魔法使い、四海竜王を置いて敵地で暴れる
バンから降りて見えたのは一本の舗装された道と、深緑をした木に覆われた山。体感時間的に見て都心からそれ程離れてないのに、その周囲の雰囲気はの住む田舎の実家とそれ程変わりないように思える。
背後には低い塀に囲われた二階建ての純和風建築物が静かに佇んでいて、そういう者にとっては余程住み心地のいい家なのか、窓には明らかに人間ではない薄暗い影がちらちらと覗いていた。使われている木が真新しい事から建てられたのはここ数年の間に違いないのに、空気の澱み具合は大したものだと妙な感心をする。
相手の肩書きからかこういう場合、大抵大きな洋館やら警備体制の厳しいビルを想像してしまうが、ここにはそういった煩わしさがない。屋敷全体が纏う気配を除けば、喧騒からは離れ、庭の鹿威しの音が聞こえる静けさがある。
「さん」
声に呼ばれて振り返ると心配そうな顔をした茉理が酷く申し訳ないといった表情をして駆け寄ってきた。その気配に恐怖はなく恐らく自分達の方に巻き込んでしまったのだと勘違いしているのだろう。
謝罪を述べられる前に自分に用があったらしいからと告げ、それよりも何処か痛いところはないかと体の心配をする。自分は大丈夫だという強気の発言をする茉理に持っていたキャンディを一つ渡し頭を撫でておいた。深い意味はない、ただそうしたかっただけである。
そんなほのぼのぼした空気を醸していると、バンの運転席の近くで佇んでいた男が二人に声を掛けた。その背後には矢絣の和服を来た女性が二人、恭しく頭を垂れて付いて来るようにと丁寧な言葉で二人に促す。戸惑う茉理の手を引いて行こうかと声を掛けると本当にそれでいいのかと問われるが、ここにずっと立っていても仕方ないだろうと出来るだけ優しく返せば大人しく付いてきた。
手の甲に穴の開いていた男は、気絶から回復してバンを降りてきた部下達の方へ歩き出す。擦れ違い様に殺気の篭った視線を投げてくるが平然としていると歯軋りの音まで聞こえた。化け物、背後の誰かにそんな言葉を吐かれたような気がするが今は無視をする、幸い茉理には何も聞こえなかったようだ。
尤も聞こえていたところで大した事でもない。遅かれ早かれ、彼女の前でも魔法を使わざるを得ない状況になるだろう。自身はそのつもりで此処に乗り込んだわけであるし。
玄関で履物を預け、畳の敷いてある廊下を歩む。奥に佇む小さな離れからは人為らざる存在の気配や視線が粘液のように流れてくるが、それをどうにか出来る技術を持ち合わせていないので無視した。
それよりもと、足元や家の造りに目を向ける。矢張り大企業の会社会長ともなると、それなりの歳を召した人物らしい。建物内部の全ての柱の角は丸く、階段も幅が広い。敷居には段差もなく、足腰の弱い者が歩いても躓く心配の少ない設計になっている。
鴬張りに似た造りの二階廊下の手前の部屋に茉理が、同じ造りの奥の部屋にが通され、座布団をあてて楽にしていて下さいと伝えられた。
襖の向こうに茉理が一人で居る事を確認してから杖を振り、現実の世界から少しだけズレた場所に隔離する。これでもう、が術を解くまでは誰も隣の部屋には入れない。
人質を確保して一息吐くと、階下で多くの気配が動くのを感じた。さて、この間に一体何の準備をしているのか、どうせ碌な事ではないのだと窓から外を眺めると、屋根の上で先程キャンディを与えたグレムリンがよく判らない大きなアンテナと戯れている。電気は供給されているので、電話回線辺りが機能停止に追い込まれているらしい。
こちらの世界にも携帯電話はあるようなので大した混乱にはならないだろうと判断し、別にこの屋敷の機能が停止した所では全く困らないので見なかったことにする。
手入れの行き届いた庭を眺めていると、きっ、きっ、と二階の廊下が軋む音がした。少し足を引き摺るような、もの静かな歩き方。音の大きさからして恐らくは女性だろうとあたりを付けて座布団に座ると、すっと襖の戸が開いて渋い色合いの着物が目の端に映る。
入ってきたのは白い髪を結った、柔らかな表情を湛えた女性だった。嘆息したくなるほど上等な着物の生地や、その立ち振る舞いから見ても、製薬会社の会長に間違いないだろう。
若い頃はさぞ美人だったに違いない。歳を重ねても未だ当時の気品を窺わせる彼女の顔立ちと気配に、一応正門から入った身なのでも正式な作法で挨拶をした。
