曖昧トルマリン

graytourmaline

魔法使い、四海竜王との外出を取り決める

 翌朝、つまりがこちらの世界に来て三日目。
 その日、朝一番にキッチンに姿を現したのは長男の始だった。
「……いない?」
 朝食の準備は既に済んでいるように見えた。弁当もちゃんと用意されている。
 しかし、いないのだ。それを作った張本人が。
「……?」
 不思議そうに首を傾げ、とりあえず新聞でも取りに行こうかとキッチンを出た。
 玄関まで行くと、の靴がない。こんな朝早くに出かけたのかと怪訝そうな表情をして玄関の戸を開け、吹き込んできた風に目を細める。
「見つけた」
 まだ誰もいない朝の道を見つめ、始はそう呟くと今日も晴れそうな空を見上げた。
 それと同時刻、異世界の魔法使いこと竜堂家臨時ハウスキーパーのも、公園のベンチで清々しく晴れた青空を気持ちよさそうに見上げていた。
 しかしその顔には、僅かに疲労の色が滲み出ている。
「……辛い」
 ポツリと一言、呟いた。
 それは家事が、ではない。にとって竜堂家の家事など自宅の手入れに比べれば働いているという感覚の内にも入らないだろう。
 異世界が恋しくない訳ではないが、それが肉体に影響を及ぼす程のものではない。辛いというより、自分のいない向こうの世界が混乱していないか心配なくらいだ。
 辛いと感じたのは環境、というよりも、相手。
「人身とはいえ至近距離で竜王四人の霊力は流石に」
 睡眠中にまたもや当てられてグダグダになっている体を情けなく思い、大きな溜息。
 歳のせいなのか少し寝不足気味。朝食と弁当の準備は抜かりなくやってきたが。
「……ん? もう起きたのか?」
 近付いてくる霊力を感知、気だるげにベンチから立ち上がる。
 公道へと出ると、新聞片手に持った居候先の家長に出会った。
「おはよう、始くん」
「おはようございます」
「どうしたんだ? 朝早くに」
「あ、いえ……ただ、の気配がこっちからしたので、迎えに」
 律儀に返す青年に、男は何と返そうかと迷い、おれがここにいると判ったのかと見当違いの返答をした。この辺りが彼が天然と呼ばれる所以であるのかもしれない。
「なんとなく、ですけれど」
「そうか、なんとなく。か」
 それを聞いては長身の青年を見上げながら愉しそうに笑い歩き出した。
 踵を返して、始も彼に続いた。
はどうして公園に?」
「ちょっと、気分転換の散歩に」
 視線が風に流され、長い黒髪をかき上げる。
 遠くを見る瞳に、話を繋げようと始が問いかけた。
「なんだか、疲れてますね。やっぱり慣れない環境の所為ですか?」
 その声に、は表情は変えずに驚く。
「疲れているように見えるか?」
「ええ、少し……見えなくもない、程度ですけれど」
 気のせいですか、と訊ねる青年に彼は首を横に振った。
「別に環境の所為ではないから、大丈夫だ。ただ」
「ただ?」
「慣れない霊力に当てられて体にガタに来るのが一日遅れとは、おれももう年なのかなあ、と思っていた」
 これ位の霊力なら若い頃はどうってことなかったのに、と苦笑したに始は子供は適応能力が高いですからね、と返す。
「始くんはまだ若いだろう。それでなくても君たちは適応能力は高い……正直羨ましい」
 遠くを見つめたままの視線が伏せられ、唇から吐息が漏れた。
 始は表情を変えないようにして、に問いかけた。
「おれたちの血が、欲しいと思いましたか?」
「いや、要らない。正直言うと欲しくもない」
 そう答えると、何か勘違いさせてしまったみたいだな、と微かに口元を綻ばせた。
「おれの場合は、恥ずかしい話だが。雑踏とか、人混みとかがな。昔から苦手なんだ」
「……そっちの適応能力ですか」
