曖昧トルマリン

graytourmaline

魔法使い、四海竜王に別れを告げる

 夢から強制帰還させられたは、何が起きたのか判らない顔をしている余を置いて襖を勢い良く開け、全速力で階下へ向かった。途中、背後から続に声を掛けられた気がしないでもなかったが、今はそれどこではないと無視を決めて階段を下りる。
 雷鳴に似た音と共に突如として現れた二人分の気配の内の片方がよく知った男のそれで、しかも間の悪い事にこの家の長男と鉢合わせていた。見知らぬもう片方の人物がどうにかしてくれるだろうという楽観的な考えは微塵もない。何せ、あの男と一緒に現れた人物なのだから要警戒に分類する方が自然だった。
 三人の気配が位置するリビングのドアをかなり乱暴に開けると同時に一瞬で状況を把握、明らかに怒気を放っているに驚いている始の横を駆け抜けながら杖を振り庭への窓を開け放つと既に杖を構えていた髭の長い老人に狙いを定め跳躍し、両足の裏で年老いた胸を蹴りつけ、反動を利用して後方に宙返りをして綺麗に着地をする。
 外見は兎も角、年齢的には男盛りを迎えた男性から繰り出された全力の跳び蹴りを食らった老人はというと、当然のように綺麗に吹き飛び、開け放たれた窓を付き抜け庭に転がっていった。
 リビングの入り口ではいつの間にか集まっていた未成年達が繰り出されたドロップキックの型に賞賛の声を送り、彼等の兄はそれを窘めるべきなのか、それとも一緒に褒め称えるべきなのか微妙な表情をしながら悩んでいた。
 あのが問答無用で排除を試みるという事は、顔見知り且つ仲が悪い事くらいは容易く想像出来るのだが、如何せん相手は相当にお年を召した男性で、しかもこの男性を連れてきた人物が人物だったのだから仕様がない。
「あの、?」
「正当防衛だ」
「せい……」
 一連の流れの中の一体どの辺りが正当防衛なのか、口には出さず表情でそう訴える長男を意図的に無視しては手の平の上で杖を回転させながら庭に寝転がった老体を見下した。
『やれやれ、お主を相手する時は事前に守りを固めておかんと下手をしたら死んでしまう』
『殺すつもりで蹴ったんだ。迷わず死ね』
 英語で交わされた会話を訳す事の出来た年長組も、会話の細部までは理解できなかったがクイーンズイングリッシュで放たれた『DIE』だけは確実に聞き取れた年少組も、に正面切って死ねと言わせるなんてこの人今まで何をやらかしてきたんだという目で傷一つ負っていない老人を眺める。
 茶目っ気のある表情に青い瞳、皺の寄った白い肌に、銀色の長い髪と髭。ぱっと見は人畜無害なおじいちゃんという言葉が似合いそうな老人だったが、竜堂兄弟やの存在を踏まえると寧ろ怪しいとすら感じてしまうのは致し方ない事なのだろうか。
 そも、この老人を連れてきた人物が人物であるだけに。
「ふむ。感動の再会と呼ぶには少しばかり物騒かな」
「これが少し、ですか?」
「感動と言う言葉から一万歩ばかり離れている再会だと思いますよ」
「そもそもドロップキックの時点で誰も感動してるようには見えないけど」
「こんばんは、漢鍾離さん。こんな時間に何しに来たんですか」
 教師としての部分が反応してしまった長男、の様子を見て反論する次男、発言された言葉の要素が見当たらないという三男、そして兄達と違う反応をした末っ子に、漢鍾離は何やら英語で言い合っている二人から視線を逸らしてぽつりと呟いた。
「末の竜王が一番礼儀正しいようで不躾らしい」
「漢鍾離さん程じゃありません」
 余は日付変更後の時計を背後に見習い天使のような朗らかさでにっこりと笑っているのだが、そこはかとなく黒さが滲み出ている態度に隣にいた終が一歩分距離を空ける。何故弟がここまで不機嫌なのかその詳細までは知りたくはないが、恐らく彼がの部屋から出て来た事に原因があるのだろうと推測した。
