花飾り切り人参と小籠包
初っ端から話が逸れてしまった。
何を伝えたかったと言うと、遠退いた意識が覚醒した際に私は不思議の町ならぬ魔法使いの村に居たので、思わずそういった関係のない事をまず考えてしまったのである。
日本のドが付く田舎の山中からスコットランドの辺鄙な村はずれに飛ばされたのでこれくらいのリアクションは許して欲しい。素数を延々数えるよりは幾分か有意義だろう。
落ち着いてはいないが何時までも現実逃避しても仕方ないので、そろそろ腹を括って目の前の様子を確認しておこう。
私の居た世界でホグズミードと呼ばれていた眼下の村は、ここから見る限りそう変化はしていない。通りの数や各店の配置まで事細かに覚えている訳ではないので断言は出来ないけれど、遠くに見える叫びの屋敷の荒れ具合から見るとリーマス・ルーピン入学後の時代とまでは推測できる。
こちらの世界でダンブルドアが死んだのは1997年の6月なので、この世界もそれに則っているのならば今私が居るのは70年代から90年代前半辺りだろう。流石に90年代の半ばに投げ入れてゼロから嫌がらせの準備をさせるような父ではないと思いたい。
……不安になったのは目を瞑ろう。兎に角今の私に必要なのは情報だ。
父はこの世界と私の世界とでは微妙な誤差があるような事を言っていたので、その辺りも調べたい。出来ることならばその誤差を説明してから旅立たせて欲しかったし、もっと言えば旅立たせないで貰いたかった。
両親祖父母が嫌がらせをし過ぎてダンブルドアが廃人になっても構わないので、私を縁側でのんびりする老人のまま放置しておいて欲しかった。
嫌ならば何もしなければいいのに、来てしまった以上何かをしなければいけないと思ってしまうこの気持は貧乏性に分類される事項なのだろうか。否、今まで隠していたダンブルドアを恨む気持ちが思っているよりも強いだけなのかもしれない。
『難儀というか面倒臭い性格』
独り言を言いかけて、声の異常に気付いた。声自体は私のものなのだが、微妙にブレが生じている。例えて言うならば、そう、幽霊のような。
『……いえ、これは幽霊そのものですね』
両手の甲を目の前に持ってきて初めて気が付いた。透けている。ひっくり返して手の平を見ても、やはり向こうの風景が透けて見える。視線を下げ、墨を流したような生地に亀甲柄が浮いたように見える着流しを見て、それに包まれた両脚、腹、肩を見ても、透けていないところなどない。ついでに地面から数センチ離れた所を浮いている、近くに体が落ちていないか、ざっと確認したけれどその様子もない。
そういえば、私はあちらの世界から飛ばされる際、自分の意識が体から放り出される事を察知していた。居間には私の体が倒れたはずだ、父はそれを無視して鬱ゲーをやろうとか阿呆な事を抜かしていたが。
実父に放置されているに違いない体の回収はきっと妖怪達がやってくれるから、腐ったり死後硬直したり床擦れしたりという心配はそれ程していないのだけれど、それが原因で逃げ遅れて欝のトラウマが植え付けられていたら本当に本当に、心から申し訳なく思う。
もしかして、私はダンブルドアだけではなく父にも全力の嫌がらせをするべきではないのか。こんな状態で無ければまず真っ先に父を殴る事が正義のように思えて仕方がない。
そう、目の前に父がいて、体がちゃんとある状態ならば。所詮はない物強請りである、無くさせたのはその父だが。
……先程から逆接が父の傍迷惑な行動関係で埋まっているのは気の所為ではない。全くあの父ときたら何を考えているのか。
『第一、体のない状態で嫌がらせをしろとか、難易度が高過ぎませんかねえ』
霊体なのか意識体なのか自分の状況はよく分からないが、これで嫌がらせをするというのは困難極まりない。壁や障害物を通り抜けたり便利だと思うかもしれないけれど、それは裏を返せば何でも素通りする、つまり物すら掴む事が出来ないという事になってしまう。それ所かその辺に居る幽霊と同様に生きている人間とのコミュニケーションすら出来ないかもしれない。
お祖父様レベルに幽霊生活が染み付くとそれらも障害にはならないかもしれないが、生憎私は霊体を操る経験など持っていなかった。
私、初見のゲームはノーマルからやるタイプなんですが上位モード派の馬鹿親父。なんて恨み言を言っても始まらないのは判っている、が、それでも、収めきれないのが悪態というものだ。帰宅したら数発殴ろう、頭を。長巻の鞘をフルスイングして。
そうだ長巻、私の刀も手元にない。今の私には武器もない、そしてお金も無ければ家もない。身一つで放り出されたどころか体もないのだから、ここまでないもの尽くしだと逆に笑えてくる。否、笑わないし、笑えない。
魂一つの私に乾いた木枯らしが吹きつけた、と思う。寒暖の感覚もないので冷たいのかどうかも判らない。周囲の木が軒並み冬支度を始めているから、なんとなく冷たいような気がしただけだった。
自分の輪郭が確かめられない不安とはこういうものなのか。質の悪い地縛霊が自分が見える人間に出会うと喜んで付いて行ってしまう気持ちが判ったような気がするこの心理状況はあまり良くない。
