曖昧トルマリン

graytourmaline

choix

 城の北東に建っているその塔は暗く湿気が多くて寒い、ここで謹慎するなら地下牢の方がまだマシだと思えるくらい酷い場所だった。
 石造りの壁は氷みたいに冷たく、油臭い煤だらけのランプはあるけど暖炉が見当たらない室内はそれが当然と言いたげに冷えている。人数分ある固いベッドの上にはボロ切れのような毛布が二枚。手の届かない上の方には隙間風を通している小さな窓が一つ。そんなもの全て魔法の一つでどうにかすればいい何て言われそうだけど、そもそも杖を取り上げられたおれたちにどうしろというのか。
 不満そうな顔をしているおれたちを置いて、マクゴナガルはさっさと消えてしまった。勿論扉には魔法で二重に鍵が掛かっていて、更にマグルの使う普通の鍵と、南京錠を五つ追加してやがる。一体おれたちを何だと思っているんだと不満を漏らしたら、ジェームズは真っ白な息を吐き出しながらそれだけぼく等の能力が買われている証拠だね、後で誰が何割買われているか考察してみようと暢気に笑っていたがった。鼻先を真っ赤にしながら、それでもこいつは寒そうな素振りを見せようとしない。
 逆にリーマスは白い顔をして、震えながら手を擦り合わせていた。こんな所に放置されても簡単には死にはしないおれやジェームズやはともかく、こんな痩せた体したリーマスまで閉じ込めるなんてどういう神経してやがる。丸まったその背中にありったけの毛布を被せてやりたい衝動に駆られたけど、ひとまず背中に背負ってるこいつをどうにかする方が先だろう。
 部屋の中にある一番小さなベッドにを下ろすと、切ったばかりで整っていない黒い髪が埃っぽい毛布の上に広がった。やっぱりこいつもそれなりには寒いみたいで、靴を履かされたままの足を擦り合わせながら包帯だらけの両手を腹の方に持って行き丸まって眠り始める。
 放っておくと何時までも靴をザリザリと擦り合わせていそうだから、取り合えず靴を脱がしてやると毛布を引き寄せながら冬眠するヤマネみたいに更に小さくなりやがった。というか、こいつ手も足もかなり小さいな。
「甲斐甲斐しいねえ、シリウス」
「うるせえ」
 こっちにも色々あったんだよ、と返そうとした口からは別の言葉が飛び出した。当然だ。おれ達四人の中で一番暖を取らないといけないようなリーマスが、隣のベッドから薄い毛布をに掛けようとしてやがったんだから。他の二つのベッドに全く手を付けていないという事は、その毛布は本来リーマスが使うべき物だった。
「だって寒そうじゃないか、それにこんなに怪我して」
「お前一回鏡見て来いよ!」
 寒そうなのも怪我をしているのも完全に五分五分だ。いや、血色の良い分の方がまだマシなようにも思える。兎に角お前は駄目だと言うと、リーマスは食ってかかってきた。本当に、こいつはどれだけの事が好きなんだよ。頭が痛くなってくる。
 ジェームズがおれたちの間に割り込んで仲裁をしようとするけれど、はっきり言って邪魔だ。おれにだって譲れない物とか、譲りたくない物がある。その二枚の毛布はリーマスが使いべきだというこの主張は、期限を言い渡されなかったいつ終わるとも判らない謹慎を受ける今の状況からしたら絶対曲げるべきじゃない。
 この寒さの中で顔を真っ赤にして怒鳴りあうおれたちを止めたのはジェームズではなく、意外にもベッドで眠っていただった。というか、のくしゃみだった。おれたち三人の無言の視線を受けながら起き上がったはもう一度小さなくしゃみをして体を震わせる。完全に目覚めていない目が宙を漂った後、おれたちに向けられたがすぐに逸らされた。
 きもちわるい、そう呟いてベッドを降りると靴下のままで床に立って一番手近なランプを外し、もう一度同じ言葉を呟く。一体何が気持ち悪いのか判らない。
 相変わらず謎が多い行動に固まるおれたちを完全に無視して、黒い瞳が中を見渡した。
 何かを探しているような目付きで壁や天井、数少ないインテリアを眺め、やがて首の動きが止まる。視線の先にあったのはただの汚れた石壁のようだったけれど、よくよく見てみるとその汚れに紛れて何か小さな紋様のようなものが描かれていた。本で読んだ事があるような気がしてこれは一体なんだったかと思い出す前に、安物の真っ黒いランプが力の限り叩きつけられてそれは煤に染まってしまう。
 零れた油に引火して黒い煙が上がったところで、おれたち三人は始めて今の状況が笑えるものじゃないという事に気付いた。出口も窓もない塔の中で、引火しやすいボロい家具に囲まれた部屋。最悪の結末が脳裏を駆けて、焼死は御免だとおれとジェームズが同時に動き出そうとするが、それよりもずっと速く、は何処かから杖を取り出して火も煙も壊れたランプの残骸も綺麗に消してしまう。