「どうにも人間が溢れている場所というのは駄目だ。肉体そのものの環境適応能力は鍛えることが出来ても、精神や体質的な環境適応能力は鍛え方がいまいち判らない」
 まあ、それも慣れなんだろうけれどな。と自己完結する男を見て、青年はある種の笑みをとても穏やかそうに浮かべると何でもなさそうな口調で告げる。
「明日、どこかに行きませんか?」
「ここは、日本の首都だろう? 今の話の流れからすると、もしかしなくても習熟の為の試練か? それとも単におれへの嫌がらせか?」
 そんなの言葉に、今度は始が苦笑する。しかし、単体で町に繰り出せば普通の人混みでも酔うにとって都会の都心部に繰り出すなどはっきり言って自殺行為だ。情けないが、正直言うと意識を保って無事に帰ってこれる自信すらない。
 外見で真面目に悩み、内面で渋い顔をしているだが、それでもきっぱり嫌だと言えないのは、偏にこの二十歳を三年前に過ぎたガタイのいい年下の青年を甘やかしたいと思ってしまうからであった。
「もしくはおれの我侭ですよ」
 はっきりとした言葉で言われてみたものの、始の口調を顔はどちこか悪戯じみている。
 そんな表情を歩きながら無言で見つめていたは、かなり長い間考え込んだ後でやがて雲に視線を移して唇を動かした。
「……わかった」
「え?」
「いくら数日で帰ると言っても、家の中にずっと引きこもっているわけにはいかないしな。一人で外出するよりはずっといい機会だと思おう」
 無意識だろうが足を止め、明らかに驚いている始を振り返りながら静かにそう言う。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だろう……多分、きっと、おそらく」
「全く大丈夫ではないと聞こえたのはおれの気のせいではありませんね」
 確認ではなく断定の形で言い切った始には表情を崩した。
「大丈夫ではないならそう言っている。推量しているのは、始くんが居るからだろう」
「おれですか?」
「一人では無理だ。だが、始くんとなら、大丈夫だと思える」
 直球な物言いに、始は返す言葉が見当たらず狼狽えた。
 そんな長兄の様子に僅かに口許を綻ばせたは二三歩来た道を戻る。弾かれた視線に笑って応えた。
「好きなだけ言えばいい。そんなもの我侭の内にも入りはしない」
「半分くらい冗談だったんですけれど」
「生憎おれは冗談は苦手だ。通じない人間だと始終言われて続けている」
 トン、と軽く握られた拳で相手の肩を叩く。
「もう少し甘えてみろ」
 188の巨体を見上げていた黒い瞳は、それだけ言うといつの間にか始の握っていた新聞を片手に竜堂家への帰路についた。
 慌てた様子での背中を追い、すぐに隣に並んだ始は困ったように頭に手をやりながら、おれもう23なんだけどなあ、とボヤいてみる。視界の下の方にある肩が笑ったように震えて見え、始の表情も綻んだ。
「さて、帰るか」
「そうですね。続も待っているようだから」
「なんだ、解っていたのか」
 丸めた朝刊で肩を叩きながら歩くを見下ろしながら始は苦笑した。
「兄弟同士だと、たまに」
「理解していたとしたら続も可哀相に」
も気付いていたなら同罪です」
「いや、原因は始くんだぞ?」
 見下ろされたまま肩を竦め、その言葉にわけの分からないという顔をしている始には丁度見えてきた玄関先を指差しながら真面目な口調で呟いた。
「どうやらあの子が待っているのはこの朝刊らしい」
「……後で謝っておきます」
「せめて新聞を置いてこれば良かったのにな」
「ハイ……」
「今更言っても遅いから、仕方ないな」
「そうですね」
 無表情のまま玄関口で仁王立ちしているある意味恐ろしい、そしてある意味奇妙な次男坊を眺めながら年長者二人は足を速めていった。