魔法使い、四海竜王と日曜日午前を過ごす
酷くまっとうな生活にどうしようもない幸福感に襲われる。同時に、前を走り出した少年達とそれ程年齢の変わらない、元の世界に居る少年の事を思い出し胸に爪を立てられたような痛みも覚えた。
その痛みを確認するように上空を仰ぐと、イギリスではあまり出会えない燦々とした陽光が降り注いでいる。日本に長く住んでいた体はその控えめながらもきっちり自己主張する気候を喜び、遠くの方で群れるように浮かんでいる真っ白な雲に懐かしさすら感じていた。
昨日の嵐が通り過ぎた空は澄んだ青をしていて、洗浄された空気の中を走っていた兄弟が水溜りを飛び越してを手招きしている。清酒や牛乳のような重たいものから卵のような扱いに気をつけなければならないものまで色々と両手に下げて尚、有り余っている体力には苦笑するしかない。
耳を澄ますと風が木々を揺らす音が聞こえる。ブロック塀から突き出している花のない金木犀の木であるとか、庭の一角を覆っている山茶花の葉が擦れ合う音だった。
それに僅かな不安と危機感を覚えながらも、気のせいであるようにと願いながら人の声が聞こえない道を歩いていく。
買った食材の全てを前の少年達に奪われて、何も持つものがなくなってしまったは、昼間の静か過ぎる住宅地を歩きながら二人が飛び越していた水溜りを避けて通り、その脇を通り過ぎる一台の黒塗りの車を注視した。
水溜りがタイヤに跳ねられるが、それが予測出来ないほど抜けては居ないのでかなりの余裕を持って回避する。着ている服は借り物で洗濯をするのが自分だとしても濡らすのは申し訳ないという精神からきた行動だった。
「、大丈夫?」
「水かからなかった?」
「ああ」
態々心配して道を戻ってきた少年達に軽く頷くと、表情を少しだけ険しいものに変化させる。視線の先の黒い車から身形だけはちゃんとしている二人組みの男が降りてきて、更に背後でも同じような車から同じような二人組みが現れたようで靴底がコンクリートを蹴る音を聞いた。矢張り周辺が静か過ぎるのは気のせいではなかったらしい。
これが次男の言っていた子悪党なのか。納得しつつもこのタイミングで来られた事に腹を立て、剣呑な顔つきになったは、うんざりとした表情をしている終と余を見下ろす。
別に黒服の男達を問答無用に叩き伏せて生物として再起不能程度にしてやってもいいのだが、居候の身なのでそう自分勝手に行動は出来ない。逃げるのか潰すのか、一体どうするべきかと口を開こうとして、自分に向かって一本の赤い光の筋が向いている事を認識する。
正面に居る男が左肩に照準を合わせている。舐められたものだと眉を顰め、脳内の無駄な思考を排除した。
必要な感覚だけを研ぎ澄ませ、引き金にかかった指に力が入れられる直前に未だそれに気付かず顔を見合わせている少年達の間を擦り抜ける。消音器を付けた不恰好な銃から飛び出した鉛玉はの体に穴を開ける事無く、背後でナイフを取り出していた男に当たった。
仲間によってもたらされた予想していなかった痛みによる絶叫、次いだ呻き声は以外の人間と、人間以外の存在それぞれに一瞬以上の混乱と大きな隙を生じさせる。
唐突な出来事に驚き固まってしまっている少年二人分の視線を背中に浴びながら隠し持っていた刀を鞘から抜き放ち、銃を構えた男の右手首を容易く切断、返す刃で隣の男の左腕を切り落とした。
アスファルトに転がる右手首と左腕が水溜りの水を跳ね上げて赤く染める。更に重なる二人の野太い男の絶叫を絶つために足を振り上げて右手首のない男の顎を蹴り砕き、これで少しは静かになったと溜息を吐き出した。
振り返ると先程の男は眠っているようだ。鉛玉ではなく麻酔弾だったらしいと判断し向き直ると、真っ青になってガチガチと歯を鳴らしている左腕のない男には見向きもせず、顔面が血に染まっている男を見下ろす。
「全く、危なっかしい」
は停止させていた不必要な思考を再生させて、幾分か硬い口調で思っていたことを口にする。
「せめて一声掛けろ、首を跳ねる所だった」