 添い寝でもして貰っていたのだろうかと考え、少し羨ましくなり横目での方を見ると絶対零度の瞳で老人を見下ろしている姿が目に入り、でもあんな表情をするのかという感想を抱きつつも怖いので視線を逸らす。
 にしてみればこの兄弟が特別なだけであって、寧ろ彼の場合は元の世界ではこの表情の方がデフォルトに近しいのだが、知らぬが仏とはこのことかもしれない。
『何故貴様が此処に居る』
『屋敷からお主の気配が消えた事に気付いての、心配になって来てみれば空間が歪んでおったから慌てて追いかけて来たんじゃよ。それで出口を探しておった時に偶然彼に出会ってここまで案内して貰ったんじゃ』
『……では何だ。貴様はあいつ等に頼むでもなく常時おれを監視していて、人様の屋敷に不法侵入した挙句、閉じかけていた空間を無理矢理こじ開けブチ抜き、問答無用でこの子達の記憶を消そうとしたのか』
『そういう事になるのかの』
『矢張り死ね、否、殺す』
 いつの間にか取り出していた刀の鯉口を切ったを見て、自宅のリビングが殺人現場になるかもしれないことを悟った始が慌てて間に割って入る。同じく会話を聞いていた続はというと、口には出さないものの態度で「そんなストーカーなんて殺せばいいのに」と語っていた。同じ男を慕っているが、この辺りが長男と次男との決定的な違いである。
「折角祖父と再会したというのに、随分物騒な孫が居るものだ」
「人の話を全く聞いていなかったようだな。それで八仙とは笑わせる」
「自己紹介をした覚えはないが」
「其方がおれを一方的に知っているように、おれも漢鍾離の名くらいは一方的に知っている。ついでに、余に強制的に夢を見させた挙句覗き見しようとしていた変態という事もな」
「ふむ、ただの人間にしておくには少々勿体ないな」
 言外に自分がやったことを肯定したことで怒りを更に増大させたらしく、この男を殺した後で貴様も殺す、とやけに物騒な視線で語りかけた。それを理解してしまったのか、老人二人を切って捨てようとするを始が必死に制止する。
 千年単位から三年前まで、それぞれ成人を終えた男同士で繰り広げられる危なっかしい光景に、それまで口を噤んでいた終がこの人が祖父なのか、と何となく疑問を口にすると、刀を持っていた男の顔が最大限に歪み切られた。
「飽くまで、書類上は、だ」
 血縁関係がなかろうと余程その関係が不快なのか、地を這うような声に終の口端が引き攣る。二人の間に一体何があったのか知らないが、これ以上この話題には触れてはいけない、と未だにを押さえ込んでいる始以外の兄弟達は各々心の中でひっそり誓った。
 そんな三人の様子を見て、自身が今どういった状態になっているのかようやく理解したはゆっくりと刀を納めてから、四人に対して謝罪の言葉を口にする。ほっとした始の表情を見たのか、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
「どうやら落ち着いたようだな、では帰るとするか」
 緊張感の欠片もなく言った漢鍾離に続が是非と言った所で、再びリビングの空気が凍結する。しかし今度の原因はではなく、主に今まで状況を見守っていた四兄弟だった。
「漢鍾離さん、その手はなに?」
 ちょいちょいとを招いているようにしか見えない様子に、代表として余が質問を口にすると、室内の体感気温が更に下がる。
 それを面白がってか、今日はやけに寒い等と漢鍾離が口にするものだから、幾ら鈍い鈍いと言われ続けているでも流石に原因を理解した。
「おれも一緒に帰れという事か」
「でも満月まではまだ時間はあるよ」
