曖昧トルマリン

graytourmaline

魔法使い、四海竜王を置いて敵地へ乗り込む

 紙面を滑っていたボールペンの先がプラスチックの筒の中に納まり、方程式の綴られたレポート用紙がテーブルの上に積み上げられた。長時間同じ姿勢をしていて固まってしまった全身の筋肉を軽く解し、時計を見上げるとそろそろ末弟が帰ってくる時間になっている。
 今までダイニングテーブルにしがみついていたは、兄弟を送り出した後にすぐ夕飯の仕込をしたのは正解だったと呟き、目の前に山のように盛られた何種類かの稲荷寿司を眺めた。軽く十人前はありそうなそれが男四人の胃袋に綺麗に収まり、更に足りないと言うのだからつくづく彼等は見かけに反して大飯食らいだと感心する。
 鍋の中には筑前煮とお吸い物、冷蔵庫の中にはカラシ菜の一夜漬けが味を落ち着かせていて、あとは食べるばかりの状態となっていた。食欲のある男の子はいいなあ、と子供を持つ女性のような言葉を口にした事を自覚して苦笑すると気持ちを切り替えて真新しいレポート用紙に、またペンを走らせ始める。
 元の世界に戻る為に必要な計算式は当初思っていたよりも少し複雑になってきた。というのも、としては出来る事ならば自分が消えた直後の時間に戻りたかったからである。
 あの時、確か自分は帰宅した直後で服を着替えようとしていたのだ、もしも戻る時間に数時間、あるいは数日のブランクが発生してしまえばあの家で何が起こるか、出来ればあまり想像したくない。
 それでも少し想像してしまうと、少なくとも三人の同居人たちは発狂するかもしれないし、家で預かっている少年は申し訳ないと思うくらい心配してくれるのだろう。
 他にも問題は色々あった。
 特に彼が倦厭している祖父が家に来る可能性という事が目下の問題であり、義理ではあるが祖父の位置に当たる男を嫌っているはボールペンに力を込め、出来る限り時間の誤差を埋める為複雑な計算を逆算し始めた。自分が消えたのが深夜であったならば、たかが数分の誤差等気にしなかったが、今はそうも行かない。自分が家に居ない事を発見され次第、同居人の誰か、というより犬があの男を呼ぶに決まっている。
 ぱき、とプラスチックが割れるような音がして手元を見ると借り物のボールペンにヒビが入っていた。自分の感情に呆れながら杖を振ってそれを修復すると、胸ポケットにしまって一旦脳を落ち着かせるために席を立つ。
 自作のキャンディを摘んでコーヒーメーカーで待機している黒い液体をカップに注ぎ、苦いだけのそれを一口飲んで再び椅子にかけようとした、その時だった。
 外の空気に変化が生じた。弱弱しいが知った気配が一つと、明らかな敵意を持ったものが複数。それが一体何なのか簡単に見当が付いてしまったはまっさらなレポート用紙に夕飯の内容、現在の状況とこれから行くと思われる場所を書き込み、しばらく考えて先に食事を取っておくよう追記する。
 今まで自分が書き込んでいたレポート用紙は与えられた和室に置き、杖を含めた全ての武器を隠し持ち、消灯とガス栓を確認した後でカーテンの隙間から外の様子を覗った。
 表に何の変哲もない運送会社のロゴが入ったバンが停まっていて、助手席には一度だけ顔を合わせた少女、鳥羽茉理が気絶しているのが覗える。
 あの様子では運転席の男も凶器を持っているに違いないが、だからといってここからの救出が不可能という訳ではない。
 しかし、また同じような手で向こうが攻めて来るのは目に見えているので此方から手を打ったほうが得策と判断、兄弟に心配をかけることを心苦しく思いながら家の合鍵を持って玄関を開けると、丁度ベルを押そうとしていた二人の男と目が合った。手には銃が握られていて、消音器も付いている。昨日の男達よりも体格は優れていて、場数を踏んでいる匂いがした。
 とはいっても、彼らも所詮は人間で、これから突入しようと思った矢先、気配を消してするりと玄関から出てきて自分達を一瞥すると、何のリアクションもせず鍵を閉めて「で?」と尋ねられると流石に一瞬思考が止まってしまうらしかった。
