曖昧トルマリン

graytourmaline

raison

 夢を見た、嫌な夢だ。ここしばらくは見ていなかったというのに、何故また今頃こんな酷い夢を見なければいけないのだろう。
 今回は人狼になったぼくがを殺す夢だった、理性を無くしたぼくが全てを受け入れた笑顔で無抵抗を貫いた彼を殺す夢。
 そういえば、以前見た夢も酷かった、世界中が敵に回ってぼくを殺しに来る夢だ。そんな夢の中でだけがぼくを庇ってくれて、その所為で彼が血塗れになるまで傷付いて、最後には血に海に沈んでしまう夢だった。夢の中の彼が生きていたのか死んでしまったかは覚えていない、覚えているのはその悪夢に魘されて寝不足だったぼくに、は全部の話を聞いてくれた後に膝を貸してくれて、授業を放棄してまでぼくを眠らせてくれた事だ。
 また、あの誰も知らない陽だまりのような彼の傍で眠りたい、このままこんな冷たい場所で眠ったらあの夢の続きを見る事になりそうで目を閉じるのも恐かった。そう思って隣の暗闇を見つめるけれど、誰もいない。
 そうだった、今ここに彼はいないんだ。
 ぼくはホグワーツを一時的に離れ、はあの塔で一人謹慎の続きを受けている。彼はある部分がとても弱いけれど、それ以外は信じられないほど強いから今あんな塔に閉じ込められてもきっと大丈夫なのだろう。彼は自分の限界を感じたら扉ではなく塔そのものを破壊してでも帰って来る無茶な人間だから、そういう意味ではあまり心配はしていない。
 けれど、ぼくは違う、ぼくは駄目だ。彼が傍に居ないとぼくが駄目になってしまう。
 床に手を付いて体を起こすと、全身が酷く痛んだ。ここはホグズミードの端にある叫びの屋敷の一室で寮のベッドの上ではない。昨夜は満月だったから、ぼくが化け物になる日だったから、此処に来たのだ。ならば、悪い夢もその所為なのかもしれない。
 固い寝床に寒い室内、壁にはぼくが自分自身を傷付けて流した血が恐怖映画の1シーンのように飛び散っていた。こんな環境で悪夢を見ない方がおかしいのだと自分に言い聞かせ、散らばっていた服を掻き集める。
「……酷い有様」
 寒さに震えながら部屋の中をちゃんと見渡すと、いつも通り穴だらけのカーテンは使えそうにない程破れ、家具という家具は木屑と化していた。それでも窓は欠片も割れていないのは、理性を失ったぼくが窓を割って村まで行かないように前もって魔法が施されているからだった。見た目はとても薄いガラスなのに、叩いても殴ってもびくともしない。こんなものを自力で破壊できるのは巨人くらいだとうか、いや、もしかするとあの塔の壁を蹴り破ったも可能かもしれない。
 彼はこの世界ではとても珍しい、体術を習得した魔法使いだった。冷徹になれば相手を一瞬で塵にできるような高度で危険な魔法を苦も無く扱えるのに、唱えている時間が隙を作るんだとか言って感情に任せたまま拳で殴りにいくような少年だ。実際彼の場合唱えるよりそっちの方が速いのでぼくは今のところ表立って反論したことはないし、きっとこれからもないだろう。
 1年生の最初の、まだ友達になったばかりの頃。ぼくがを庇った事が原因で彼に半殺しにされた教授は文字通り手も足も出せずにいた。返り血で手が真っ赤に染まった彼を力では止める事が出来ず、言葉で宥めるのに少し苦労した事は今でも覚えている。
 彼のその凶悪とも言えるスタイルはホグワーツでは認められていない。純粋な戦闘の渦中に投げられた場合、最後まで残っていられるのはきっと彼だろうに、大半はそれを認めていない。彼にやられた連中ですら口を揃えて寝惚けた事を言っているのだからどうしようもない。自分達は危なくなれば問答無用で掴みかかるくせに、が蹴ったり殴ったりするとそれは反則だと文句を付けるのだ。
 もしも彼が誰かや何かに敗れるのだとしたら、それはきっと相手に何かの情があって力を加減した時か、圧倒的な頭数を揃えられた時くらいに違いない。彼が正面から1対1の戦いに臨んで敗れるなんてことは、ぼくには想像できなかった。
 考え事をしていたら何時の間にか東の空が僅かに白んでいる。待ち望んだ一日が始まった。今日はの謹慎が終わる日だとマクゴナガルから聞き出したのだ。暴れ柳の下を通って来る時も、この底冷えする屋敷で夜を迎える時も、黒い空に白い穴のように浮かぶ月を見上げた時も、今日彼に会えるという希望を支えにして崩壊しそうな自我を保ったのだ。
 彼が帰ってきたらただいまと言って抱き締めて、今日はチョコレートケーキが食べたい気分だと我侭を言ってみよう。きっと顔も耳も、どこもかしこも真っ赤にしながら呆れてくれる、どうしてお前はチョコレート菓子ばかりなんだと呟きながら、怪我人はこれで我慢しろと生クリームがたっぷり入ったホットチョコレートを差し出すのだ。これが冬の日の定番で、真夏ならチョコレートシャーベットになる。
 今日のような休日なら、その他にちゃんとした食事も作ってもらえた。大概見たことも聞いたこともないような料理が並んでいて、自身作るのも初めてだというものも少なくないし、たまに思いつきで作った料理も出されたりして実験台のようでもあった。けれど、そうなるとぼくはかなり幸福な実験台だ。今ではシリアルとトーストとオートミールのローテーションで栄養を摂取している他の生徒の方が余程研究室の二十日鼠に見える。
 そうしてお腹が一杯になったら、彼の傍らで次の朝まで呆れられるくらい長く眠ろう。寮の部屋はきっと煩いだろうから、彼の知っている部屋を貸してもらおうか。けれど、もしかしたら既にのテリトリーは消え失せているかもしれない、何にも怯える事無く眠れる場所はもう何処にもないのかもしれない、幸福な想像の後にそんな不安が過ぎる。
 彼はあの時、信用しているからと言って自分の知っている部屋全てをジェームズとシリウスに教えてしまった。彼のテリトリーはぼくにとっても安心できる場所だったから、あの騒がしい二人に荒らされないか心配だった。眠って食事をして談笑する為のあんなに綺麗な部屋が悪戯グッズの物置に化してしまったらどうするのだろう。それでも後悔しないと言うのだろうか。
 きっと、言うのだろう。彼は自分の物をとても大切に扱うけれど、だからといって執着はしない人間だから。