至って自然な口調で空恐ろしい事を告げながら刀身に付いた血を懐紙で拭い、その懐紙ごと刀を消したは右手首と一緒に地面に転がっている銃を眺めて再度短い溜息を吐いた。教科書の練習問題にもならない挟撃で銃など持ち出すものだからどんな素人かと思ったが、使用者に反して武器は相当良い物に見える。
左腕が消えた男が不自然に身動ぎしたのを視界の端で捕らえたので頭を踏み付けてみれば、残った右手に握られていたナイフが濡れた地面に落ちた。それを遠くに蹴飛ばしながら、これでは自分が足癖の悪い人間に見えるではないかと項垂れたい気分に駆られる。
先程以上に気味悪いほど静まり返ったその場所で、皆の視線を一身に浴びていたは未だに呆然としている少年達の方を向いて、それでも視線は合わせないようにして怪我の有無だけ尋ねておく。
ゆっくりと縦に振られる頭を確認すると、地に這って呻いている男たちを無視して、唯一無傷な背後の男との距離を詰めていった。今になって慌てて自分の武器を探し始めたその男の胸倉を掴み、普段他人に見せるものよりもずっと冷めた目で震える姿を捉える。
「消えろ。次は殺す」
一度は見逃すが二度目はないと宣言して手を離すと、はそのまま全てに背を向けて歩き出した。その背を追いかけてくる二人分の軽い足音は、彼の隣に並ぶ半歩前でただの足音になってしまう。
怯えられてどの道こうして距離を取られるのなら、いっそ連中を皆殺しにした方が良かったのかもしれない。ああいった手合いは反省なんかせずに勝てる位の増援を連れて来るに決まっているのだ。今から引き返して四人の息の根を止めてこようかと考え及んだところで、袖を引っ張られる。先には、少し困ったような顔をしている余が居た。
「ねえ、。クレープ好き?」
「……クレープ?」
「うん、クレープ」
頷いた余は、終と目を配らせあってから軽く首を傾げた。一体どういった意図で今の台詞が出てきたのか理解出来ないは僅かに沈黙した後で、嫌いではない事を告げる。
「じゃあ、ちょっと寄り道してクレープ食べに行こうよ」
「この辺に美味しい店があるんだ」
いつの間にか少年達に両手を掴まれ、そのクレープを売っている店の方へと引き摺られる羽目になった男は両側を先行する小さな背中を見ながら目を瞬かせた。
口では恐くない等と平然と言えるが、いざ自分のあの凶行とも呼べる先手の行動を目の当たりにした後でそういられる人間は今まで皆無だった。向こうに居る親友たちだって、この少年達のようには振舞ったりは出来ないだろう。だからといって、別に平静である事を望んでいるわけでも、して欲しい訳ではないのだが。
しかし、彼らは切られた腕や手首を見なかった訳ではないだろうに。幼少の頃に一通り訓練させられた自分とは違い、そういった意味では普通の人間と変わりのない生活をしてきたはずの少年達の前で、手加減はしたが配慮など一切しなかったあれを見てそれでも、って実は凄く強かったんだね、と笑っていられる神経とは一体どういったものなのだろうか。
「今日は、イチゴショコラにしようかな」
「ぼくはブルベリーチーズがいい」
「は何にする?」
「……メニューを見ないと何とも」
「あ。それもそうか」
手を繋いだまま他愛ない会話をする彼等に覚えた感情は、人を傷付ける事に一切の躊躇いを感じない自分を拒絶されなかった安堵ではなく、盲目的な、無邪気とも取れる歪んだ何か、狂気の親戚の隣に佇んでいるような不安だった。二人はこのままでいいのだろうかという疑問は当然沸いて出たが、それを決めるのは自分ではないと過激派の道徳的干渉という名のお節介を切り捨てる。上の兄達を見ているとこの地点の思考から価値観や神経が変化していくというのも考え辛い。
大体、自身も他人に説教できるような幸福度の高い模範的な、あるいは素晴らしい人生を現在進行形で送っていないのだ。道徳と180度違う生活とは行かないまでも、135度くらいは違う生活をしている彼に説教されるのは元の世界に居る駄目な大人の見本市に出展されて佳作くらいは取れそうな連中だけでいい。
哲学的な事を考えていそうな顔で下らない思考を横へ流しながら、は掴まれていた両の手の平を握り返そうか僅かに悩み、結局そこには力を込めないまま、雲を映す小さな水溜りを飛び越した。