おろし大根の梅干し番茶
私が憑いたからといって肉体の再生が始まる訳でも若返る訳でもなく、結局、猫の持っていた様々な痛みを味わった後で、死骸から意識を追い出された。
死に際の猫から得た感覚は老衰と重い病、飢餓と肉体損傷とそれに伴う失血という大変有難味のないもので、多量の失血で痛覚が鈍化しても相当に痛かった。少なくとも、呼吸をしない方が楽だと思うくらいには。
ただ、私が憑いていた所為で意識は何処かに消えていたようで、猫は随分と穏やかな表情で死んでいた。
これも何かの縁なので本当は土葬なり火葬なりしたいのだが、私も私で肉体がなく誰とも話すことが出来ないという厄介な状態なので、申し訳ないが手を合わせるだけにしてその場を離れる事にした。
晴れない気分のまま傾斜の緩い丘を滑るように下って村に入ると、紫や橙といった奇抜な色が家々を飾り立て、陽気とも陰気ともつかないハロウィン特有の音楽がどこからともなく流れ続けている。子供の、特に未就学児の笑い声がかなり多く聞こえるのは気の所為ではない。ハロウィン限定で子供向けの大きな催し物でもあるのだろうか。
村ぐるみの催事ならばその辺りの店に入れば情報が手に入りそうだが、同じ店に入るならホッグズ・ヘッドあたりが適当だろう。
人の多さや情報量では三本の箒が上かもしれないが、あの店は雑音が多く騒々しくて苦手だった。それに並行世界の大叔父、アバーフォース・ダンブルドアの様子も見ておきたい。アルバス・ダンブルドアが居るのならばきっと彼も存在しているだろう、そして、多分肖像画の大叔母も。
この世界の大叔父は、ダンブルドアの事をどう思っているのだろう。こちらの世界と同じ事が、あったのだろうか。
父は歴史の細部が少し違うとだけ言っていたが、そもそも歴史とは何をどこまで含めたものを言っていたのだろう。魔法界の歴史というごく一部なのか、世界の歴史という広範囲のものなのか、否もしかしたら家族の歴史というごくごく小さいものなのかもしれない。
『考えても仕方ありませんね』
意識せずに出た言葉に思考も同調する。そう、こんなものは考えたって仕方のない事だった。実際に見て回った方があれこれ考えを巡らせるよりも早い。第一、錆びた私の脳であれこれと想像しても高が知れている。
思考に区切りをつけハイストリートを示す看板を探し当て、そこから郵便局を目指して横道に入って行くとハロウィンの音楽が徐々に小さく聞こえ始めた。非常識とも思える程作業に無駄が多い魔法使いも、陰気な通りにまで音楽を垂れ流す事はしないらしい。
薄暗い通りをそのまま進んで猪の生首が描かれている看板を見つけ、擦り切れた店名を読み上げる。ホッグズ・ヘッド、私の記憶とあまり違わない薄汚れた店は、煤と埃と蜘蛛の巣だらけで窓から中の様子は伺えない。
一つ息を吐いて扉を押すように開くが、腕はそのままするりと店の中に入っていった。仕方なくそのまま全身を店内へ滑らせるが、どうにも不法侵入をしているような気がしてならない。こんな状態である以上は慣れなければいけないだろうが、適応能力が低い私にはもうしばらくの少し時間がかかりそうだ。
『こんにちは』
念の為、店に入った後で挨拶をしてみるが、私が見える人間はいないようだった。元々愛想とは無縁の店ではあるのだけれど、バーテンですら無視を決め込んでいるように見えてしまい、日本の接客サービスに慣れきっていた私にはどうにも落ち着かない。
カウンター席まで移動してバーテンの前でもう一度挨拶をするが、当然のように反応はなかった。ただ、その顔は間違いなく大叔父のもので少しだけ安堵する。大叔母の肖像画もあったが、彼女も私の存在を認識してはいないようだった。
埃の積もった床、薄汚れた食器類、洋蝋燭の僅かな照明だけが点けられている店内は後暗い事がありそうな客をぽつりぽつりと浮かび上がらせている。額を寄せ合うようにして会話をする客の間を抜けて店内を軽く観察し、最後に壁に貼り付けられたポスターに近寄る。視力は悪くないが、照明が頼りないのでかなり近寄らなければ文字を読む事が出来ない。
『……おや?』
