曖昧トルマリン

graytourmaline

キャビアを添えた小さなパンケーキ

 どうやら私はゴーストですらないらしい。そう思い至った理由は至極簡単で、ホグワーツのゴースト達に存在を認識されなかったからだった。
 廊下を徘徊するゴーストも、寮付きのゴーストも、魔法史の教師であるカスバート・ビンズ教授ですら私に気付く事なく抑揚のない調子で授業を進めていた。尤も、最後の彼は常にこんな様子なのだろうが。
 魔法界の歴史の方も生き残った男の子がネビル・ロングボトムになった事以外は特に代わり映えがなかったかのように思える。随分昔に丸暗記した年表がこんな事に役に立つとは思わなかったが、これからは色々と変化していくのだろうから以降は意味がないような気がしないでもない。
 リドルに勉強の手解きをして貰っていた昔懐かしい思い出に浸りながら誰もいない夜の廊下をあてどなく探索していると、偶々通りかかる猫や梟が体をすり抜けていった。陽気な様子で夜を徘徊する彼等もまた、私の事を認識していないのだろう。
『さて、これからどうしましょうか』
 大体の場所を行き終えて、一応ダンブルドアの顔でも見ておこうかと校長室に忍び込んだはいいが、生憎何処かへ出張中だったらしい。顔を見たから何という訳でもないので居ないのならば居ないで困りはしないのだが。
 私の世界と同じ顔触れの歴代校長の肖像画を眺めながら横に移動し、棚の中の物も一つ一つ確認していくと、見覚えのある水盆が奥の方で鎮座していた。銀色に発光する液体が収まる棚に囲まれている事から見てペンシーブに間違いないだろうが、私がしようとしているのは嫌がらせであって家捜しではないし、何よりもあの男が集めている記憶を見るのは怖い。どうせ、碌でもないものばかりなのだから。
『うん?』
 ペンシーブで思い出した。否、ペンシーブとは全く関係ないのだが、そういえば校長室にはあれが保管してあったはずだ。それに、あれがこの世界にもあるのならば、私よりも優秀で効率的な人物が自発的に嫌がらせをしてくれるはずだ。
 ただ彼が私の世界の彼と同じ性質ならば、あれ特有の厄介な性質と大本である彼のちょっと間が抜けている傲慢さが玉に瑕となるかもしれない。それとダンブルドアを勢い余って殺すというか、嫌がらせの過程をすっ飛ばして死に至らせるという可能性の方が遥かに高い。
『別にそれならそれで私が動けばいいんですけれど……矢張りありますね』
 隠すように、というか事実隠しているのだろう。部屋の隅の一見何も無さそうな場所に保管されていた本のタイトルを確認すると、私の世界の物と同じ物がそこにあった。
 これが校長室にあるということは、彼は私の世界と同じ状態と考えていい。でなければ、ネビル・ロングボトムが存在し、此処にこの本が隠されている理由が思い付かない。
『幸いあれの一つがガラクタと一緒に埋もれていたはずですが。それにしても、此処の彼は本当に不憫な最期でしたよね』
 誰も居ない部屋の中で独り言というのも寂しいので、取り敢えず近くで眠っていた不死鳥のフォークスに同意を求めてみたが、彼もまた私を認識しなかった。確定はしていないが、ホグワーツを巡る中で徐々に私を認識出来る存在の振り分けが判ってきたような気がする。
 予測が正しければ、彼は私を認識するはずだ。
 そうとなれば早目に行動を起こした方がいいだろう。あれは確か8階の必要の部屋に行けば手に入る。こんな形なので部屋に入る事が出来ない場合は他の彼でも構わないが、矢張り私の居た世界で味方に殺されたという不遇さが際立つので可能ならば彼を動かしたい。
 未だに眠っているフォークスにおやすみを言って校長室を出ると、外はすっかり深夜の支度をし終え、しんとした空気に支配されていた。相変わらず雲はうっすらと空を覆っているようで星も月も見えない。
 松明の明かりを頼りに暗がりの中で廊下を進み、階段を登っていると、時折生き物が必死に鳴いている声を耳にする。恐らく誰かの飼い猫や梟が鼠や蛙を貪っているのだろう。
 以前から不思議に思っている事なのだが、鼠は兎も角、蛙は誰かのペットなのではないのだろうか。だとしたらホグワーツは配慮のない場所なのかもしれない。きっと表沙汰にならないだけで毎年誰かのペットが誰かのペットに食べられたとか、そういった事件が起こっているはずだ。
 他人のペット事情という非常に下らない事を考えながら寒々しい夜の階段を登り切ると、今度は暗闇の中でトロールのタペストリーを探す。確かその前で必要な事を強く念じながら3往復すると反対側の壁に扉が現れるはずだ。傍から見ると結構間抜けな光景かもしれないが幸い私の姿は大抵の存在に認識されない。