「そんな事は関係無しにあそこの髭が空間を無理矢理ブチ抜いて繋げたらしいからな」
 手順を踏まないと後の処理が困るのに修復する此方の身にもなれ、と英語で非難すると自分でやるから気にするなと返される。途端にの表情がまた苦いものになった。
『ふざけるな、これ以上おれの屋敷で、お祖母様の部屋で好き勝手されて堪るか』
『そうか。矢張りあれは彼女の部屋か』
『……何を考えているかは知らんが、お祖母様に遺品に触れたら塵にするぞ』
『安心せい、そんな怖ろしい事はせん』
『どうだか』
 腹の中で煮えくり返っているものを押し殺し、溜息のような深呼吸をして落ち着かせるとは不満そうな表情をしている異世界の住人達に、そういうことだからもう帰らなくてはと気落ちした笑みを向け、着替えを取りに行く為に部屋を出る。
 唐突過ぎる別れに思わず引き止めるタイミングを失った四人を見て、それまでとしか会話をしていなかった老人がややあってから口を開いた。
『あの子は、随分とこの世界を気に入っておるようじゃな』
『貴方を除けばそちらの世界も気に入っているようですけれどね』
「おい、続」
 兄弟の中で最も英語を得意とする続が流暢だが辛辣に返すと、始が言い過ぎだと窘める。しかし老人はその言葉を肯定して、実際自分が居なくなればは様々な感情から解放されるだろうと告げた。
 青い瞳には後悔と呼ぶよりは諦めの色が宿り、今までの表情とは反対の、人生に疲れた人間のような顔付きで口を開く。
『散々あの子を振り回してきたツケじゃろう』
 祖父らしい事を何一つしてやれなかったと呟くと、しようとしなかったのか、出来なかったのか、と続が厳しい口調で問いかけた。
『昔は出来ないと思い込んでおった。しかし今考えると、あれはしようとしなかっただけじゃった。今は本当に、もう懺悔すら許されはしないじゃろう』
『神様とやらに許しを請う暇があったら彼に直接土下座した方がまだ建設的で誠意があるというものですよ』
 老人の言葉をことごとく否定していく弟を見て、始がもういいだろうと止めに入る。
 とはいえ、続の言い分も一理あると同意してしまっているので、その制止は傍から見ると中途半端に見えなくもなかった。
 短い期間ではあるが、それでもを見てきた始や続は、彼は謝罪の精神を持っている相手を無下に扱うような人間には到底思えなかった故の行動だった。
「何やら面倒臭いことになりつつあるな」
 唯一、との関わりが薄い漢鍾離が会話に割って入ると、階上を気にしながら大きな欠伸をしてみせる。
 どうせこの仙人は碌なことしか言わないに決まっている、そう警戒した四兄弟の思考通り、漢鍾離はとんでもない提案を出してきた。
「いっそあの青年をこちらの世界に置いてみたらどうかね」
 目の届かない場所まで離れれば老人の罪悪感は薄れ、竜堂兄弟としても願ったり叶ったりで誰も損はしない。この世界に一人くらい魔法使いの人間が増えた所で誰も困りはしないだろうという仙人の提案に、それぞれが抱える心境を複雑な表情で返す。
 は別に元の世界から逃げてきたわけでも、追い詰められて保護を求めてきたわけでもない。ただ偶然この世界にやってきてしまっただけで、元の世界には親しい人間が居るのだから、傍に居て欲しいという理由だけで彼を引き止めるわけには行かない。
 では矢張り本人が望まない限りは帰すべきかと漢鍾離が結論付け、確認を取る。
『あの子は望まんよ、決して』
『それは事実だが、貴様に言われると腹が立つな』
 何故か少し暗い声でそう告げた老人はリビングに再び現れた孫をじっと見つめ、さて、と呟くと再び杖を持った。
 その先が明らかに四兄弟に向けられると、再びの目付きが厳しくなる。
『どういうつもりだ』
『魔法使いと関わった以上、記憶は消さなければなるまい』