ちょっとではなく寂しい気持ちになっていると、丘の向こうから話し声が聞こえてきた。若い女性と小さな子供の笑い声、多分ホグズミードに向かうのだろう。その先にはホグワーツ城と湖くらいしかない。
声が段々と近くなり、やがて細い道の向こうから想像通りの幸せそうな親子が姿を現した。典型的な魔女の格好をした母親と、カボチャとコウモリの飾りが付いた三角帽を被った女の子が2人、それに大きくて古いベビーカー。こちらの世界も今日はハロウィンらしい。
試しに手を振り声を掛けてみたけれど、矢張り私は気付かれなかった。そもそも、こんなスコットランドの田舎に着流しを着たアジア人が突っ立っていれば大人は兎も角子供は奇異の目で騒ぐに違いないのだから、相手が私に気付かない時点で薄々結果は見えていた事なんだけれど。
親子4人が私と擦れ違う、一方的に相手を認識だけするというのは結構辛い事だったのだな、と考え事をしている私の頬に妙な熱視線が向けられていた。意識していなくても吸い寄せられるような強い視線だ。
「あう」
「あら、どうしたのかな」
「うあーあ」
ベビーカーの中の赤ん坊が私を物珍しそうに眺め、手まで伸ばしている。もしかしなくても見えているのだろうか。
ベビーカーを覗き込むようにして付いて行きながら笑顔で手を振って返事をしてみると、私を見てすこぶるご機嫌な様子で笑ってくれた。そうか、見えるのか。
この子一人が特別なのか、赤ん坊全体に言える事なのか、この状況ではそこまで分析する事は出来ないけれど、それでもこの世界で私がどんな存在なのか少しだけ輪郭が見えた気がして安堵した。邪気のない赤ん坊が笑ってくれたので、少なくとも悪い存在ではないはずだろう。
今の所は、としか言えないけれど。
「あー」
風船のように漂いながら付いて来る私に興味を引かれたのか、赤ん坊は短い腕を伸ばして私に触れようとしていた。別に触れる事は出来ないのだけれど、こちらも手を伸ばしてしまうのは仕方がないと思って欲しい。赤ん坊というのは例外無く可愛い生き物なのだ。
柔らかい腕に触れたと感じた瞬間、物凄い力で赤ん坊の方に引かれた。そんな事が起こるなんて想定していなかった所為もあり抵抗らしい抵抗が出来ないまま視界が一転し、薄明るい曇天が目の前一杯に広がった。
ここは何処だ、一体何が起こったのか。体がうまく動かない。感覚だけが鋭敏過ぎて外界の情報が気持ち悪い。空が見えるので仰向けになっているのには違いない。何故。
「今度は急に静かになったねえ。ビックリした顔して、どうしたの?」
聞き覚えのある甘い声が頭上から、いや、これは目の前に現れたこの顔は、今までベビーカーを押していた母親だ。両脇からはそれぞれよく似た顔の姉妹が私を覗き込んでいる。まさかと思い、先程まで透けていたはずの手をみると、そこには赤ん坊の手があった。
何かの拍子で赤ん坊の中に入ってしまった、のだろう。
否、これはまずい。流石にこれはない。未だ将来性十分の子供の中に干からびた爺の魂が断りも無く入り込み記憶の上書きをするのは非生産的で不毛だし、なによりも赤ん坊とその家族が不憫過ぎる。
「よしよし。泣かなくてもいいからねー、どうしたのかな?」
我が子の危機を一切関知していない母親が私を抱き上げようと腕を伸ばしてきた。泣いているわけではなく絶望しているのだと口に出したい所だったが、唇からやっとの事で漏れたのは意味不明の喃語だった。喉も舌も、体の全てが未発達の状態で言葉が喋れる訳がない。
書庫のどこかで眠っている某漫画のキャッチフレーズである、体は子供で頭脳は大人どころか、体は赤子で頭脳は爺なんて本人も周囲も絶望するしかない。幾ら私が若作りだといってもこれはない。
迫り来る腕から逃げようと身を捩り、抜け出そうと足掻く。すると、意外と簡単に私の意識は赤ん坊から剥がれた。入ってしまった時とは違いかなり楽で、真新しい付箋を剥がす時に得る感覚に近い。
振り返って赤ん坊を見てみると、自分の身に何が起こったのか判っていない様子で短い手足を元気よく動かしていた。私と目が合うと先程と変わらない様子で笑っている。取り憑かれたせいで後遺症が発生したとか、そういったものもないようで安堵する。
気付かれるはずもないのに親子連れからそっと離れて空中で座り込み、その背中を見送ってから溜息を吐いた。あの頭がいいのに馬鹿で残念な親父は送るなら送るでもう少しまともな仕様にするか今の私の状態についての取扱説明書を同封するかして欲しい。幸先が悪い所か暗雲に満ちている。
もう一度吐いた溜息に被せるように背後で猫の鳴き声がして驚く。この状態では私の気配も持たないが、生物の気配を察知する事も出来ないらしい。
『心臓に悪い状態ですね』
騒がしくならない空っぽの心臓を服の上から抑えて振り返ると老いた赤い猫がいた。脚と内臓の幾つかが欠けている、死にそうな猫だ。
自らの寿命を悟っている濁った丸い目がじっと私を見る。その目から感じたものが先程の赤ん坊と一緒で。
『ああ、君もなのか』
沈黙する心臓から離れた手を猫へ向ける。私の視界は予想通り、ぐるりと一回転した。