『ええと、確かこの辺りで見たような気がするんですが。ああ、ありました』
 まだ夜が更けていない内にホグワーツを周ったのが幸いだったようで、目的の場所は思ったよりも簡単に見つけることが出来た。夜中でも構わず踊り呆けているタペストリーの人間の前で3往復すると意外に呆気なく反対側の壁に扉が現れる。必要の部屋は私のような存在でも干渉が可能らしい。
 光に照らされた大聖堂のような内装と、そこを三次元的に埋めるガラクタを眺めながら思わず溜息を吐いた。たった4人でよくこんな部屋を作れたものだ。後世の為にこういった仕掛けを作った創設者は矢張り天才だったのだろう。
 何か無機物のような物に羽の生えた訳のわからない物体が目の前を横切り、私を思考の世界から帰還させる。そうだ、取り敢えず今はあれを探す方が先決だ。一つ一つ確認する作業はやや手間だがここにある物は有限だ、年代的に見て手前にある物の方が新しいように見える。ならば今の時代から考えて奥から根気よく探せばその内見つかるだろう。
 元の体があれば少しは楽になったかもしれないが、ないものは仕様がない。部屋の奥まで通り抜け、うず高く積まれたガラクタや貴重品をざっと見て回っていると入り口付近でぺたぺたという足音と共にかしゃん、やら、かたんと音がした。部屋の中のガラクタは焦げた服や壊れた家具や欠けた食器類がほとんどなので、もしかしたらホグワーツのハウスエルフが己の失敗を隠す為に日に何度か訪れているのかもしれない。
 よく考えると随分怖い職場環境だ。ホグワーツ内では次の予算申請等をどういった手順を踏んで行なっているのだろうか。年度末の書類整理中に備品項目の不備で発狂する人間が出てきてもおかしくない。但しこの魔法界に事務方の存在があるならば、の話だが。
 そんなあるかどうかも判らない事務方を悪い意味で唸らせる物が、視界の右から左へと抜けていく。何の材料をどう調理したのか無数の穴の開いた料理用の大鍋、熊程の大きさがある白骨化した謎の生物の死骸、開閉厳禁という札の貼られた衣装棚、そういった大きな物に紛れて置いてある薬瓶や水晶やぬいぐるみも視界に入れては頭の中で排除していく。
 ただひたすらに単調な作業を1時間半か、2時間程繰り返した頃だろうか。地道な作業が功を成したのか、薬品を被り表面が酷く荒れた戸棚の傍で私はようやく目当ての物を発見した。
 元は何処かに置いてあったのだろうが何かの拍子で床に転がされてしまったらしい。見るからに歴史のありそうな黒ずんだ髪飾りは、触れる事が出来ないので詳細までは確認出来ないが私が探していた物でまず間違いないだろう。
 レイブンクローの髪飾りを使った分霊箱ホークラックス、リドルの魂の一部が入った彼の記憶。私の世界にはもうどれも存在しない、彼の欠片。
『……ひとまず、目覚めさせてみましょうか』
 もう随分と昔の事となってしまった彼の記憶に心が揺れた。じわりと蘇った感傷を振り払い、言葉を出して行動を促すと口唇が震えていた事に気付いた。これから会う彼は私の知るリドルではない事が判っていても、揺さぶられた記憶は抑え切れない。
 気持ちを落ち着かせるために深呼吸をして雑念を追い払い、足元の髪飾りを見下ろした。魂を込める、というのはやや抽象的だろうか。要はこの部屋の扉を出現させた時のように強い気持ちを髪飾りに持てば、思っていたよりも随分簡単に彼は私の前に姿を表した。予想ではもっと多くの魂、というか生気を持って行かれると思っていたのだけれど、どうやら彼は少食の部類に入るようだった。
 年齢は20代の前半辺りだろうか、少なくとも私の幼少期に出会ったリドルよりは若い。目の前の彼は少年から羽化したての美しい青年で、男盛りにはまだ早い年齢だった。
 ただ、矢張りこうして見てみると私の知っているリドルではないという事がよく判る。私の知っているリドルはこんな目をしておらず、もっと表情の豊かな人であった。
 しかし分霊箱ホークラックスのリドルにしてみれば私の言い分は勝手なものだろう。この世界では彼こそがリドルなのだから、私の知っているリドルと比較されるのは心外なはずだ。
 そのリドルはというと、何か語りかけられる事もなく突然呼び出されたせいもあり、自分の置かれた状況が飲み込めない様子だった。眠たげな赤い目で私を見下ろした後で周囲を見渡し、また私に視線を戻した。この場所は理解出来たが体の透けた着流しのアジア人という存在が混乱を招いているらしい。