『どうやらもう一度蹴り飛ばされたいらしい。今度こそ死ね』
「やれやれ、面白そうだと思って来てみたが、とんだ貧乏籤を引いてしまったようだ」
 今にも殺し合いが始まりそうな祖父と孫の間に立った漢鍾離は、祖父の方に向かって彼等は人間ではないのだからその必要はないだろうと説明を始めた。それとも人間であろうがなかろうが、記憶を消すという作業が必要なのかと問いかけると首は横に振られる。
 それを確認したは目に見えてほっとして、杖を納めた。以前記憶を消す魔法について尋ねたときにも過剰な反応を示したので、この呪文には相当深い思いがあるらしい。
「さて、では今度こそ帰してやるとするか」
 場を治めた漢鍾離は何もない空間に手を翳し、波紋の中に腕を突っ込む。訪問時とは打って変わり、とても静かな帰還方法だった。水の中に溶けるように消えた漢鍾離を追っての祖父も姿を消し、リビングはしんと静まり返る。
「今まで、世話になった」
 ありがとう、と言って四人の頭を上から順に撫でたは、素直に照れたり、それを隠す為に不機嫌そうなふりをする兄弟の姿を見て微笑んだ。
 それに続く行動が出来ずにいると、背後の波紋から早く来るよう注意される。
 恐らくこれが未来永劫の別れとなると理解していても、互いに挨拶すらまともに浮かんでこない状況に焦燥すると、やがてその空気に耐えかねたが踵を返した。その背中を、始が呼び止める。
「あの……どうか元気で」
「ああ、お前達もな。茉理ちゃんにも、宜しく」
 振り返りながら笑うと、自分達はいつでも元気だと全員から告げられ、考えてみればそれもそうだとまた笑った。
「向こうに戻っても、あまり無茶はしないで下さいね」
「おれに無茶をさせるような事がなければな」
 尤もな事を言いつつも、そんな状況に陥ったら率先して無茶をする人間だと誰もが理解しているのか、からかいの混ざった疑問の声が飛ぶ。
「ありがとう、。短い間だったけど、色々」
「こちらこそ。おれも楽しかった」
 建前ではなく本心の言葉に四人は顔を見合わせ、笑った。
 最後に残った末弟に視線を向けると、少年は歳相応の笑みから少しだけ悲しそうな笑みに変えて、呟くように別れの言葉を告げる。
「またね」
「……いや、さようならだ」
「うん。判ってるけど、またね」
 もう二度と会う事はないと誰もが理解していたが、それでも重ねて渡された言葉に、は二度目の訂正を入れることはなかった。
 波紋を背にして後ろ向きで歩くと、踵が異空間に触れ、そのまま体を後退させる。
「それじゃあ、本当に……本当にありがとう」
 長い髪を揺らして踏み込むと、一瞬だけ水の底に落ちるような浮遊感が襲い、次の瞬間には辺りは見慣れた景色になっていた。
 室内も、窓の外に見えるそれもいつも通りで、目に留まった壁の時計はあの時から数分しか進んでいない。持っていた懐中時計を取り出すと確かに自分が体感した時が刻まれていて、彼等との出会いが幻ではない事を示していた。
 老人二人の気配が全くない所を見ると、事前にがあの場所を潜ったらすべてが元通りになるように仕組んだのだろう。ただ、方法が少々荒っぽかったようで、目の前の空間は微かに歪んでいた。
 その歪みを前に、ゆっくりと手を降ると、それは跡形もなく消えてしまう。余計な事をしてと呟いて、正しく狂った懐中時計をポケットに仕舞うと背後から声を掛けられた。
 ただいま、と何となく挨拶すると、同居人はどこかに行ってきたのかと尋ねる。彼にしてみれば、ほんの数分の間、の姿が見えなかっただけで何処かに出掛けた何て事は考えられないのだろう。
 それでいいとはひっそりと笑い、不思議そうな顔をした同居人に一言だけ告げた。
「明日、新しい懐中時計を買いに行く」