 男達からまともな反応が返ってこないので呆れて溜息を吐き、彼らに背を向けて無言で歩き始めた所でようやく銃を突き付けられる。我々と一緒に来てもらおうという非常に在り来たりな台詞が滑稽に思えて仕方ない。
 ここまで隙を作ってやらないと動けないのか、そう言い掛けた台詞を飲み込んで、茉理は解放して貰えないのかと一応尋ねてみる。当然、予想していたが、自身も危険人物扱いされているようなのでさっさと歩けとだけ返された。
 バンの中で簡単な身体検査を受け手錠と足錠そして指錠を後ろ手に掛けられ、更に目隠しまでされた後で、妙な真似はするなと釘を刺され中央付近に転がされる。
 怒鳴り散らしたり、殴りかかって脅してこないという事は恐らくプロなのだろう、それならば前の助手席に座っている茉理も何か乱暴されたという可能性も少ない。念の為探ってみても、精神的な乱れはなくただ眠っているだけのようだった。
 腰を据え、は薄い鉄板で囲われた箱の中で考える。この時間帯に態々家に来るという事は、彼等は居候先の兄弟ではなく自分に用があるのは間違いない。では、その目的は一体何か。実の所、害虫を巣穴ごと退治する気構えで捕まったので、その辺りはまったく見当が付かない状態で乗り込んだのだ。
 兄弟に対しての人質ならば自分でなくても茉理で事足りる。己の能力を買われてスカウトされるような気配もない。トリガーに指が掛かっていなかったので恐らく殺傷目的でもない。弾も鉛のものではなく、あれと同じ麻酔弾だろう。
 第一、殺す為ならば態々拉致する必要はなかった。それこそあの場で殺してその罪を兄弟の誰かに、或いは全員に被せた方が彼らを社会的に抹殺する事が出来、追い詰めるのは容易だろう。
 尤も、それはあくまで追い詰めるまでであって、あの竜王の兄弟を捕らえるとなれば話は違ってくるが、今の所その案を捻り出す必要は無さそうだった。
 さて、次はどうしようか。自分が拉致された原因を探るのも程ほどに、は今の内に出来る事を模索し始めた。この場で茉理以外を皆殺しにすれば色々手っ取り早いのだが、それでは態々捕まってやった意味が無くなる。だからといって、巣穴への案内役がこんなに沢山居てもらっても対処に困るのも確か。
 一人で充分か、そこまで考えるとはエンジン音に隠れるほど小さな声で呪文を呟き、頭の上を小動物のようなものが走り抜ける気配を察知すると、軽く身動ぎして隠し持っていた杖を後ろ手に持った。一瞬遅れ、の背中を見張っていた男が銃を構えようとして前方に転倒。車体に急ブレーキがかかった所為で残りの男達も全員バランスを崩し膝を付く中、拘束を解除した足で近くに居た一人の脇の下を蹴り上げ、対角線上の位置で起き上がろうとした男の側頭部に手錠を投げ付ける。
 強引に目隠しを取ったその手で、白目を向いて倒れる男の隙間から、転がりながらも銃を構えようとした輩の手の甲に胸ポケットにあったボールペンを貫通させた。一足飛びで距離を縮めるとその男の首の後ろに手刀を叩き込み、背後から羽交い絞めをしようとした輩の鼻頭に裏拳を入れる。鼻血を吹きながらも踏み止まった男は、再び掴みかかろうとする前に強い電気ショックを浴びせられ床に倒れこんでしまった。
 杖を構えたままゆっくり息を吐き出すと前方のドアが開く音がして、運転手が此方にやってくる。扉の前で立ち止まり、武器を出して突入の隙を覗える程度には人通りの少ない道らしい。はまだ青白い火花を散らしている杖を一振りしてから足元に転がる人間が気絶しているか再度確認する。
 そうして今度は刀を取り出し、外に通じる扉へとおもむろに突き刺した。鉄の板の向こう側からは男の絶叫が聞こえ、手には肉を切る感触が伝わる。なんでもない顔で刀を引き抜き、刀身に付着した血を拭った後でバンの扉を開けると整備されているが薄暗い山道と、足から血を流して倒れている男が視界に入った。その男を内部へ引きずり込むと、丁度落ちていた自動拳銃を手にして隊長格の男が一体誰かを聞き出し床へ投げ捨て意識を失わせる。