 彼の瞳は取り敢えず人当たりのいい男を取り繕って私から情報を引き出そう、というような思考の片鱗を見せた。大抵の人間なら気付けない、混乱から微笑に変化する僅かな間だったが、これでもあちらの世界ではリドルに育てられた身なのでその程度の付け焼刃ではすぐに判ってしまうのが物悲しい。
 このまま彼に騙されて色々と情報を提供するのが年寄りの優しさなのかもしれないが、生憎この世界に来たばかりの私では与えられる情報は少なく、何よりも嘘が下手なので騙されている演技を継続出来る自信が全くない。ここに飛ばされる前に父が言っていた、本当の事を隠すというのは割と苦手ではないのだが。
『こんばんは』
 取り敢えず、挨拶という形で会話を試みる。先程の視線から考えても彼は私を認識しているはずだから、それは可能だろう。
「やあ、こんばんは。今は……夜なのかな? 初めまして、異国のお嬢さん」
 予想に違わず彼は私を認識した、生物学的に女性でもなければ中身も若くはないので若干的外れな形ではあるが。
 兎に角、彼が私とコミュニケーション出来るのならば先手を打ったほうがいい、別に彼を騙す為とかではなく、自分が質問して得た回答のみで行動する性質がリドルと一緒だった場合、とんでもない方向に転がっていくのを阻止する為である。
 否、恐らく少ない情報で暴走する性質は変わっていない。変わっていたら生き残った男の子などこの世界には存在していないはずだ、もうちょっと落ち着いて行動しろと嗜める部下がいないワンマン気質も変わっていないだろう。
 彼はその過去の記憶だ、間違いなくその素質を持っているに違いない。今ここで復活してすぐにダンブルドアに見つかり全分霊箱ホークラックス中で真っ先に破壊されました、では笑い話にもならなければ泣ける話にもならない。どうしてもカテゴリー分けをするならば、間抜けな話だ。
 目の前で好青年を演じている年若い子を不憫なお笑い要因にしたくないからこそ行動したというのに、そうなっては本末転倒である。まずは、それを伝える為に彼が作った意識の壁を壊そうか。
『こちらこそ初めまして、トム・マールヴォロ・リドル君。それとも闇の帝王か、ヴォルデモート卿と呼んだ方が適切でしょうか』
「……お前は何だ」
 一瞬の驚愕の後、作り物の笑顔は崩壊した。
 赤い目が私を睨んでいるが、リドルがこうして怒っているのは昔からよく見ていて慣れているので怖くはない。そもそも、精神的な対戦に於いて枯れた爺と20代の青年では暖簾に腕押し糠に釘、分が悪いにも程があるだろう。
 昔の私と、アルバス・ダンブルドアがそうだったように。
と申します。日本人で異世界人で未来人です』
「へえ?」
 本当の事を言ったのだが頭からは信じてもらえず、やる気が一気に削がれたようで、リドルの視線が生暖かくなった。宙で長い足を組んで頬杖を付き、一応名称を言い当てたから話半分くらいには聞いてやろう、という態度が丸出しである。
 あちらの世界のリドルは私にそういった態度を取らなかったので、中々新鮮な体験だ。それに若いリドルは思ったよりもふてぶてしくて可愛らしい。
 当時は一方的に遊ばれる姿に同情したものだが今ならお祖母様がリドルでよく遊んだ意味が判らないでもない。この傲岸不遜な態度を崩しに崩して慌てふためく様子を見るのが楽しかったのだろう。私はしないし、出来ないけれど。
『そう警戒なさらないで下さい。別に取って頭から喰おうなんて思っていませんから』
「私が警戒しているだって? 目の前の頭の残念な人間に呆れてるだけだよ」
『まあ、私の頭が残念なのは否定致しませんが』
「しないのかい?」
『見た目に惑わされてはいけませんよ、このような姿形ですが中身は前時代的な脳筋なんです。なので、優秀な方にお知恵を拝借させて頂きたく思いまして』
「ふうん」
 聞くだけ聞いていいように操るか、代わりに無茶な物を要求してやろうか、みたいな顔を一切隠そうとしないリドルを見ているのも楽しいけれど、そろそろ本題に入った方がいいだろう。この場所も完全な無人という訳ではない、数時間前のように何時ハウスエルフがやってくるのか判らないのだから。
『実はアルバス・ダンブルドアに嫌がらせをしたいのですけれど、案が思い浮かばず困っておりまして。なのでリドル君、貴方がもう一人のヴォルデモート卿として復活する気はありませんか?』
 ヴォルデモート卿本体は現在進行形で敗走中なので、と付け加えた時の彼の驚いた表情が歳相応で可愛らしく笑ってしまったのだが、不本意だったのか凄い殺気を込めた視線で睨み付けられた。
 それでも私は、ころころと変化する表情が嬉しくして仕方がなかった。
 たとえ彼が、私の知るリドルでなくても。