 あの地図にここまで来れる道筋を付け足したときに思ったのだ。ジェームズやシリウスにとってぼくは相変わらず部外者だという事と、ここに書かれた部屋たちみたいにぼくもに必要ではないものとして扱われてしまうのだろうかという不安。前者は割とでどうでもよかった、頭の回転が速い彼らには遅かれ早かれぼくの正体が知られるだろう、もしかしたらもう知られていて、見て見ぬ振りをしているだけなのかもしれない。
 それよりも後者だ、彼にはシリウス・ブラックとジェームズ・ポッターという光り輝く存在が出来てしまった。
 あの二人は何もかもがとてつもなく素晴らしくて、どうしようもなく眩しくて、飛び抜けている。ぼくのような薄汚れて佇んでいるだけの存在とはまったく違うものだった。彼らは人を強烈に惹き付ける。
 そんな二人を前にして、に捨てられたらぼくはどうなってしまうのだろう、少し前だったら一笑できたその不安が膨れ上がっていく。
 嫌な震えが痺れと共に指先を麻痺させた。寒さの所為じゃなく精神的なものだとは判っていたけれど、それでも外に積もった雪のせいにしたくて継ぎ接ぎだらけのローブに着替え栄養補助食として渡されたチョコレートを齧る。固くて冷たいチョコレートは口の中に入っても中々溶けてくれない、いつもは疲労と空腹で気にも留めないボソボソとした塊をどうにか飲み込んだ後での優しさを知った。
「ああ、だから、いつもホットチョコレートだったんだ」
「何がだ」
「……え」
「おはよう、ルーピン」
「え、あ。お、おはよう?」
「それで、どうした」
「ど、うしたって。それはこっちの台詞だよ!」
 口から心臓が出るかと思った。実際心臓ではないけれど口に含んでいたチョコレートの欠片が宙に飛んだ。背後にが居たのだから仕方ない。いつもの不機嫌そうな顔をして、いつものように気配を消して、いつも通りのマイペースを保って立っていたのだ。
 幻覚じゃない、間違いなく彼だ。ぼくの頭がおかしくなったわけじゃない、もしもそうだとしたらぼくの目に映っている彼は他人に滅多に見せない笑みを浮かべ両手を広げて待っているに違いない。
 あまりの事で思考が異次元に飛び過ぎて次の言葉が見つからないぼくに、相変わらず、本当に、時折脱力してしまうくらい自分の道しか歩いていないが一人頷いて何やら納得している。こういう事を訊けるほど気力と体力が残っていた訳でもないからそうする必要はまったく無かったのだけれど、彼が相手という事で何となく義務感に駆られて何をしているのかと尋ねてみた。
 ぼくとしては、ポケットの中に小さなゴミが入っていたとか、ローブのボタンが少し緩くなってきたとか、そういった彼の頭脳だけを真剣に悩ませている程度の事柄だと思っていたのだ。そうしたら、何と返って来たと思う。姿現しをしてみたと、彼は挨拶程度の口調でそう言ってきたのだ。
 長く難しい間考えるという事があまり得意ではないぼくの頭がそろそろ煮えそうだった。今更だったけれど彼は一般常識と定義されている事を大破するのを趣味の一つとしているに違いない、それは最早本能の域に達している。ぼくの中の常識では、ホグワーツにはそういった空間移動系の魔法に強力な制限がかかっていたはずだった。大の魔法使いですら不可能とされているそれをは興味本位でやってのけたらしい。曰く、ハウスエルフだってやっているのだから自分に出来てもおかしくはない。確かにそうなのかもしれいのだけれど、それにしても無茶苦茶だ。
 何だか急に疲れてしまった。普段ならこれくらいのやり取りでは微塵も感じない疲労も、今は其処彼処に大きな負荷をかける。月に体力を、夢に精神力を奪われて、彼に止めを刺されたような形だった。原形を保っているのが奇跡のようなソファに座り込んでしまったぼくをの黒い目が静かに見下ろす。あれは思案している顔だ。他人にはあの表情が不機嫌極まりないものを見ているような顔に勘違いされてしまうから、彼は誤解されやすいのだけれど。
「悪い。驚かせた」
 長い思案の後で短い言葉の謝罪が紡がれる。ぼくが何故これ程まで疲労していていたのか考えてくれていたらしい。確かに最後の一撃はよく効いたけれど、決して君の所為ではない。そう言おうとする前に、彼の言葉が続いた。珍しい事だ、は言い訳という事を好まないというのに。
「余りにも暇だったから、姿現しをしようと思った。だが行く場所が、ルーピンの傍しか思い浮かばなかった」
 だから来たのだと告白されて、あまりの事に息が止まりそうだった。いっそ息も心臓もこのまま止まってしまえばいいとすら思う。疲労しきったこの体の一体何処に潜んでいたのか見当も付かない衝動が彼を抱き締めたいと叫んでいた。
 叱られた子供のように項垂れる彼に向かって手を伸ばし、疑似餌に吊られてやってきた小魚を丸呑みする怪魚のようにぼくの腕が彼を抱き締めた。スキンシップに慣れていない彼の体は強張って震えていたけれど、それでも腕の中からは逃げ出さないでくれる。胸に当たっていた彼の唇がもそもそと動いて迷惑だったかと尋ねられた、抱き締めて逃がしたくないくらい歓迎しているのに、本当に彼は、こういった所がすっぽりと抜けていてどうしようもなく不憫で、けれど涙が出るくらい愛しい。
 君の事は大好きで大好きで仕方ないから、会いに来たなんて言われて怒るなんて考えられないと告げると、とても困った顔をされる。彼は自分の許容量を越えた告白をされるとこうやって固まって考えて、しばらくしてからその愛情をすっぽり抜けた所を埋めるための材料として使っているようだった。多分、人はそれを慣れとか、学習とか表現するのだろう。きっと彼の内に存在している穴の中には、ぼくとセブルスの言葉や行動の履歴がミルフィーユみたいに重なっているに違いない。
 そう言えば最近セブルスには会っていなかった。謹慎を受けてからずっとだ。少し眠いけれど今日は久し振りに三人でお茶会でもしようかと誘ってみよう、に甘さ控えめのチョコレートケーキを焼いてもらって、真っ赤なジャムと甘いホイップクリームをたっぷり添えるのだ。飾りのミントは要らない。はあれが好きだとこの間知ったけれど、ぼくはあんな苦くて口の中が冷たくなる葉っぱを好きにはなれなかった。
「ねえ、。今日はチョコレートケーキを焼いて欲しいんだ」
「チョコレートケーキ?」