 念の為もう一度辺りを見て回るが人の気配は感じられない。隙間からちらりと見た外の景色は緑が濃く、潮の匂いはしない。都心からは離れ、交通量はかなり少ないように思えた。
「かといって、あまり此処で長居する訳にも行かないか」
 茉理が助手席でまだ眠っているうちにと、床で伸びている男を一人拾い上げ魔法で体の感覚を麻痺させた後に無理矢理気絶を解除させる。手の甲に穴の開いた男は周囲の状況を一瞬で把握するが、行動を起こそうとしたところで全身が麻痺している事に気付いたらしくを睨み付けた。
「質問に答えると誓うならばそこに転がっているお前の部下も全員助ける。だが、以降お前が妙な動きを一度でもすれば皆殺す。いいな」
 静かに、しかし一方的にそう言うと、治癒魔法で手の甲に開いていた穴を塞ぐ。目を見開いている男の首から上半分の麻痺を解除すると、顔が床に倒れ足から鮮血を流している男へ向かい一も二も無く頷いた。仲間意識が強い所を見ると矢張り傭兵の類なのだろう。
 傭兵の集団、PMCだかPSCだか略称されている業者かもしれないが、名前だけ知っていて実際これが初めての接触となるは普段よりは幾分か慎重に治療を施し、生命が維持されている事と傷が完全に塞がっている事を見せた後で男の所持している情報を引き出した。
 誘拐を企んだのは矢張り先日の大手製薬会社の会長で、この場は既にその人間の敷地内だという。を拉致した目的は知らされていない、人質のため茉理も拉致はしたが傷付けてはいないと誓って告げられた。一体何に誓ったのかは判らないが、全て事実であろう。
 まだ首から下が麻痺したままの男を見下ろし、表情を変えないまま杖を振りそれを解いた。男は警戒しながらもゆっくりと立ち上がり、内の感情を完璧に繕いながらの隙を窺う。しかし、それに乗ってやるほどはお人好しではなかった。
「多少手順が雑だが折角の招待だ、雇い主には会ってやろう。重ねて言うが、おれやあの少女に手を出せば……判っているな」
 まるっきり悪役の台詞に男は表情を動かす事無く頷いて運転席に戻ろうとした。しかし一度振り返り、お前は一体何なんだと、完治している手を見せて尋ねる。
 純粋な疑問の表情と、その奥に潜んでいる思考と、服の中に仕込んでいた通信機を使おうとしなかった事を合わせて、は静かな笑みを浮かべた。
「魔法使いでも、超能力者でも、好きなように想像しておけ」
「超能力者か、そいつは恐い」
「精々頭の中を覗かれないように用心するんだな」
 冷や汗を額に浮かべ、引き攣った笑みで視界から消えた男を意識から外し、部屋の隅の方に現れた灰色の生き物にポケットに入っていたキャンディを手渡す。
「ありがとうグレムリン、おかげで助かった」
 グレムリンと呼ばれた灰色の生き物は、歪なイボだらけの顔面でにっこりと笑いキャンディを受け取ると空気に溶けるようにして何処かに消えてしまった。走行中の車を急停止させる為に、飛行機や精密機械を狂わせる事で有名なその妖精を呪文によって呼び寄せたのは自身だったが、そんな事に気付く人間はこの場に存在しないだろう。
 そのグレムリンが居なくなった事で再び動き始めた車の中、はここからは見えない運転席の男へ視線を投げた。
「……Araneasortir」
 呪文と共に呼び寄せた薄暗い床を這う黒い節足動物を数匹つまみ上げ、手の甲で遊ばせながら残り数分の道程を共にする生き物に挨拶をし、理解されるはずもないと判っていながらも話しかけ始める。
「おれは別に、害意に敏感なだけで一般人の考えている事なんて判らないのにな……そう、ただの人間なら」
 黒い生き物は手の甲から手の平へと静かに移り、そのくすぐったい感触に笑みを零しながら、決して見えることのない高い空を仰いで、次いで未だ助手席で眠っているはずの茉理を見つめた。
 一体何人生き残れるんだろうな。が口にしたその呟きは、同じ空間内に居る男達にも、鉄の板を隔てて座っている男や少女にも、そして遥か上空を飛行する鳥の群れにも届く事無く、鉄製の地に落ちて砕けてしまった。