曖昧トルマリン

graytourmaline

魔法使い、四海竜王と土曜日を過ごす

 その日は生憎の雨模様、と呼ぶには激しすぎる豪雨だった。
 運休や通行止めの情報が数分おきに放送されるニュース番組を見ながら、はテレビの前で不貞腐れる二匹の竜王の背中を苦笑交じりに眺める。
 まだ切り分けられていないミルクパイと、表面にこんがりと焼き目の付いた小さいココットをテーブルに置いて、この暴風雨の中で海辺まで来てリポートしている馬鹿馬鹿しい事この上ない映像を延々と流し続けているテレビの電源を落としながら言った。
「そう腐るな、天候ばかりは仕方ないだろう」
 お手本以上の完全な悪天候の為に中止を余儀なくされた外出に青年二人は背中に暗雲を背負っていたが、それとは反対にティーポットから紅茶を注いでいる青年の瞳には心なしか安堵が滲んでいる。
 結局、決意はしようとも苦手なものは苦手なのだ。三十余年生きてきて変わらなかったものがこんな唐突に平気になるのだとしたら、それこそ奇跡としか言いようがない。
「それとも、今日じゃなければならない理由があるのか? 明日は日曜だろう」
 しかし約束した手前あからさまに喜ぶわけにも行かず、次元を超えても特に変わった様子が見受けられないカレンダーを眺めながらそう訊ねると、俯いたまま動かなかった色素の違う二つの髪が同時に横に揺れた。
 どうやら明日はそれぞれ予定があるらしい。にしてみればたかが外出一つでここまで消沈するのかと甚だ疑問に思うのだが、始と続にしてみれば何故自分たちの好意に気付かないかという事の方が疑問であった。
 特に続に至ってはそれらしい発言をしたにも関わらず普通に流されたのか忘れられたのかされて、不憫な事この上ない。
「そうか……残念だな」
 月が満ちるのは来週の金曜、今日明日が最後の休みになる事に気付き、は切ない表情をして明るい紅色の波紋を眺めた。その香りに連れられて来たのか、それともタイミングが良かったのか、しんみりとしてしまったリビングに年少組が顔を出す。
「あっ、兄貴たちずるい!」
「ぼくも食べたい!」
 すぐさまテーブルの上に置かれていた温かいお菓子に目の行った二人を大人しくさせ、五人分の紅茶をテーブルに置いた。キッチンから発掘した茶葉をブレンドした紅茶はそう悪くない出来で、胸の内に溜まっていた感情を和らげさせる。
 加えて、終と余の嬉しそうな顔を見れば些細な負の感情など消えてしまい、急かされるままパイにナイフを入れて八等分に切り分けた。その内の1カットを受け取りながらある事に気付いた末弟が首を傾げる。
はいらないいの?」
 五人で分けるには半端な切り方で、しかもカップとは違い用意されていた取り皿は四枚だけだった。兄弟全員に皿が行き渡っているので、作り手は食べないつもりなのだろう。よく見てみると、スイートポテトの入ったココットも、四人分しかない。
 甘い湯気の上がるパイの乗った皿を差し出し、遠慮深い子犬のような仕種で見上げてくる余には構わないと笑うが、ふと思考が何処かに行き着いたのか、余の分だけ一口貰おうかと他の三人が行動を起こす前に先に制した後で銀色のフォークを取った。
 その行為に関する弁明を許されるのであれば、青年はきっとこう言うだろう。自分がまだ幼かった頃や、年を経て親友の息子に出会った頃にも、同じ経験をしたのだと。断られたほうは、それを自覚できないほど僅かに、物悲しい気持ちになるのだ。
「……バニラエッセンスが多い」
「ぼくはそう思わないけど」
 一口分欠けたミルクパイを頬張った余は、なにやら自分の作った菓子類に不満を持ってしまったらしいにそう返す。言葉に偽りは無く、三人の兄も彼が自分の作品を評価するまでそんな事は気にも留めていなかったし、すぐ上の兄に関しては既にココットまで空にしそうな勢いだった。
 紅茶の良し悪しを判断出来るほど精通していない年長組は、それでも見た目だけは完璧にストレートティーを嗜んでいて、パイを食べた所で次男の方が口を開いた。
「そう言えば、はイギリスに留学していたんですよね」
「ああ」
「やっぱり料理は不味いんですか」
「通っていた学校だけに関して言えば、美味い不味い以前に、あそこに料理という技術と料理人という概念があったのがどうかがまず判らない。正直なところ、今でも判らない」
 大概の日本人がするであろう直球で来た不躾な質問は、秒以下の速さで典型的な肯定よりも一段階上の回答で返され、更に続けられる。
「学生の頃の食事は食材も調理法も見た目も味も栄養バランスも何もかもが最悪で、自炊以外に辛うじて食べる事が出来たのは朝食と、ティータイムに出される茶菓子くらいだ。だがそれでも辛うじてだ。正直に言おう、不味いとか不味くないとかそういう問題ではない」