「うん、君の謹慎が今日で終わるって聞いたから、セブルス誘って三人で食べようよ」
「……そうか、今日で終わるのか。スネイプにも、最近会っていなかったしな」
 腕の中の体は茹でた海老のように鮮やかだったけれど最初よりも随分力が抜けていて、知らない間にぼくの体も温まってきた。無防備な姿をして抱き締められているの頭にはきっと数種類のチョコレートケーキのレシピが小人のように整列して作られているのを待っている事だろう。ぼくにしてみればチョコレートケーキなんて食べ物は世界で一種類しかないと思っているのだけれど、食に関して妥協を許さない彼はきっとそうではないに違いない。
 落ち込んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなって笑えてくる。彼は相変わらずぼくを見てくれていたし、内に存在するその世界は狭くて小さくて独特の色合いを保ったままだった。他人の気配に敏いはそんなぼくを不思議な生き物に対する目付きで見上げ、一体どうしたのかと視線で尋ねてくる。
 何でもない、そう言おうとしたぼくの耳が遠くの方で複数の足音を捉えた。彼もそれに気付いたらしい。古びた床板を靴底が鳴らす音から逃げる為にぼくの傷だらけの腕を取って起き上がると館の奥へと走り出す。
 まるであの日のようだった。ピーブズから匿ってくれた、人狼であるぼくを同情からでも哀れみからでもなく、ただ一人の人間として接してくれた日によく似ている。違う事と言えば、この館にはのテリトリーはなく、追い詰められたらそこで終わりだという事だった。一人だったらきっとパニックになっていただろう、今冷静に昔の思い出を引っ張り出してくる事ができるのは彼がしきりに大丈夫だと言ってくれているからに違いない。
「ルーピン、捕まっていろ」
「捕まる?」
「飛ぶぞ」
 言うや否や、ぼくの体は宙に浮いた。と思ったのも一瞬で、冷たい土の上で背中を強打する。見覚えのある冷たい岩の天井と木の根の隙間から覗く朝の光。間違いない、ここは暴れ柳の下にある洞窟だ。少し離れた所でが体を起こしていて、五体は満足かと話しかけてきた。ついさっき成功したばかりの姿現しを今度はぼくを連れてやってくれたらしい。なんて無茶をするんだという怒りと、逃げる事ができた安堵と、彼の方こそ大丈夫なのかという不安で心の中に暴風が吹き荒れる。
 一体どの言葉から形にすればいいのか戸惑っていると、彼は剣呑な顔付きで暗い洞窟の奥を睨みつけた。また足音が聞こえる、雪の中を歩いてくる音で人数は一人。人間の聴覚しか持っていないはずなのにその存在に逸早く気づいたの姿が、三度目の消失を行った。マクゴナガル、そう呟いて姿晦ましをした少し後に、光の向こうから彼が言ったとおりの女性が現れて血の気の引いたぼくの腕を掴んで医務室に引っ張っていく。マダムに手当てをされながらは何処かと呟くとダンブルドアが塔まで迎えに行っていると言われて壁掛け時計をじっと眺めた。
 立て続けに姿晦ましをして大丈夫だっただろうか、脱走をダンブルドアに見破られなかっただろうか、それが心配になって彼に会いたいとマダムに言うと、先に食事だと厳しく言われて大皿に盛った脂っぽく塩気の強い朝食を食べさせられそうになった。
 バターをたっぷり塗った薄いトーストにベーコンエッグ、湯気の立ったマカロニ・アンド・チーズ。それはおいしそうに見えたけれど、今のぼくの胃ではとても食べれそうなメニューではなかったから、オレンジジュースと少し柔らかくなったチョコレートを齧って勘弁してもらうことにした。早く彼に会いたかったという理由が一番だったかもしれないけれど。
 医務室を出てまだ人気のない冷たい廊下を早足で歩く。何処で彼と落ち合うかも決めていないけれど、こういう時に行く部屋は一つと決まっていて寮の方へと足を向けた。目指しているのは一枚の絵画、深い山間の森が描かれた大きな絵の裏の部屋だった。
 ピーブズに追われたとき押し込められた、ぼくにとっては全ての始まりともいえるあの場所は最初はベッド一つしかない小さな部屋だった。ぼくが友人になってベッドがもう一つ追加され、その内にセブルスが偶に来るようになって更にもう一つベッドが増えた部屋だ。三つのベッドに小さなシャワールームと暖炉、そして気休め程度の家具に隠し扉の向こうのキッチン。ぼくらはこの場所によく集まって食事をしている。
 一見しただけではホグワーツに存在する動く絵画と変わり栄えしない静止画。その前で立ち止まってノックする。しばらく待っていると、部屋の入り口は自然に開かれた。部屋の主が中に居るときにだけ、この部屋はノックだけでそういった反応をする。
 けれど、ジェームズたちに地図を描いていた時に発音を正確にという注意書きがあったから、もしかしたらぼくもきちんとした発音で合言葉を言えば通してもらえるのかもしれない。今まではいつもと一緒だったからその必要は無かった。できれば、これからもその必要がない関係を保っていきたい。
「無事だったか」
「うん」
 いい香りのする部屋の中にはぼくの所に来る前に下拵えをしていたとしか思えない程完璧な食事が並んでいた。きっと塔の中で作っていたものをそのまま持って来たんだろう。ベッドは壁際に寄せられて、部屋の中央には二人が座るには十分な大きさの円卓が出現している。
 そのテーブルの上には銀色の花瓶が鎮座していた。正しくは花瓶とポットを掛け合わせたように見える奇妙な物体だった。訊くとロシア式の紅茶を入れる道具らしくて、塔で見つけたからこっちに持ってきたらしい。言うまでもないけれど、そういう事で朝食はロシア料理という事になった。知識はないぼくには正確なところは判らないけれど、は多分これで合っていると思う、と酷く曖昧な言葉を言いながら元は一人分しかない料理を皿に盛って並べ始める。
 どろっとした食材不明の料理はカーシャ、赤いスープはボルシチ、中に具の入ってるパンはピローグ、そしてこれだけ二人分用意されたピクルスのサラダと紅茶。は覚えきれないくらい沢山の説明と共に小さなチョコレートカップを差し出して、いつものようにホットチョコレートを勧めてきた。いつもと違った事といえば飲めるかと態々尋ねてくれた事だけれど、勿論飲むに決まっている。
「そっちも大丈夫だった? ダンブルドアが迎えに行ったって聞いたけど」