人の良い笑みを浮かべ初対面の人間に向けるには優し過ぎる視線を投げかけられ、それを無礼にならない程度に流していると今度は用意されたお茶を勧められる。考えるような仕種をしながら湯飲みの淵を指先で辿れば僅かに粉っぽい感触がした。
製薬会社の会長ならば、そういう類の薬を用意するのも容易いかと判断して一切手を付けずに居ると、紅茶の方がよかったかしらと問いかけられる。迎えられ方が荒っぽかったので水も咽喉を通らないと返せば、少し驚いたような様子で迷惑をかけたと謝罪された。
「謝罪は結構です。それよりも、竜堂兄弟ではなくただの一般人である私が連れてこられた理由が知りたいのですが」
会話をする気がないのか、再度勧められたお茶を断ると女性は残念そうな顔をして服の趣味が少し男の子っぽくなったわねと零す。一体何の事を言っているのかと返そうとして、女性の背後に現れた影に何が言いたいのか得心がいった。右半身が潰れた少女の霊が濁った左目で女性を見下ろしていたのだ。
紺色のセーラー服に身を包んだ少女は黒く長い髪に大きな瞳をしていて、客観的に見るとの顔立ちによく似ていた。中でも髪型と姿勢、目元はよく似ていて、二人を並べて兄妹だと言い張れば通ってもおかしくない程度には感じる。
右半身が潰れている所為でひしゃげている唇がパクパクと宙で動き、かあさん、わたしはここだと何度も何度も形作るがそれが彼女に届く事はない。が見える人間だと気付いていないのか、少女の視線は母親である女性にしか向かっていなかった。
少女との間に気持ちの悪い沈黙が降り、女性はそうしていないと保っていられないのかしきりにに話しかけて茶を勧めてくる。
「昔は此処のお菓子が好きだったけど、ちょっと離れたうちに変わってしまったのね」
厄介な相手に目を付けられたものだと嘆息すると、それを何と捉えられたのか女性は酷く慌てた様子で紅茶と洋菓子を用意するよう侍女に言い付けた。先ほどの柔らかい女性らしい笑みは既に崩れていて、自我が崩壊している者の顔付きになりつつある。
今の彼女には何を言っても聞き入れられないのだろう。が、娘の面影を持った他人がこの場を去るのが余程恐ろしいのか、身を乗り出して腕を掴んでくる。その力はとても女性のものとは思えない程強く、瞳は泥のように濁っているのに餓えた獣のようにギラギラと輝いていた。痛いと一言呟けば手を放されたが、次いで出た言葉は呪詛のような謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい、痛かったわね。ごめんなさい……ああ、痕になっていないかしら」
幾度も繰り返されるそれを耳に入れないようにして立ち上がると、絹を裂くような悲鳴が上がり亡者の形相をした老婆がの脚に縋り付く。行かないでくれと叫ぶ女性を蹴り飛ばすのは容易いが、流石にそれをすぐに実行できるほども非道な人間ではない。
膝や脛に立てられた爪は表面の皮膚よりもむしろ触れられていない内臓を掻き出される様な痛みを感じて、僅かに血の気の失せた唇で退くように言うが当然効果はない。
家主の悲鳴を聞きつけた雇われ兵士達が荒っぽい足取りで階段を駆け上がる音が和室に響き、建物の事など気にかけていない無遠慮さで襖が勢い良く開く。
敷居を踏みつけている隊長の表情を横目でちらとだけ見ると動揺の色が見られない。きっと、これも何時もの事なのだろうと今日何度目かの溜息を吐くと、女性からは見えない位置で、急所以外に銃口を突きつけられる。
完全なゼロ距離からの発射となると流石に避け切れる自信がないは脚に絡まっている皺だけの指に触れ、理解されないのを承知で自分は娘ではないと告げてみた。聞き入れるものかと叫ぶ姿が痛ましく思えると同時に泣きそうなほど辛い吐き気を覚え、自分にしか見えない血塗れの少女が残っていた左耳を左手で塞ぐ。
「大丈夫よ、ちょっと疲れているだけなのよね? そうよね? きっとあの竜堂という兄弟と一緒に居たからおかしくなっただけなのよね。心配しなくてもいいのよ、もう母さんがついているからね?」
「貴女は……」
「さあ、部屋に帰りましょう。貴方が居なくなってからも毎日掃除したからちゃんと綺麗よ。お父さんもお兄さんたちも入ってないわ、三人が入ると貴方とても怒ったものね」