「……何というか、想像以上だな」
「おれ、イギリスにはあんまり住みたくないかも」
「うん。ぼくも」
「あくまで通っていた学校での話だ。移民系の店ならば美味い物もある、それに食べる行為に貪欲なイギリス人が作ったイギリス料理ならば食べられる物もある」
「ハズレ料理がそこら中にあると言っているようにしか聞こえませんよ」
 料理は全く出来なくとも味覚はそれなりに発達している兄弟にそう告げると、は続けて言った。
「好奇心程度でイギリスの美味い物が食べたければ、日本に出店しているロイヤル・ワラントのティーショップでアフタヌーンティーセットを頼めばいい。日本人好みにアレンジされているかもしれないが、まず間違いなく食べることが出来る」
「贅沢なのか安上がりなのか、意見が分かれそうな所ですね」
 思わず苦笑する次男に、はしばらく何か考え込んだ後、暴風雨が荒れ狂っている外を無言で眺める。更に視線をキッチンの方へ投げて、軽く頷いた。
 牛挽肉、玉葱、ジャガイモ、チーズ。呟かれた言葉を正確に拾い上げた終が、今夜はハンバーグなのかと尋ねてくる。
「ハンバーグの方がいいか?」
「じゃあ何作る気だったんだよ」
 料理は出来ないくせに材料を聞けば大体の料理は理解できるらしい三男が、不思議そうに首を傾げた。
「イギリス人が悪いのであってイギリス料理が悪い訳ではないという証明に、コテージパイくらいなら作れそうだなと思って」
「コテージパイ?」
「挽肉と玉葱を炒めて、上にマッシュポテトを乗せたグラタンに似た食べ物。ただ、おれはそこに適当な野菜も入れるから、オリジナルとは程遠くなるが」
「おいしそうだね。それにしても、の料理のレパートリーって幾つあるの?」
 今夜の夕食が決まったところで、今度は末弟が尋ねてくる。
「数えた事はない。ただ、物心付いた頃には台所に立っていたから結構な量だとは思う」
 本当に一体どんな家庭環境だ。四人の心は下らない事で一つになったが、誰もそれ以上の事を問おうとはしなかった。自身の事に関して連日驚かされ過ぎたというのもある。
 そうでなくても、あと数日で彼は自分の世界に帰るのだ。色々聞きたいことや話したい事はあったが、そういう事をし過ぎて別れを迎えるのは今から考えても辛い。
 長い沈黙がリビングに下りる。兄か弟が何か話題を振らないかそれぞれ目を配らせるが、いい話の種はこういうときに限って出て来ない。チェスでもするかと何となく口を開いたに過敏に反応したのは続で、手加減するからと苦笑していた顔を睨みつける。
 どうやら、まだ連戦連敗した事を根に持っているらしい。弱い方が悪いと告げそうになった口をどうにか拭って、仕方ないから紅茶を淹れて来ると告げて席を立った。お喋りをしながらも既に自分の分を食べてしまった終が手伝うと言ってカップとポットをトレーに乗せてリビングから消える。
、食べ物を催促されても上げてはいけませんよ」
「下手にやると冷蔵庫の中が空になるからな」
「餌付けはもう済んでるからね。これ以上しなくてもいいんだよ」
 容赦のない兄弟たちの意見は、幸い三男には聞こえなかったらしい。聞こえたところで口で反論等の軽いやり取りで済むのだが。それにしても自分は一体どういう目で見られているのだろうと、は消えた終の背中を追いながら軽く苦笑した。
 キッチンに入るとテーブルの上に乗った四種類の茶葉を見つめていた終の丸まった背中が目に入り、子犬みたいだと考えながら、ポットを温め新しい湯を沸かす。さっきと同じものを淹れてもいいのだが、あの調子では紅茶を淹れ終わる頃にはパイもスイートポテトも欠片も残ってはいないだろう。
「終、ホットとアイス。どっちがいい」
「んー。アイス」
「なら、ティーカップは流し台に置いて、グラスを出してくれないか」
 冷蔵庫に寄り氷を確認しながら告げると、ついでにグレープフルーツを二つ取り出して、先日発掘した絞り器で果汁を絞り始める。
 棚から人数分のグラスを出し終わった少年が、今度は何を作るのかと目を輝かせて寄って来た。多分、彼の紅茶に入れる果物のレパートリーは精々レモンかリンゴ程度でグレープフルーツをどうするのか気になるのだろう。
「なあ、。何でこんな沢山の紅茶が出てるんだ?」
「ブレンドしたからな」
「紅茶ってブレンド出来るの?」
「コーヒーも酒もブレンドするだろう、紅茶だって出来る。まあ、ブレンドしなくても十分美味いんだが、折角茶葉がこれだけあるならと思って」
 言いながらポットの湯を捨て、キャディスプーンで異なる茶葉を入れていく。