 杖、その右手の持っているのはまごうことなく杖だった。何でこいつだけ杖を持っているんだ、確か寝ている間に没収されたはずだろうと記憶を辿ってみる。確かに没収された、マクゴナガルに持って行かれた。じゃあ、あれは一体何なんだ。
「……寒い」
 さっきより随分はっきりした口調で言ったはもう一度杖を振って部屋の温度を上昇させ、隙間風を運んでくる窓をきっちりと閉める。毛布はまだ必要だけれど、それでも吐く息は白くならないし、何より炎で暖を取るよりもずっと心地いい室温になった。部屋も埃っぽくなくなっているし、ランプの明かりは炎ではなく熱を帯びていない白っぽい光に代わっていて、地味だけれど一度に複雑な魔法をやってのけた事が判る。
 そこまでやって、の視線がようやくおれたちに向いた。こうして何の偏見もなく心に余裕を持って向き合うのは初めてで、全体的な感想としては女というか、幼い女の子みたいな、小奇麗な顔だと思った。
 ああ、これならジェームズやリーマスが口を揃えてお姫様と言っていた理由が判る。外見だけで言えばは御伽噺に出てくる何処かの国のお姫様のようだ。無邪気に笑ったらその場に居る男の心を全部わし掴んでしまいそうな気がしたけれどきっとそんな事は起こり得ない、そして重ねて言う。あくまで外見は、の話だ。
「おはよう、
「……おはよう」
 真っ先に現状から立ち直ったリーマスが、寝ているところを叩き起こされて不満そうな顔をしているに挨拶をすると、律儀に挨拶が返ってくる。今は謹慎中で丁度この塔に詰め込まれたところだと先に説明されれば、何やら納得した様子でもう一度辺りを見回した。
 すると、今度は扉と丁度反対側に歩いて行って、何の変哲もなさそうな石壁を二回叩く。何が起こるのだろうかと身構えたが、何も変化は起きない。
 不機嫌そうだった表情に更なる不満が追加されて小さな背中は殺気立ち始めていた。一体何をしているのか気軽に聞けない程度に怒っているは無言のまま、おれたちの方へとやってくる。リーマスならこいつが何に対して怒っているのか判るんじゃないかと目を合わせているが首を横に振られた。
 ジェームズだけは相変わらず余裕の笑みを浮かべてその行動を観察していて、お前は何しているのか判るのかよと内心だけつっこんだ。
 全く判らない理由で殺気を撒き散らしている小さな体はそんなおれたちを無視して、さっきおれが脱がせた靴を履き直す。一体何をする気なのか、まさかそれであの石壁を蹴り破る気なのか。
 巨人の血を引いていたってそんな事は無理だろうし、第一蹴り壊す理由が見当付かない。というかやっぱり何世紀にも渡って立ち続けている塔の石壁を道具も無しに破壊するなんて人類には無理だ。杖を持ってるならそれを使え。
 怒涛のようなつっこみが咽喉で堰き止められなくなりそうな頃、おれよりも細くて短い足が石壁に叩きつけられる。壁は冗談みたいに吹き飛んだ。
 え、なに、マジで? という表情をしたジェームズと目が合う。人類の壁を越えた目の前の男の存在にあの余裕の笑みは何処かへ消えていた。多分おれも似たり寄ったりの顔をしているに違いない。リーマスは乾燥し切った笑みを口端に浮かべていた。流石にこれはリーマスでも見慣れていない行動らしかった。
 しかし、よくこんなおっかない奴と喧嘩してよく死ななかったと思う。拳だろうと膝だろうと一撃喰らったら即死確実だというのに、ああ、でも待てよ。おれは散々こいつと殴り合いをして、当然何度も殴られたけれど生きている。体に後遺症が残るくらい酷い喧嘩をした事もない。今になって、おれは単純な殴り合いで自分よりも体格が一回りも小さい相手に相当手加減されていた事に気付いた。
 おれたち三人の視線を煩わしく思ったのか、殺気塗れで据わっている瞳がこっちを向く。舌を凍らされつつも何か言わなければとは三人とも思ったに違いない。この空気に真っ先に耐性をつけたジェームズが唇を動かそうとするが、それは声になる前に思いも寄らなかった言葉で遮られてしまった。
 腹は減っていないか。
 掛けられたその言葉を理解するのに数秒かかっても仕方ないくらい、この場に不釣合いな台詞だった。しかし胃袋は時に頭よりも素直だ。おれたちの腹は生まれたての子供のような素直さで全員大きな返事をしたのだ。あまりの格好悪さにおれとジェームズが同時に明後日の方向を見る。今日の朝から碌な物を口にしていないのだあら仕方ないという事にしておいて欲しい。ホグワーツの食事は三食どれも大体碌な物じゃないけど。