「……一緒に食事をしないかと、ふざけた事を言われた」
「断ったの?」
「当たり前だ」
 彼は相変わらずダンブルドアが嫌いみたいで、眉間に皺を寄せながらそう話す。きっとホグワーツに入学したての頃なら喜べたのだろう、彼はずっと前にダンブルドアに縋るのを止めたと言っていた。一緒に居れないのかと伸ばした手は何度も振り払われて、家族にはなれないのかと声を掛けても無視をされて、そうされているうちに相手にされず泣く事はもう疲れたと虚のような笑みを浮かべていた。
 たった一年だけれども、彼が疲れたと嗤うほど積み上げられた絶望を測る事はぼくにはできない。ただ判るのは、今になって彼に気を掛けるようになってきたダンブルドアの行動がそれに火をつけて憎しみとなって燃え上がっている事だった。
 ぼく自身はダンブルドアに言い表せないくらい感謝しているけれど、の前でだけはとてもじゃないけれど口に出せる台詞ではなかった。ぼくが彼の家族になれるくらい大人だったらよかったのに、そうすれば彼はダンブルドアの事も、それこそ絶望すら残さずに諦めて今よりもう少しは笑ってくれるかもしれないのに。魔法使いの居ない小さな田舎に行って、彼が憂う煩わしさから引き離せるかもしれないのに。
 ああ、けれど、結局は駄目なのかもしれない。ぼくが人狼である限り、幾ら大人になっても普通の暮らしには限界が存在した。彼と一緒に暮らしてはそれこそ、今朝の夢のように。
「ルーピン?」
「なんでもないよ。このスープ美味しいね、また作って欲しいな」
 ぼくの言葉に嘘はなかったはずだ、真っ赤なスープは色に反して辛くなく、ハーブを沢山使った味付けは癖があるけれど美味しい。半分に切られたパンを齧り、ピクルスは苦手だから全部彼に押し付けた。そうやって思考を食べる事に集中させると、正面に座っていが何かを探るような目で睨んでくる。大胆な顔色の覗い方だった。それも数秒の事で、ぼくのそれを触れてはいけない事と判断したのか黙って食事を続けた。
「……ごめん、ちょっと妄想してただけだよ」
「妄想して落ち込むのか」
「ぼくが君と家族になれたらって。でも、ぼくは人狼だから……」
「だから、諦めて落ち込んだのか」
「……うん」
 スプーンを置いて、彼が大きな溜息を吐く。何か言われるかと思った口からは何も吐き出されず、代わりにフォークに刺さったセロリのピクルスが飲み込まれ咀嚼されていった。
「ルーピンが、家族になったら。おれの友人が一人減る」
 友人という地位を捨ててまで家族になるのは嫌だ、と言いたいらしい。何故そんなことをという疑問を口にしようとして、思い出すことに成功したのは彼の生い立ち。両親に捨てられ、実の祖母から愛されず、義理の祖父からも相手にされなかったの家族像とぼくのそれは全く異なるものだった。それでも、彼は両親を憎まず、実の祖母を今でも崇拝に似た愛情を持っているらしいけれど。きっと家族を持つ事に抵抗するのはダンブルドアの所為なのだろう。
 彼は変化が恐いのだろうか。確かに、強烈に愛を欲しているにも関わらず、愛されないままの方が楽という考え方がにはある。何時か裏切られるくらいなら一人で生きていたほうがずっとマシだと思っていて、積極的に他人との関係を求めようとしない。それどころか、最近までは近付いてくる全てのものに威嚇をして拒絶していた。ぼくも、そしてセブルスも、何等かのきっかけがなければ彼とこうして付き合うことなんてなかっただろう。
は、ぼくとずっと友達のままがいいんだね」
「……ルーピンは違うのか」
「欲を言えばキリがないよ。それこそ、君と同棲出来たら楽しそうだし」
「ああ、確かに。ルーピンとなら、平穏な生活を送れそうだ」
「ぼくたちまだ十代前半だよ、それなのに平穏って」
 比較的穏やかな顔で肯定してくれたは嬉しかったけれど、半世紀以上生きた人間がようやく言い出しそうな発言に思わず苦笑してしまった。ぼくが何に対して笑っているのか判らないみたいだから本心なんだろうけれど。それにしても家族は駄目でも同棲はいいという彼の決めた区分が曖昧過ぎておかしい。今ぼくは何に対して嬉しがって、笑えばいいのだろう。
 今度の冬休みに家に泊まりにおいでと誘っても断られたのは残念だったけれど、話によるとの家の年末年始は相当忙しいらしい。大きな屋敷を魔法生物たちと一緒に掃除して、彼が豪華というくらい素晴らしい料理を作り置きしてゆっくり食べて、綺麗な服を着て、神様たちに一年間何事も大事ないようお参りに行くそうだ。健康を司る神様や、土地の神様、山の神様にトイレの神様まで、彼の国には数え切れないくらい沢山の神様がそこら中に居るという。自分の事をあまり語りたがらない彼がそうやって会話を弾ませるのは珍しい事だった。
「それに、猫の世話もあるし」
「ああ。そうだった! 結局里親探してないもんね」
「そうだな……取り合えず、ノリスはフィルチに懐いているから、彼女だけは置いていくかもしれないが」
「確かに、ノリスは真面目だからあの人とは上手くやっていけそう」
 今まですっかり忘れていた猫の事となると話も食も更に弾んでいく、元々それほど量がなかった朝食は話題が進むにつれて消えて行き最後には真っ白い皿だけが残った。時計を見てみると他の生徒達も朝食を終えていそうな時間で窓の外を見ると凍った湖の上でスケートをしている黒い影が幾つも見える。
 キッチンでぼくが洗い物に専念している間、は希望通りチョコレートケーキを作ってやるとオーブンを温めて小麦粉を篩い始めた。チョコレートブラウニー、クラシックショコラ、オペラ、ザッハトルテ、ガトーショコラ、フォンダンショコラ、ミ・キュイ、ムースショコラ……はケーキじゃない、と一人でつっこみも入れながら様々な国のチョコレートケーキの名前を呪文のように囁いて、刻んだビターチョコレートを刻み湯煎で溶かしていく。
 そう言えば、ぼくは彼が料理をしている姿を、それこそあの塔の中ですら最初から最後まで見た事がない。大概邪魔だとか言われて追い出されるからだ。今日は何も言われないので黙ってしばらく観察していると囁いていた言葉はいつの間にかフォンダンショコラという言葉一つになっていて、時折ガナッシュは面倒くさいから却下という理解不能の合いの手が入った。意外だった、は料理をしている時は独り言が凄く多い。材料の名前は勿論、手順まで口に出している。