 この家には不思議と専門的な調理器具があるにも関わらず、あまり積極的に使われていないことには少しばかり嘆いた。棚の上の方で埃を被っているホットワイン専用のグラスやら、鍋の出汁用の大きな徳利やら、それこそ色々この家には揃っているというのに。
 そんな文句を心の中で垂れつつも、沸かした湯を注ぎ、蒸らすためにティーコゼを被せてタイマーをセット。その間にルビー色のグレープフルーツをくし切りにして、新しいティーポットにグラニュー糖を入れる作業は怠らない。
「……なんかさ、は、お母さんって感じだよな」
 ぽつり、と呟かれた言葉にの手が一瞬止まる。同時に、終も自分がとんでもない事を口走ったのに気付き、顔を赤くしながら必至の弁解を始めた。
「いや、そうじゃなくて、えっと家庭的っていうか、料理上手いしさ! 居てくれると安心するっていうか、そういう家族的な意味合いで!」
 あまりフォローになっていない言葉を述べている事に気付いていないのか、終は早口でどんどんボロを出す。氷で満たされていくグラスの向こうで、茹でられた蛸のような色をしてテーブルに突っ伏してしまった少年を見て、男が笑った。
 彼自身は女性に間違われる事は好ましく思っていないが、別に相手が子供なら、例えそれが女性役であっても、親扱いされるのは嫌いではない。ましてやはこの家の兄弟を大層気に入っていて、末の子に至っては本当に親子の年齢差がある。
 唸っている終の頭を撫でると羞恥で潤んだ瞳が見上げて、直に伏せられた。
「怒らないんだ」
「怒るような事でもないだろう」
「そっか……」
 安堵とは違う表情を浮かべる少年は、赤い頬を擦りながらグラスに付着し始めた水滴に視線をやる。向こうの景色は、白く濁って見えない。
「頭、撫でられたのなんて、久し振りだ」
 蚊の鳴くような小さな呟き。
 その言葉ごと少年を柔らかく抱き締めると、熱でも出したのではないかと思われるくらいの体温を感じる事ができた。一体どこまで体温を上げる気だろうと思いながら、汗ばんだ額の前髪を払うと、そんなところまで朱に染まっていて笑ってしまう。
 タイマーがキッチンに鳴り響き、それを止めるついでに冷えた炭酸水を冷蔵庫から取り出すと、終の視線が一々自分を追っていることに気付いた。
「紅茶と炭酸……って、合うのか?」
「火照った顔には丁度いいだろう」
「そ、れは、の所為だろ!」
 母親みたいだ、と言ったのは終であり、勝手に照れたのも彼なのだから、正直それは逆ギレ以外の何物でもなかった。しかし、はそんな事どうでもいいと言う風に、蒸らしていた紅茶をストレーナーを通して新しいティーポットに注ぐ。
「終、さっき絞ったグレープフルーツ。グラスに入れてくれ」
「……わかった」
 短い沈黙の間に自身を落ち着かせ、思い切り肩を落としながら青年の言葉に従う。まだ熱い頬を気にしながら五人分のグラスに果汁を入れると、その端から今度は湯気の立つ紅茶が注がれていった。
 氷の割れていく音が心地良い。一気に溶けていく氷をぼんやりと眺めていると、更に冷えた炭酸水を足された。真っ赤なグレープフルーツと青いストローがグラスの縁を飾って、完成。見た目も綺麗で涼しげな紅茶だ。唯一の難点を上げるならば、現在外は暴雨が吹き荒れている事くらいだろう。
 雨天曇天に似合わないその紅茶をトレーに乗せて運ぼうとする終の肩が叩かれ、振り向いた口の中にグレープフルーツを突っ込まれた。条件反射のようにそれを飲み込んだ少年の先には、使わなくなった器具を先に片付けようと手にしたがいた。
「手伝ってくれた報酬だ、三人には秘密にしてくれ」
「え、別にそんな事しなくても」
 たかがグレープフルーツ1切れで怒るような兄弟ではない、そう言おうとした終には苦いものを飲み込んだような表情をして言った。
「餌付けをするなと、ついさっき言われた」
 与えてから思い出したのだろう。それでも兄弟は誰一人この青年を責めないような気が、寧ろ終が責められるような気さえしたが、もしかすると、これは彼の心の問題であって責める責めないの問題ではないのかもしれない。きっとそうなのであろう、何せこの男は機嫌の悪い次男と二人きりにされても平然としているような人間なのだから。
 餌付け云々は一体誰の言葉か終は考え、恐らくすぐ上の兄だろうと当たりをつけて溜息を吐くと、同時に頷いておいた。
「そういう事だったら、言わないでおく」
「ああ、頼む」
 おれは片づけをしてから行くから、そう言ったに頷くとキッチンを出る前にもう一度だけと振り返る。
 あまり広さと厚みのない、線の細い華奢な後姿。困っているような、でもどこか優しげな横顔は矢張り母親みたいだと、五人分のティースカッシュを持った終は、まだ熱い頬をどうすればいいのだろうという思考の合間に、ぼんやりとそう考えた。