 石壁の向こうから現れた扉を開くと、は何も言わずにそちらに姿を消した。小柄な女性が一人入れるか入れないかくらいの小さな扉の先は物理的に考えるとその先には何もあってはならないはずなのに、魔法界だから許されるいい加減さで見事な空間が広がっている。
 おれもジェームズもその先にある空間には何があるのか気になったが、まずはリーマスが律儀に入っていいかと了解を取り足を踏み入れた。次におれ、最後にジェームズが扉を潜る。
「……キッチン?」
 そこはキッチンだった。タイルが張ってある壁に沿って流し台にコンロとオーブンがあり、クリーム色の食器棚には食事に必要なものが収納されている。丸いテーブルには清潔そうな、でもどこか使い古したような、薄い緑色のクロスがかかっていた。
 居心地は悪くないけれど、どこかくすぐったい、この塔には不釣合いにも程があるパステル調のダイニングキッチンだ。腐っているようには見えない食材と調理器具を探し当てたはどうやら料理が出来るらしい。
 おもむろに包帯を外して一体何処から取り出しているか判らない食材に無言で包丁を振るうその背中が妙にこの部屋と馴染んでいて、黙ってそれを眺めているといきなり真横から頭を叩かれる。が食事を作ってくれるから突っ立っていないで食器やグラスを用意しろ、そう言ったのはジェームズではなくリーマスだった。頭を叩いたのはジェームズの野郎だけど。
 四人が座るには小さなテーブルの上に用意された食器棚の皿は二枚、スープ皿も、グラスも、ナイフもフォークも全部が全部二人分しかない。ついでに椅子も。この部屋には何もかもが対にしか存在していない。当然だけどどうやって座るか、そして食事を取るか、三人でで大いに揉めた。
 テーブルは兎も角、まずは他に食器はないのかと探し始めて、空になった食器棚に一枚の紙を発見する。そこには綺麗な字で上の棚と書いてあった。そう言えば上の棚は見ていない。椅子を使って上の棚を空けると用途が全く判らない調理器具のようなものがあった。それと、また一枚の紙。
 今度は下の棚だった。下の棚にも調理器具しかなかったはず、そう思いながらも下の棚を開けると、さっきまではなかった封筒が転がっていた。馬鹿馬鹿しく嫌な予感がするのはおれだけだろうか。
 隠し持っていたマグルのアーミーナイフで封を切ると、案の定、大間抜けの文字。誰だこんな下らない悪戯を仕込んだ馬鹿は。横でゲラゲラ笑ってるジェームズに肘を入れながら、恨みを込めて三枚の紙を握り潰す。他に食器のありそうな所は、そう言いながら振り返ってみるとテーブルの上には四人分の食器が並んでいて、四人分の椅子がセッティングしてあった。
に頼んだら魔法で出してくれたよ」
 サラダに使うらしい緑色の葉を盛り付けていたリーマスが当然のように言いやがる。何だこの例えようのない敗北感は、おれの時間を返せとこの幼稚なトラップを仕掛けた奴に大声で叫びたかった。
「そういえば杖持ってたけど、どうして?」
「予備の杖くらい持っている。邪魔だ、退け」
 予備の杖を日常的に持ち歩いているとか割と非常識な事を当然のように言いながら、はジェームズを退かせオーブンからかなり大き目の耐熱皿を取り出してテーブルの中央に置いた。中にはクリームソースのかかった魚の切り身らしき物体が煮立っている。
 他にもかなり沢山の野菜とベーコンの入ったスープや、キノコと卵が挟んであるパンを用意して、その間におれが紅茶を淹れる。ジェームズとリーマスが食器の位置を整えたりミルクを用意すれば、食卓は完成。
 ホグワーツ内で食べた、どの料理よりも豪華に見えるのは気のせいじゃない。一体何が原因なのかと考え、結論はすぐに出た。イギリス料理全体にいえることだけれど、それは彩の問題である。
 食事が始まると、しばらくの間その場は無言の空気に包まれた。無言だからと言って静かという訳でもない。食器が擦れ合う音は音は相当煩かった。想像以上にの作った食事が美味かったからだ、うちの料理人よりも腕がいい。普段食べる事と喋る事を同時にこなす事のできるジェームズだって黙って食べている。あいつの家にもこんな腕のいい料理人はいないんだろう。勿論、空腹だからと言うのもあるけれど。
「機嫌が悪かった原因って、お腹が空いてただけだったんだね」
「……誰だって空腹になれば怒りっぽくなる。それに、まだ眠い」
「食べ終わったら寝てていいよ、片づけくらい出来るし」
