魔法使い、四海竜王と夢の中で逢瀬する
亜麻色の反物に若葉の音が触れ、少し脚を止めて脇を見ると団栗の新芽が腐った木の間から静かに顔を出していている。腰を屈めると視界の端を真っ白なうさぎが駆け抜け、蝉の鳴き声が灰色の空に反響しては子供の笑い声になって落ちてくる。
導くように先へ先へと走り出した笑声を追っても再び歩き出した。
この道の先には建物があったはずだと脳のどこかがそう告げ、それを目指して足を速めていく。木々の間から時折見える建物の黒い影が今目指すべき場所で、そこにはかけがえのない子供が待っているのだと漠然と理解していた。
薄灰色の光が道の先で溢れていて、そこが終着点なのだと知ると自分の中の何かに耐え切れず走り出す。一刻も早くあの建物まで行かなければ、行ってそこに居る子供に会わなければならないのだと叫ぶ義務感の塊がに手を伸ばさせた。
中指の爪が温かい光に触れ、この薄い膜を破ればあの子に会えるのだという高揚感からか滅多に乱れる事のない息が弾む。粘液の中に沈むように中へと飛び込むと、しかしそこにはの望んだ景色も、子供の姿も無かった。
西の海を隔てた大陸に伝わる、神話じみた雰囲気の硝子張りの回廊に満天の星空、塗下駄が床の石材とぶつかりあって高く長い音を響かせる。中華風とでも表現するのが適切なのだろうか、は普段滅多に見ない形をした装飾や建築技法を一通り眺め終わると柱の一つに触れてみた。
感覚の全てに現実味がない、意図せず映画のワンシーンに侵入してしまったような錯覚に眉を顰める。
「誰の夢だ?」
ぽつりと零れた声は空間内を飛び回ってからゆっくりと消えていった。人の気配がない訳ではない、がしかし、その気配が空間的上方にあるように感じて仕様がない。何十台と監視カメラが設置されている巨大なドームに放り込まれ観察されている気分だった。
は行儀悪く舌打ちすると天井を睨みつける。同時に周囲の全てが一瞬で融けて遠くで窺うように潜んでいた気配も消え、周囲の景色が反転していった。
底の見えない夜空は昼時の優しい空に、冷たく固い石の廊下は木の板が張ってある屋根裏の小部屋に、何も無かった周囲にはこれでもかという位に物が溢れ返る。
インク瓶にガラスの花瓶、鍵の掛かったアルバム、白地に花柄の紋様が描かれた金縁のランプ、童謡に出てきそうな古い大きな柱時計、飴色をした革製のトランク、セピア色の写真の束、多分全てが揃っていないであろう銀食器、割れたレコード。アンティークとガラクタの境を行ったり来たりしている物が無造作に転がり、積み上げられ、主人という存在を持たない自由の身でひっそりと過ごしていた。
「あれ、?」
天窓が独りでに開いて、其処とは全くかけ離れた場所から少年の声がを呼ぶ。
少し驚いたような顔をしている四人兄弟の末弟には目を細めてお邪魔していますと、なんでもない口調で話しかけた。
そのマイペース振りで間違いなく本人だと理解したのか、夢の中でもおっとりとした気性を崩さない少年はゆっくりしていって下さいと返事して何処かから引っ張り出した古い長椅子を勧める。
部屋の容量的にはそんな物を仕舞うスペースも置く場所も全く見当たらなかったが、そこは都合のいい夢の中。現実の法則など魔法以上に無意味になるのがこの世界だった。
長椅子の柔らかいクッションに体を埋め、差し出されたマグカップに口を付けるととろりとした温かさ全身に広がっていく。ふと、いつもなら出来ないような事をしてみようかと考え付き、カップの中に焼いたマシュマロを入れて啜ると隣に座っていた余も真似し始めた。
「はどうしてぼくの夢の中に来たの?」
一息ついて、少年の澄んだ瞳がに向けられる。今見ている夢が確実に自分のものだという絶対的な自信に裏づけされた質問に、はどうしてだろうなと実に曖昧と取れる言葉を返した。
正確には、どういった原理で招かれても居ない他人の夢に侵入してしまったのか自身も判らないで居るので曖昧でも何でもないのだが、こういった思考を正確に口に出さないので、他人から見ると説明が面倒だからはぐらかしているように感じるのだと友人達に指摘された経験がある。
しかし余はと言うとその返事がどうであろうと最初からそれ程気にするつもりが無かったのか、判らないんじゃしょうがないよねと言葉を額面通りに受け取って長椅子に寝転がり、頭をの両脚に乗せて胸の前のマグカップにココアを注ぎ足す。
ありのままに言葉を受け取られた感謝を込めて頭を撫でると首を傾げられたが、それでもくすぐったそうにしながら笑みを返された。
「が本当の家族だったらよかったのに」
「家族、か」
「そうしたら、やりたい事が沢山出来るのに」
「やりたい事?」
絹糸のような髪を梳きながら尋ねると、脚の上に乗った頭がもぞりと動いて子供が隠し持つ憂いを滲ませた視線がを捉え、唇から言葉を形作る。
「ぼくもよく判らないんだけど。多分、本当の家族みたいな事」
「余にはちゃんと居るじゃないか」
「兄さん達や茉理ちゃんに不満があるとかじゃなくて、が家族だったらって話だよ」
「ああ、成程」
時折こうして自分は、意図せず全く別の返答をしてしまうのだと胸の中で言い訳する男は少しばかり申し訳なさそうに少年を見下ろし、見下ろされた余はというと口の中で融けたマシュマロを飲み込んで残りのココアをマグカップごと宙に消した。