 卵、砂糖、ココア、決して注文されているわけではないけれど彼が口に出した材料を手渡していると何だか母の手伝いをしている気分になった。ただキルシュという物体だけは一体何なのか想像が付かなくて右往左往していると、彼は無言で棚の中から透明の液体が入った瓶を取り出す。
「それがキルシュ? 何かのジュース?」
「桜桃のリキュールだ」
「なんか、お酒みたいな匂いするんだけど」
「酒なんだから当たり前だろう」
 大人にばれたら叱られる液体をバーテンのような手付きで生地に入れ、今までの材料が全部ボールの中で混ぜ合わさっていく。焼いている間に生クリームを泡立てて、チェリーのシロップ漬けとミントを飾ろうと提案されたけれどミントは要らないと抗議した。用意された小さな焼き型はどう見ても三人分じゃなかったけれど、は保冷すればいいと全く気にしない様子でそれをオーブンに入れる。
はバーテンにもなれそうだよね。その人に合うカクテルを一瞬で見抜きそう」
「見ず知らずの人間と話すのは面倒臭い。それにアルコールはそんなに強くないから無理だ」
「強くないって判る程度には飲んだんだね?」
 ちょっと揚げ足を取ってみると、は別に悪ぶった様子も無く肯定した。彼の国では二十歳になるまで飲酒は禁止されているらしいけれど、年の初めに薬酒や米から造った甘いアルコールを飲まされるから自分の許容量を大体は知っているのだという。今年もまた家の魔法生物たちに飲まされると少しうんざりしている様子が可愛かった。
 窓の外から賑やかな声が聞こえる。オーブンの中からはチョコレートのいい匂い。そろそろセブルスを呼んで来なければいけないけれど、もう少しだけこうしていたいと思ってしまう。包帯だらけの腕がに触れると黒い瞳が何か言いたそうに見上げてきた。
「大丈夫そうだな」
「え、何が?」
「ルーピンに会ったとき、いつもよりも元気がなかった」
、心配してくれたの?」
「……した」
 無愛想な顔で俯いたはそれとフォンダンショコラを作ったのは関係ないからな、なんてあからさまな事を言って頬を染める。さっきから会話を弾ませたのも、このチョコレートケーキも、今までキッチンから追い出さなかったのも、全部気遣ってくれた事だと知って、ホイップクリームが作れないと怒鳴る彼を力一杯抱き締めた。
 フォンダンショコラが少しくらい苦くてもいい。ホイップクリームなんて無くていい、飾りのチェリーもミントも要らない。それを用意する時間があるくらいなら、ぼくはチョコレートの匂いのするを出来る限り抱き締めていたかった。本当に、どうして彼はこんなに愛しいのだろう。
「元気が無かったのは、ちょっと夢見が悪かっただけなんだけど……確か、悪夢は誰かに話すと現実じゃなくなるんだよね」
「今度はおれが死ぬ夢でもみたのか」
「……ぼくが、殺す夢」
 もう残骸と成り果てた夢からはそれがどんな状況だったか判らなかったけれど、その欠片すらも彼に消して欲しくてそう告げた。ほんの数秒の間の後、は冬眠開けの熊とぼくが戦ったらどちらが強いかという、彼らしいといえば非常に彼らしい斜めの質問をぶつけてきた。
 夢占いの類なのだろうか。しかし何故冬眠明けの熊なのだろう。色々思うことはあったけれど、多分熊の方が強いだろうと答えると、なら大丈夫だろうと返される。一体何が大丈夫なのかと尋ねる前に、彼が昔冬眠明けの熊を殺した経歴の持ち主だと告げられた。熊殺しの猛者、これ程事実を的確に表した言葉が似合わない人物も珍しいと一瞬現実逃避する。
 つまり彼は、自分>熊>人狼のぼく、という構図が言いたいらしい。熊より弱いなら殺さずに止めてやろうと不敵に笑う慰め方は以前と違って何故か笑いを誘われた。彼がそう豪語するなら可能なのだろう。本当にはこんなに小さくてか弱いのに、ある方面では信じられないくらい強いから時折驚かされる。そう、君が言うなら大丈夫だね、と涙を拭いながら返しておいた。笑い過ぎて腹筋が痛い。こんな馬鹿馬鹿しい事で傷が開いたら責任を取って彼に手当てしてもらおう。
 笑いが収まるとぼくは腕の中に閉じ込めたままのを解放してセブルスを呼びに行こうと誘った。飾りつけはホイップクリームではなく粉砂糖にしようと提案すると、甘党ではないに当然却下される。ぼくの感性で盛られる砂糖でケーキを駄目にされるくらいならホイップクリームを作ってやると、半ば叫んでいる彼の背中を押してキッチンを出ると、部屋のドアの向こうに話し声が聞こえた。よく知った、同室の友人達のものだ。
 彼らに悪気はないのは判っている。けれど、楽しかった気分はそれだけで台無しになった。もさっきとは違う、うんざりとした表情でドアの向こうを見つめている。
「……あいつらか」
「セブルスがあんな大きな独り言してたら恐いよ」
「頭を打ったか、手に負えない呪いを受けたかの二択だな」
 彼もジェームズやシリウスを今この場に入れたくないらしい。オーブンの中のフォンダンショコラを気にしながら、何故かぼくに大丈夫かと尋ねてきた。そう問われる理由が判らなくてどうしてかと逆に尋ねると、気付いていなかったのかと鼻先を指される。
「あいつらだ、屋敷に来た連中」
「……そうだったんだ」
 気付かなかった。だったら別に、逃げる事なんてなかったのに。
 あの地図に線を書き足した日にある程度の覚悟はしていた。どの道、あのジェームズやシリウスに長い間隠し事をしていく事なんて不可能なのだ。特にジェームズは、そういった事に信じられない洞察力を発揮する。そんな事発揮しなくてもぼくの持病は割と判りやすいものなのだろうけれど。
 そう、けれど、それでも、もしかしたら万が一、そんな事なんて気付かない振りをして今まで通り接してくれるかもしれないという期待もあった。
「持て成すか? 紅茶はまだあるが」
「……うん。お願いしていいかな」
 ぼくの心情を理解しているのか、は追い出すかとは訊かずに真新しいティーカップを持ってくる。そんなに長い話にはならないだろうけれど、紅茶くらいは出すべきなのかもしれないと思って頷くと、彼は五つのティーカップに濃い紅茶を注いでそれをお湯で薄め始める。向こうにはピーターもいるらしい。