ゴシック体の白抜きの文字で5thアニバーサリーと書かれたポスターの端に、魔法省が主催で生き残った男の子がホグズミード村に来るイベントが行われるという内容が綴られていた。そして、その少年の名前が私の世界と違っている。
少年の名前は、ネビル・ロングボトム。
ハリーと共に予言を受けた、もう一人の男の子。この世界では、ハリーではなく彼が生き残った男の子となっているようだった。
父の言っていた事はこれか。否、私の世界に居たハリー・ポッターという子供は90年代に魔法界で起こった混乱の中心に居た人間だ、今は僅かな誤差だが歴史の差異がこのままで終わるはずがない。
『唯でさえ面倒な状況なのに、更に面倒な事になりましたね』
自分の知っている歴史ならばダンブルドアの行動を予測する手間も省け先回りが出来るのだけれど、これを見るにそうも行かなくなった。これを歴史の細部と言い切ってしまう父の器が恨めしい。確かに見る人から見れば細部に違いないのだが。
これは少しばかり、この世界の歴史を学ぶ必要があると感じながら店を出る。幸いここはホグズミード村で、目と鼻の先にはホグワーツがあった。図書室へ行っても物に触れられないので、申し訳ないが魔法史の授業に潜り込ませてもらおう。
もしかして、父はそこまで見越してホグズミード村に私を送り込んだのだろうか。何の説明もないまま直接ホグワーツやダンブルドアの元に送り込まれていたら、この差異に気付くのはもっと遅れていただろうから。
『でもやっぱり、こんな世界に送って欲しくなかったというのが一番なんですけれど』
諦めが悪いと言われそうだが、何度でも出てしまう愚痴に溜息を吐いてハイストリートまで戻る。このままホグワーツへ行っても構わなかったが、郵便局の時計を見ると丁度ロングボトム少年が広場に来ている時間だと気付き、顔だけでも見ておこうと足を向けた。
詳しい場所は判らなかったが、道行く人が向かおうとする方向へと歩いて行くと簡単に広場は見つかった。
ハロウィン色の舞台の上で魔法省の役人が薄っぺらな笑みを貼りつけていて、ホグズミードの代表らしき初老の男が例のあの人が倒れて5年目だとか演説をしているので概略だけ頭に入れておく。そしてその後ろ、舞台の一番目立つ場所に一人の老婆と一人の幼児が闇祓いに挟まれて衆人環視の的となっていた。子供は時折老婆に耳打ちされて群集に向かって手を振っている。
何も知らない無邪気な笑顔。慈愛に満ち、自らが歩んでいる道を疑っていない、輝かしい表情をした子供だった。成程、こうして実物を見ると確かにいい広告塔だと納得する。少年からは養殖された英雄の気質が既に見え隠れしていた。
周囲の大人達からよく躾け、あるいは教育されている少年、と呼べばいいのだろうか。将来ヴォルデモートや別のテロリストが出現した場合、真っ先に出される駒だ。
虐待されて育ったというハリーとは違い、取って付けたような愛の中で贄となるべく育てられているこの子には芽生えるのだろうか、今の腐り溶けた魔法界を盲目的なまでに守ろうとする意志が。
その辺りは、この子の周囲に控えている調教師の腕の見せ所という事か。まだ右も左も判らない今から育てていれば、そういった刷り込みは容易いかもしれない。
「それでは、生き残った男の子。ネビル・ロングボトムから皆様に一言……」
今までだらだらと喋っていた村の代表らしき男に招かれて小さな子供が壇上にあがるや否や、辺りは息苦しいほどの熱狂に包まれる。子供は狂喜して親は体を震わせて感激し、老人は涙を流すその様は悪い意味での宗教のようだ。私の世界でもダンブルドアやハリーに対して若干の宗教っぽさはあったものの、流石にここまでではない。
台本を喋っている子供を見る必要性は感じられない。見物はもういいだろうと切りを付け、たどたどしく喋る声に背を向けて広場から離れる。ホグワーツへと向かう通りは人影もほとんどなく、灰色の寒々しい風が薄汚れた新聞紙をもみくちゃにしながら吹き上げていた。
足元に叩き付けられたその新聞に例のあの人が消えて5年と見出しが書かれているので、村代表の話やポスターから考えて恐らく今日の新聞で間違いないだろう。
『1986年10月31日の金曜日、ですね』
ここで私はようやく、何時の時代の並行世界に来たのか知ることが出来たのだった。