小さな体が180度反転して僅かに匍匐する。胸の下に両脚を押さえ込まれながらも髪を梳く手は止めないでいると仔猫のように頬を擦り寄せられた。随分な甘えただなという感想を持ちつつ、ふと自分の持っていたカップは何処に行ったのかなと顔を上げてみると、目の前の棚で埃をかぶり絵の具の筆立てになっていた。
随分と自由度の高い夢だと感心する。しかし良く考えてみると、それ程の力でも無ければ異世界のと夢の中で出会えるはずもない。既に記憶の箱の中に仕舞われているが、彼等は人間の形をした超人で、前世は四海竜王様なのである。
「余?」
「なんだか、すごくねむい」
「器用だな、夢の中で更に寝るのか」
甘えただと思っていたそれは子供がたまに起こす睡眠前特有の行動だったらしく、周囲の景色も闇色の波に取り込まれ始めていた。
このまま夢の主を放っておけば自身も一緒にノンレム睡眠行きだと考えるが、だからといって取り込まれて未来永劫彷徨うブラックホールへ直行なんで事もまずないので別にどうこうする必要を感じない。
どうせだから一緒に深く眠ってしまおうと決めて背凭れに体重を預ける。薄暗くなったきた周囲の景色の一部だったアンティークが熱に晒された飴のように溶け、背表紙が擦り切れた絵本やセピア色の写真の束がするりと傍によって来て散らばった。
散乱したものは何処であろうと、或いは何であろうと片付けるべきなのだというの普段の生活からか、深く考えずにそれを拾い上げ適当な束にしていく。記憶の断片とも受け取れる写真は、余の部屋だとか、通っている学校の教室の風景から家族や友人の笑う姿まで様々な小さな世界の一部分を収めていた。
苦笑でも付き合い半分の微笑でもなく、心からの笑顔が写っているそれは、余や彼の周囲がどれだけ幸福かが一目で判る。そも、相手が余程捻くれていなければ、この少年のような類の人間が嫌われるという事は少ないのであろう。
長男次男は意図せず敵を作る方が多そうだが、三男四男はそう振舞わなければ敵が増える事はまずないように思えた。単にの独断と偏見からの結論なので、実際どうなのかと問われると返答に困るのだが、少なくとも元の世界で味方はほんの一握りも居ない立場のはそんな感想を抱いていた。
「ねえ、」
「どうした」
「ぼく、ねむいんだ。とっても」
周囲は暗くなってきたというのに完璧には寝付けないのか、むずがる子供の仕種で腕が腰に回される。眠るという行動に関しては兄弟の中で誰よりも得意とする少年にしては珍しい反応を不思議がり、慰め代わりに毛布を掛けてみても、そうじゃないと首を横に振られた。
一体何をどうすればいいというのか。子守唄、寝物語、簡単に考え付くのは全て小さな子供に対するそれで、どれも今の余には不正解のような気がした。
いっそどうすればいいのか訊く方が彼と自分の為にもいいかもしれないと開きかけた口は、しかし言葉が声になる前に噤まれる。気付いてよかったという安堵と、気付く前の比にならない程の押し潰されそうな感情に戸惑いながら、未だ椅子の下で転がっていたアルバムにそっと触れた。
流れ落ちてきたのは、よりも歳若い夫婦が並んでいるセピア色の写真。他のものと同様にその笑顔はとても綺麗なはずなのに、どれだけ顔を近付けても目を凝らしてもその顔をはっきりと捉えるが出来ない。写りが悪い訳ではない事はすぐに判ったが、いっそ判らない方が幸せだと痛感する。
それに写っているのは、恐らく余の両親なのだろう。
記憶の中に留められないほど印象が薄く、ただ漠然と両親としての存在と立場だけが切り取られてしまっている理由を口にすることも出来ず、感情に流され小さな体を抱き締める訳にも行かない状況に全身の筋肉が強張る。
自身がこの少年くらいの年齢の時、家族というものに何を求めたかくらいは直に思い出せた。しかし余とでは状況がまるで違う。
余にとっての存在はあくまで一過性のものであり、何時までも一緒に居る事は出来ない。少なくとも、にこの世界に留まる意志はない。
だからといって一晩だけの家族ごっこだと割り切るなんて器用な事は出来ない。他の誰かなら可能な、ごく簡単なことだったのかもしれないが、少なくとも自身にはそれが重圧に感じ、とても出来る事ではなかった。
余は自分が何を見せているのか気付いていないのだろうか。そんな考えを抱きながら観察しても、少年は眠たげに眼を擦り、猫のような欠伸を繰り返す姿は無邪気そのもので、何かを意識している様子もない。
「ごめんな」
「?」
「それでも、おれは余の家族にはなれないんだ」
「……うん、判ってる。ぼくの方こそごめんね、困らせちゃったみたいで」
嘘でもだとか、今だけだとか、少しでいいとか、様々な理由を付けても受け入れ難いのがにとっての家族という存在だった。それは精神的外傷と呼んでも差し支えない程に深く根を張っていて、の言葉や表情から滲み出たものを感じ取った余はそれ以上何も言わず、ゆっくりと目を閉じる。
は眠りについてしまいそうな小さな体に腕を回し、そして自らも目を閉じようとした。しかし、部屋の隅から視線を感じはっと顔を上げる。
眠ろうとしていた余が起きてしまう程腕に力を込め、一体どうしたのだろうと少年の目がを見上げて、その先の天窓で留まった。
「、手が……」
言われて天窓に注目すると、硝子板の向こうに皺の寄った老人の手が覗いている。まさか、とが口に出した瞬間、雷が落ちたような轟音が耳の奥まで鳴り響き二人は布団から跳ね起きた。