 四六時中見ているから忘れてしまいそうになるけれど、彼のこういった不思議な能力は使いどころによってはとても便利で平和的なものだといつも思う。今みたいに急な来客があっても必要なものを必要なだけ用意できる、慌ててティーバックを一つ余分に出してしまったなんて事も起こらない。部屋も事前に綺麗にできる。
 そんな馬鹿げたことを考えている間に、は杖を振って壁際のベッドを消し、丸かったテーブルは四角に変えた。お湯で薄めた濃い紅茶を真っ白なテーブルクロスの奥に二つ、手前に三つ置いて行くのは彼なりの気遣いなのだろう。ひとまず役目を終えたあの花瓶のようなティーポットは窓際に追いやられ、吹き出す蒸気が窓を一層白くしていた。
 鍵を開けるためにドアに近付くと、ジェームズとシリウスが交互に何か叫んでいる。発音を正確にって、その発音が判る本人が此処に居ないじゃないかと言っていた。もしかしたら、はそれを見越してあの地図を二人に渡したのかもしれない、そう思って彼の表情から心中を探ってみようと思ったけれど、それもすぐに諦めた。
 言いたい事はすぐに顔に出るのに、普段彼が何を考えているかはぼくもセブルスも判った試しがない。彼は酷く深刻な顔でアフタヌーンティーのメニューに悩んでいたり、ぼんやりとした表情で信じられないくらい複雑な魔法式を綴っていたりするのだ。
 それにしても、そろそろ本格的に外が騒がしくなってきた。空腹だと声が大きくなるものなのだろうか、会話から拾えたのは三人とも朝食を食べ逃した上に誰も食料を持っていなかったという事。それを聞いていると少しだけ彼等が不憫に思える。だって、このドアを開けたらチョコレートのいい匂いが充満していて、けれどそれは未だオーブンの中で焼かれているのだから。朝食を食べたぼくだって、その香りには誘惑されるのだから、耐え難い修行の場に放り込むことになるかもしれない。別に、それ程心は痛まないけれど。
「三人とも、何か用?」
「あ、やっと気付いてくれた!」
「さっきから気付いてたけどね」
「ええー、まさかの居留守?」
「無駄口を叩いてないで入るならさっさと入れ、揃って殺すぞ」
 何故かぼくまで殺害対象になっている事を指摘する事は避け、食欲中枢を刺激する部屋の真ん中へ三人を案内する。ジェームズは空腹を嘆き、シリウスは甘いものが苦手みたいで顔を顰め、を苦手としているピーターはおどおどしていた。
 一体何しに来たのだろうと尋ねてしまいたくなるような面持ちだったけれど、予想通りというか、ぼくが人狼だった事を隠していたという話だった。シリウスは紅茶に目もくれず、座るなりテーブルを荒っぽく叩いてぼくを睨み付けてくる。険しい顔をしていたのは、なにもチョコレートの所為だけではないみたいだった。
 小さく跳ね上がったピーターと食器を無視して今にも噛み付いてきそうなシリウスを止めたのはジェームズだった、彼はシリウスとは全く目的が別だという仕種で砂糖を入れた紅茶を一気に飲み干してからサモワールと呟いた。何かの呪文なのかと構えたけれど、ぼくの隣に座ったは少し考え込んだ後に興味があるのかと窓を指す。ジェームズの呟いた言葉があの花瓶ポットの名前らしい。
「普段からこれで?」
「いや、塔で見つけて昨日初めて使った」
「塔だって? シリウス、こんな面白いものがあったならぼくに報告してくれなくちゃ」
「おれはそんな話をしに来たんじゃない!」
 再度シリウスの手がテーブルを叩くけれど今度はピーター以外は何も跳ねなかった、前もってジェームズが全ての食器を少しだけ浮かせていたからだ。
「落ち着けよ、シリウス。あんまり怒鳴るとに殴られるよ」
「何故おれなんだ」
「え、殴らないの?」
「黙らせるなら首を捻り切った方が速い」
 絶対に冗談ではない言葉にシリウスは不機嫌そうな顔のまま黙る。確かにはすると宣言した以上は絶対にそれを行う、捻り切るまでは行かないかもしれないけれど首を締められる可能性は高いのだからそうせざるを得ないのだろう。
 不貞腐れた顔をしているシリウスの代わりにジェームズが口を開いた。君は人狼なのかいと、初対面の人間に誕生日を尋ねるような気軽さで告げられ、ぼくもそれに乗るように人当たりのいい、胡散臭いとも捉えられる曖昧な笑みで頷く。シリウスのこめかみには青筋が浮かび、はこの場所に誰も居ないような振る舞いで紅茶を一口、ピーターは相変わらずおどおどしていた。
 もう一口、が紅茶を飲む前に、シリウスの堪忍袋の緒が切れる。何と短くて脆い緒なのだろうか。怒鳴り声に近い文句は聞き取るのにも苦労するくらい早口で、次から次へと溢れ出てきた。
 何で今まで言わなかったんだそんなにおれたちのことは信用できないのか気付いていたさでもお前が言い出すまで待っていたんだおれはこの一年我慢しただから今日は言いたい事を全部言いに来た、あまりの言葉の量にぼくの脳がパンクしそうだったからそれ以上の文句は聞き流す事にする。紅茶を飲んでいたジェームズはぼくを見て苦笑した。気が済むまで黙って聞いてあげててよ、という妙に具体的な笑みだった。
 腹の底で煮えていた言葉は相当あったみたいで、シリウスが全ての文句を出し切ったのはそれから10分も後のことだった。冬なのに額には汗をかいていて、肩で息をしている。折角が淹れたのに冷めてしまった紅茶を一気に飲み、今自分の述べた意見について逐一反論するなりしろ、と無言で睨んできた。
 勿論全体の一割も聞く気になれなかったぼくにそんな事が出来るはずも無く、今頃から彼等が納得できるような言葉を探し始める。
 別にないわけではないのだけれど、それはあまりにも直球過ぎて言うのは躊躇われた。に対する君達の態度を見て言い出せると思ったのかい、その台詞はどう考えても火に油どころかガソリンを投げ入れるようなものだ。ガソリンも油だけど。
「なあ、リーマス。おれたち友達じゃなかったのかよ」
「うん。それはそうなんだけど」
「だけど? だけど何だって言うんだよ!」
 三度目。テーブルが叩かれる音に驚いたピーターがまた跳ね上がる。ぼくの隣ではが空になったそれぞれのカップを集めて紅茶を淹れ直していた、ジェームズはその様子を瞳をキラキラさせながら眺めている。きっと彼もなんとかという名前の花瓶ポットを使ってみたいのだろう。それにしても、この部屋の温度差は一体何処から来るのだろうか。