「貴方は、とても優しい母親で」
「もうちょっとだけ待っていてね。あの竜堂兄弟を捕まえて調べれば、母さんとずっとずっと一緒に居られるようになるからね」
「君は今でも、彼女に愛されているんだな」
羨むような、切なそうな声で呟かれた言葉はその場の人間に聞き取られる事はなかったが、唯一、片方しかない耳を塞いでいた少女がはっとした表情で茶色の瞳をに向けた。
見えているのかと視線で尋ねるその少女の幻影をすり抜けた老婆の両腕がの両頬に触れる。大丈夫だと言っている彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「大丈夫よ、大丈夫なの。だからお願い、いい子だから母さんの言う事を聞いて……!」
何処にも行かないでと咽喉が切れてしまいそうなほど必死な言葉が区切れた所で、は両手でそっと老婆の耳を塞いで目を細める。杖も言葉も使わずに唱えた呪文で彼女の聴覚から自分自身の声を除くと、奇妙なその気配を察したのか黒い筒状のものがより強く背中に押し当てられた。
「契約違反だ」
「……?」
「ほんの十数分前の事だというのに、もう忘れたのか」
「何を馬鹿な事を。お前こそ今の状況を理解」
「していないのは、貴様等だ」
何気なしに言い放ったの言葉が引き金になったかのように背後に居た男達は一人残らずその場に崩れ、突如襲った激痛にのたうち回る。男達の声に反応して肩を跳ね上げた老婆の呪文を解いて大丈夫だと優しい声で囁いてから、おいで、と何かに声を掛け呼び寄せると1センチくらいの小さな黒い蜘蛛がの背に集い始めた。
バンの中であらかじめ呼び出し仕掛けておいた毒蜘蛛は任務を全うし、主人の体の上を這い回りながら今し方自分たちが噛んだ人間を見下ろす。何もしなければこうはならなかったものを、そう呟いた主人がついと杖を振ると小さな生き物達は彼の背中から姿を消した。
呻きながらも尚、震える腕で銃を取ろうとした男にその杖を向け、短い呪文を機械的に呟いて緑の閃光を浴びせる。周囲に倒れた人間にも分け隔てなく降り注いだその光は一瞬にして命を奪い、部屋の中に何度目かの静寂が訪れた。杖をしまいながら女性に声をかけ、足元に転がる物が死体だと理解される前にその首に手をかける。
穏やか過ぎるの表情から嫌な予感を悟ったのは狂った女性ではなく、傍らに佇んでいた血塗れの少女だった。誰にも聞こえない声で叫ぶがは何の躊躇もなく女性の首の骨を折る。人形の様に崩れた母親の体を娘が受け止めようとするが、実体のない霊がそんな事を出来るはずもなく、彼女の体は畳の上に転がった。
憎悪で光を取り戻した少女の瞳に見上げられ、届かない声で非難される。許さない、呪ってやる、殺してやる、そんなような事を叫ぶ少女に背を向けて部屋を出た。襖を閉めてふと外を見てみると、大小の鳥の群れが屋敷の人間を追いかけ回し狩りをしている最中だった。
「……茉理ちゃんの存在が消えた事を感じ取ったか」
は茉理の正体を知らないが、前世が竜王である兄弟達と従姉妹ならばと納得する。ついでに屋根の上を確認してみたが、先ほどまで居たグレムリンも身の危険を感じたのか、とうに逃げ出していて影も形もない。
窓ガラス越しに数羽の鳥と目が合うが、害はないと判断されたのか彼等は外に逃げてきた矢絣の着物に狙いを定め爪と嘴で攻撃を仕掛ける。逃げ惑う人間の全てを無視して階段を下りると受話器が垂れ下がった黒電話の隣で男が一人倒れていて、近寄ってみてみると顔が腫れて意識がない。蜘蛛に噛まれた痕が酷く腫れている所を見ると運悪くアナフィラキシーショックを起こしたようだった。
垂れた受話器からは声が微かに聞こえ、拾い上げて耳に当てると怒りと戸惑いの混ざった茉理の従兄の声が聞こえる。どうやら脅迫の最中だったらしい。
「もしもし、始くん」
『?!』
「茉理ちゃんと合流したらすぐそっちに戻る」
一方的に用件だけ述べてそれじゃあと言って切ろうとしたの耳にかなり慌てた制止の声が掛かり、一体どういう事なのかと尋ねられる。どうもこうも、書き置きした通りだと告げればあの書置きは一体なんだという説教が始まった。
