いて行くと、道の先に現れる野良犬やドブネズミも異様な気配に恐れを成したのか次々に道を譲る。唯一彼に立ち向かっていくのは羽虫くらいなのだが、虫は殺気を拾えないだけなので勇敢とはとても言い難い、どちらかというと無謀だ。
夜の闇を往く背中から目を逸らし溜息を一つ吐く。太くも厚くもないが逞しい青年の背中からは、鬱憤からの陽炎が昇っている幻覚が見えた気がした。