 出来る事ならぼくもとジェームズの方へ混ざりたかったけれど、彼らは示し合わせてそうしている訳ではなく自分のやりたい事をやりたい時に行っているだけで、そういう点ではぼくも変わりないのかもしれない。シリウスが上の空だったぼくの名前を怒鳴り、傍らでテーブルに新しい紅茶が置かれる。
「ブラック」
「……何だよ」
 紅茶を渡していたがおもむろに口を開いた。今度は冷めないうちに飲めとでも、相変わらずマイペースな意見を述べるのだろうかと構えていると、流石と言うべきが、未だ慣れない彼の突飛な発言が飛び出した。
「お前達や周囲の人間の、おれに対する反応を見て、そんな大事な事を言い出せると本気で思っているのか」
 正直なのはいい事なのだけれど、これはどうなのだろう。確かににはぼくの不安を打ち明けた事はあるのだけれど、言い辛かった事をはっきりと言ってくれた感謝の気持ちはあるのだけれど、先がややこしくなりそうでどうするべきなのか考えた方がいいのかもしれない。
 まかり間違えばとシリウスの殴り合いが始まるかもしれなかったその発言を、一番最初に受け止めたのは眼鏡を湯気で曇らせていたジェームズだった。
「うん、確かにの言うとおりだ」
「ジェームズ!?」
「や。だってそうだろう? ぼくだって進んで非難されたくはないよ」
 煩わしいから四六時中物を投げられたくないし、面倒くさいから教授達に目の仇にされたくもない。陰湿な悪口もうんざりさせられるし、そういった連中を相手にしなければならない時間が勿体ない。君もそうだろうとシリウスに問いかけると、形のいい唇が横一文字に引き結ばれた。君はどうだい、と突然話を振られたピーターは何度も瞬きをして顔色を覗いながらそういう目には遭いたくないと小さく囁く。おれだって好きで遭っていた訳じゃないとが呟いた言葉は、幸いぼく以外には聞こえなかったようだ。
 この場合はぼくが何か言わなければならないと言葉を探すけれど上手い表現が見つからず、結果部屋の中は不自然な沈黙に包まれる。外で遊ぶ生徒達の暢気で体力の有り余った声がここまで届いてきた。
「過去の事だ。おれも、ルーピンも」

「そうだろう、ルーピン。おれを見て、大丈夫だと思ったから、あの時地図に道を書き足したんだろう」
「……まあ、端的に言えば」
 これではまるでぼくが彼を実験台のように見ている風に捉えられるかもしれない。いや、実際はそうなのだけれど、実験台という言葉は相応しくない気がする。
 誤解されるだろうかとテーブルを挟んだ向こう側に居る三人を見ると、真っ先にそれを察知したジェームズがシリウスを小突く。表情を見ても二人はの性格と、ぼくらの関係を理解してくれているみたいだった。
「つまり、で誰の命令も受けず好き勝手振舞って、リーマスはリーマスでそれを参考に何時言い出すか見計らってただけなんだよ。ピーター」
「う、うん?」
 ジェームズは片目をつぶって儒教と供給の亜種だと思えばいいよと続ける。ピーターは理解したかどうか読み取れない顔で頷き、シリウスは少し拗ねているようだった。口を開かないという事は、やっぱり思うところは色々あるらしい。ついこの間まではとシリウスは壊滅的に仲が悪かったわけだし。
 そうして周囲の空気が落ち着くと、それまで固まっていたピーターの緊張もようやく解かれたみたいで、紅茶のカップを両手で持ちながらぼくに話しかけてきた。背を丸め頬を真っ赤にして、部屋の中なのに息が白くなりそうな呼吸の仕方で。
「あ。あのね、リーマス。ぼくたち、リーマスが人狼だからとか、それを隠してたから責めに来たんじゃないんだ。ぼくたち本当は、」
「そう、本当はもっと別の事で話をしに来たんだ!」
「ちょっと待てジェームズ発案したのはおれだ!」
「君はさっき散々喋ったじゃないか。こういうのは言ったもの勝ちさ、実はぼくたち、君の為にアニメーガスになろうと決めたんだ」
「ジェームズ!」
 アニメーガス、その言葉を聞いてぼくはティーカップをソーサーへ戻す。喧嘩しているジェームズやシリウス、ぼく頑張るよと張り切っているピーター。三人にとても申し訳ない気持ちになりながら、ぼくはこのまま黙っている事はいけないと自分の今の考えを伝える事にする。
「ごめん。アニメーガスって、何?」
「杖無しで特定の動物に変身出来る、動物もどきの事だ。一年の変身術の授業の最初の日、マクゴナガルが猫になっていただろう」
「……そうだっけ?」
 の言葉を頼りに記憶を掘り起こしてみるけれど、一年以上の前の出来事なんて綺麗さっぱり忘れているぼくの脳は、昨日の午後ピーターが失敗してマグカップをナメクジみたいに溶かした風景しか再生されなかった。ドロドロに溶けた無機物が歪んだ熊のペイントを背負ってゆっくりと机の上を這う様子はとても気持ち悪かった事くらいしか覚えていない。
 ぼくが他所事を考えているのが判ったみたいで、は軽い溜息と一緒に複雑な魔法だ、とだけ言った。彼がそう言うのだから、ぼくには到底こなす事のできない本当に複雑な魔法なのだろう。どのくらい複雑なのかは聞いても判らないから聞かないことにした。それが理解できるのはきっとジェームズやシリウスのような頭脳を持った人間なのだろうから。
「でもどうして?」
「どうして? そんなの友達だからに決まってるだろ!」
「ストップ、シリウス。怒鳴らない、騒がない、に殺されるよ?」
「ポッター、おれを使って躾るのは止めろ」
「躾って、シリウス犬じゃないんだから」
「違うよピーター、学習能力という点に関してはシリウスより犬の方が賢い」
「おい!?」
「喧しい」
 ジェームズの名を呼んだ怒鳴り声と共にの鉄拳が繰り出されて、完全に犬認定されているシリウスはテーブルに沈んだ。ジェームズが気にせずに話を続ける。何でも、人狼が噛み付きたくなるのは主に人間で、だったらそれ以外の生物になってしまえばいいと言っていた、例えどれだけ時間がかかっても完成させてみせると、自信に満ちていてそれで飄々とした笑みで宣言した。
 その言葉は、とても嬉しかった。けれど、ぼくは当然反対する。複雑な魔法ならば常に付き纏う可能性、もしも変身に失敗したらどうするのか、成功しても噛み付いてしまう可能性がないわけではない。デメリットが多過ぎると確認して貰い、諦めるよう説得する。