一人で乗り込むとは何事かだとか、今日の夕飯の献立を同じ紙に書くなとか言われたものだから、違う紙ならいいのかと揚げ足を取ってしまい追加の燃料を投下してしまう。背後から弟達の宥める声が聞こえるが、説教モードに突入した長男を止めるのは容易ではないらしく教師根性丸出しの説教は中々終わりそうもない。
ガラス一枚隔てた外では鳥達が暴れ回り、足元には呼吸が止まった男が一人転がっている。冷たく焦げた粘着質の気配は遠くからするし、まだ辛うじて生き残っている人間の悲鳴がする程度には混沌とした中で平和な説教を喰らうのは中々奇妙な気分だった。
すぐ近くの部屋で断末魔の悲鳴とガラスの割れる音がして、不審に思った始が今の状況を尋ねるものだから馬鹿正直に話すと今すぐ迎えに行くから出来るだけそこから離れていろと捲くし立てられる。
「自力で戻れるから迎えは必要ない」
『自力って一体どうやって』
「魔法使いの移動手段は何も箒だけじゃない」
『……そういえば』
魔法使いでしたね、と呆気に取られた様子の呟きを聞き取ると声に出さずに苦く笑い、先に夕飯を食べておくように告げた。そのまま通話を切ろうとした始を止めて弟達に代わるように頼み込むとそれぞれから非難を浴びせられる。
特に続は帰ってきたら今日の事についてじっくり話し合おうといった言葉を、電話口からでも判るくらいの物騒な感情に乗せて来た。此方の判断に任せると言った割には相当恨んでいるような口調に何処か釈然としないものを抱えつつも、その感情を押し込めて最後にまた長男に代わるように伝える。
『まだ何か?』
「いや、要らない心配をかけて済まなかった。すぐに帰るから先に夕飯を食べて、いい子で待っておいで」
『いい子って……』
「どこかおかしかったか?」
『……いえ』
その台詞はどうなんだとは言えず、気をつけてとだけ今更のように返す始の言葉に笑って返し通話を切ると、右手の杖を一振りしてから手近な襖に手をかけた。驚いた顔をしている茉理の正面に立って左手を差し伸べると礼を言われながらも首を傾げられる。
「あれ、ここ一階……ですよね?」
「済まない。少し面倒な事になったから隔離させて貰っていた」
遠くに消えつつある鳥の羽音を聞きながら手の平の上でくるりと杖を回すと、本当に魔法使いだったんだと妙に感慨深げに頷かれた。部屋の出口のすぐ隣でうつ伏せに倒れている男に茉理が一瞬体を強張らせるが、が大丈夫とだけ言うとほっとしたのか握られた手の緊張が解れる。
何が大丈夫なのか尋ねられなかった事に密かに安堵しつつ履物を取り戻しに玄関に向かうと、二階から背筋が凍るような視線を感じ振り向いた。どうかしたのかと茉理もその方向を見上げるが、彼女の目には何も映っていない。恐らくは悪寒すら感じていないのだろう。
「いや、何でもない……戻ろうか」
「戻るって。どうやって?」
「曲がりなりにも魔法使いだからな」
箒がなくても移動は出来ると告げて、死んだ娘と殺した母親の霊から視線を外し、自分達以外は誰も生きていない屋敷の中を出口に向かって歩いて行った。
恐らく、この事が表沙汰になる事はないだろうとは考える。大きな屋敷で起こった不可解な死はメディアがこぞって取り上げそうな内容ではあるが、そうは行かない理由が目の前で起こっていた。
「茉理ちゃん、絶叫系の乗り物は苦手か?」
「え、いいえ?」
「そうか。なら問題ないな」
土間で茉理が靴を履き終わるのを待ちながらふと遠くを見れば、風に吹かれた煙がゆらゆらと立ち上っている。時折ちらりとオレンジ色の炎が視界の端に映り、庭を隔てた離れの窓には足のない少女達の影が迫る炎から逃れようと身を寄せ合っていた。あの場から動けないという事は、亡骸が真下にでも埋まっているのだろう。一度死んでしまった彼女達はその離れから脱出する事は叶わない。
黒く長い髪と、それぞれが少しずつだけあの少女に似ていた容姿を持つ少女等がに気付いて一斉に此方に視線を向ける。屋敷に居た時に何度か感じ、そして確信した、焦げ付くほど冷たい粘着質な気配だった。
「……戻ろうか」
茉理以外の全ての女性に背を向けて、血の通っている手を取り合う。気が触れそうな亡者の声は聞こえない振りをして、生きている少女の強張った肩に触れながら何も心配する必要はないと笑ってみせる。
そのしばらく後、空間移動につきものの大きな音を立ててと茉理はその場から消え、跡形もなく焼けた屋敷には物言わぬ沢山の骨だけが残された。