 ぼくはホグワーツに入学できただけでもう十分なのだ、友人も出来て、これ以上他に何を望めというのだろうか。いや、望めるものなら望みたい、けれど、望むだけではどうにもならないものが世の中には沢山あるのだ。ぼくはそれを知っているつもりだ。
 本心を隠して自分の意見を言っても、ジェームズは一言、みんなで決めたんだとだけ言って決して譲ろうとしない。頭を摩りながら起き上がったシリウスも、あの気弱なピーターでさえも、これだけは駄目だと譲ろうとしなかった。頼みの綱のも異論を出さないので同意はしているらしい。
「どうして……」
「だから、友達だからだ!」
 シリウスの強い意志を持った瞳がぼくを睨んでくる。ピーターは友達だからこれくらいする事は当たり前だと言って、ジェームズが言葉を引き継いだ。
「リーマス、ぼくは建前じゃなくて君の本心が訊きたい。ぼくらがアニメーガスになるのはそんなに嫌なのかい?」
 嫌じゃない。嫌じゃないけれど、だけど……そう、恐かった。
 これが夢だったら、ただの冗談だったら、彼らの言葉に期待した自分に絶望するかもしれない可能性があるなら、そう思うと用意に首を縦に振ることが出来ない。今まで第三者としてみていたの恐怖を、今ぼくは味わっている。自分以外の誰かを信じるには限界があるんだ、信じたいけれど、それに裏切られるかもしれない恐怖があるんだ。信じたものを打ち壊される絶望、それを見るのが恐くて仕方ない。
 テーブルの下でじっとりと汗ばんだ手を握って、何度か口を開きかけた。何と言えばいい、何を言えば三人に納得してもらえる。それだけを考えていたぼくの拳を、小さな手の平が包み込んだ。驚いて手の持ち主を見ると、真っ黒な瞳がこちらを見ている。
「信じればいい」
「……?」
「信じてやればいい」
 怯える必要なんてない、裏切らないから大丈夫だ。の瞳はそう言っていた。固かったぼくの拳を撫でて、三人に答えを返すように促してきた。彼にそう言われては仕方ない、自分の気持ちを正直に言うしかなかった、けれど、知らないうちに涙が溢れてきて唇からは嗚咽が漏れる。ピーターがハンカチを差し出して笑った。
「……ありがとう」
「ようやく素直になりやがったな!」
 シリウスがテーブルを飛び越えてぼくを抱き締めに来る、ジェームズは視界のぼんやりとした方で笑っていた。隣の席にはさっきまで手を握ってくれていたがいつもの表情で座っている。
 体に回されていた腕に力が篭っていく。痛くはないけれどまだ新しい傷口が開きそうでそれを訴えると慌てて力を緩めてくれた。ピーターが心配して立ち上がりジェームズが茶化す為だけに隣に来てシリウスが怒り出す、その様子にぼくとピーターが笑った。部屋の中を支配するのは様々な笑い声、ぼくもこんな大声で、それこそ支えられないと倒れてしまいそうになるほど笑ったのは本当に久し振りだった。
 抱き締められたまま身動きが取れずにいると、二人に髪の毛をグチャグチャにされて、あまりに押さえつけられるものだから椅子から落ちそうになってしまう。シリウスの片腕を借りて立ち上がると体重が軽過ぎると大声で文句を付けられた上に担がれてキッチンへ調達に行くぞと連行された。それに続きながらぼくが軽い以上に君が馬鹿力なんだよというのはジェームズの談、ピーターはぼくが落とされないかと不安がっている。
 肩に担がれたせいでいつもより高い視界の端に、五人分のティーカップを片付けているの姿が映った。ぼくがなにか声を掛けなければと考える前に、ジェームズが手伝おうかと愛嬌ある声で問いかける。結構だ、というのはいつも通りのの声。けれど廊下に出た瞬間に続くはずだった言葉はは嘘みたいに小さくなった。耳を澄ましても聞き取れない程音量の下がった会話を遮るようにシリウスがぼくの骨と皮ばかりの体に文句を付け、ピーターと足して割った方がまだマシだと大声で呟いている。
 絵の隙間からひょっこりと出てきたジェームズが全部片付けたら来てくれるってと言い、ぼくの顔をじっと見つめた。ぼくの顔に何か付いているだろうか、首を傾げると申し訳なさそうに笑われた。ぼくがよく浮かべる類の、他人と距離を取るための笑みだ。
「それよりシリウス、いい加減リーマスを下ろしてあげなよ。それじゃあ目立ち過ぎてキッチンに忍び込めない」
 ぱん、とぼくが担がれていない方の肩を叩いてジェームズが先頭に立つ。ピーターがその後を小走りに追って、ぼくを下ろしたシリウスが大声で会話しながら歩き出した。ぼくはその場に立ち止まり、あの絵を振り返る。とても綺麗な絵だった。
 三人がぼくの名前を呼ぶ。シリウスは態々戻ってきてぼくの腕を引っ張りエスコートを強行した。ピーターが空いていた方の袖を掴み、ジェームズがぼくらを先導する。
 昼食の用意に忙しいキッチンでスコーンを拝借して、ジェームズが見つけたという甲冑だらけの部屋でたっぷりのクロテッドクリームと甘いグズベリーのジャムでそれを食べた。なら見つけてくれるだろうと、それからしばらくその部屋で談笑しながら彼を待ったけれど彼は現れなくて、大広間での昼食の席でも見つけることは出来なかった。
 ぼくら四人は仕方なく昼寝でもしようかと会話をしながら寮へ戻る事にした。誰もが早朝に起きて、しかもお腹が一杯になったせいで睡魔が襲ってきたらしい。いっそ夕方まで眠ってしまおうというピーターの提案に誰も文句を付ける事無くベッドに潜ろうとすると、枕元に差出人不明の小さな箱が置かれている事に気付く。ぼくだけではない、四人全員の枕元にそれは置いてあった。飾り気も何もないただの白い箱を一番最初に開けたのは好奇心旺盛なジェームズで、彼はそれを見た瞬間ぼくに箱を開けるようにと言ってきた。
 一体何なのだろうか、ジェームが開けろと言うなら大丈夫か、何も考えず、そして思い出すことも出来ず箱を開けた自分を呪いたくなった。
 中に入っていたのはチェリーのジャムとホイップクリームが添えられた小さなチョコレートケーキ。ローブに染み付いていたはずの匂いと同じ香りのするケーキにはメッセージカードも何も無く放置されていた。瞬間、を迎えに行かなかった事に対しての峻烈な後悔が思考を襲い、血の気を奪っていった。
 ぼくはあの場所に彼と、ぼくが言い出した約束を置き去りにしてきたのだ。