 食事が始まって初めて口を開いたのは一人草食動物並みの速さでルッコラを食べていたリーマスで、最後の台詞を言いながらおれたちに同意を求めてきた。確かにこれだけのものを作ってもらって後片付けも任せるのは気が引ける。サンドイッチを詰め込んでいる所為で喋れないから適当に頷いておくと、に礼を言われた。そうしていると今まで思い描いていた像は本当に、全くの偽者だという事を思い知らされた。
 こちら側に敵意が無ければ、は基本的に何もして来ない人間なのだ。だからといって相手に歩み寄るような努力はしないみたいだったけれど、話しかければ間を置きながらも返事をする。例えそれがリーマスではなく、ジェームズやおれでも、決して無視をするという事はない。かといって、続けざまにいろいろな事を喋りかけられるのは嫌いらしいので、会話もそこそこに再びおれたち二人は食事に励む。
「……あ、そういえばさ。最初にランプ叩き割ったのって結局何だったの?」
「イビル・アイの紋章だよ」
 リーマスも疑問に思っていたらしいの起こした不可思議な行動の理由を答えたのは、クリームソースの中に沈んでいたカリフラワーをフォークに突き刺している最中のジェームズだった。その答えに首を傾げるのはリーマスだけで、おれもそう言えばそうだったと頭の中にあった資料の整理にかかる。確かまだ、授業では習っていない事だったからリーマスは判らなくても仕方ない。
「簡単に言うと覗き見用の魔方陣かな。あの紋様を描いた場所が所謂覗き穴になるんだ」
「へえ、そうなんだ」
「紋様さえ消せば効力は失われるから、行動は兎も角の判断は正しいんだけど、でも、よく見つけられたよね。専門の道具がないと発見できないって言われてるのに」
 発見者に何らかの返答を貰おうとしたジェームズの視線は綺麗に無視されて、そこでこの話は終わってしまった。食べている最中もしきりに両瞼を擦っているから、実際返事どころじゃないのかもしれない。料理中は治まっていたはずの眉間の皺が復活している事をこの場に居る全員が確認した。
 その後、が空の食器を流し台へ置いてキッチンから出て行くまで、結局おれたちは一言も喋らなかった。言いたい事は多分色々あったんだろうと思うけれど、ふらふらと左右に揺れる頭が危なっかしくてそれ所じゃなかったんだと思う。もしかしたら、今が素直なのは眠たいからなのかもしれない。そんな事を考えながら食事を再開させようと浮かせていた腰を落とした。
 おれだけじゃない、リーマスは勿論、ジェームズも足取りが危なかった事を心配していたらしい。全員が同じタイミングで椅子を引くと食卓に笑いが零れた。その笑いを聞きつけたように先程閉まったばかりのドアが開いて、何事かと身を乗り出してみるとそこには相変わらず眠そうな顔をした不機嫌ながいた。
 どうかしたのかとリーマスが尋ねるが、ジェームズの言葉同様無視される。おれたちが座る食卓を無視してさっきの下らない悪戯が仕込んであった棚の隣で立ち止まった。
 ジェームズが席を立つ、目が輝いていたから心配してるわけじゃなく、これから一体何が起こるのか判らない好奇心からの行動だろう。そういうおれもリーマスも、食欲より好奇心が勝って全く同じ行動しているから人の事など何もいえないのだけれど。
 おれたちが後ろに居ても何とも思わないのか、それも最早どうでもいいのか、は何も言わずに壁のタイルに埋め込まれていたタオル掛けを掴んで横にスライドさせた。おれたちが壁だと思っていたのは扉だったらしい、キッチンの先にまた新しい空間が発見される。こことは色違いのタイルが敷かれたその場所はリネン室のようだった。ちらりと見えた奥にはバスルームらしきものもある。
 何処に何があるのか把握しているらしく部屋に備わっていた棚からふわふわの毛布と大きな枕を取り出して、また無言でキッチンを出て行ったの背をおれたちは黙って見送る。今度こそ本当に眠るのだろう。
 残されたおれたちが料理を平らげて洗い物も全て終わらせた頃には、先にベッドで横になっていたは熟睡していた。朝が早かったり、医務室で一夜を過ごしたりしていたおれたちも誘ってきた睡魔の手を素直に取る事にして、上等な毛布に包まれて一眠りすることにしようという結論に至る。
 そうして夢のような、凡そ謹慎とはかけ離れた生活が始まった。
 どの辺りが夢のようか、筆頭に上げられるのは一日に三食出される食事と三回の間食だった。謹慎中の食事の方が普段よりも豪勢なのはどういう事だろうかと疑問に思えてしまう程、内容が凝っていた。
 あまりにもおれ達が美味そうに食べるものだからは貧しい舌だと言ったが、それでも出された料理はどれも最高だった。おれたちにしてみれば、普段食べる料理とは精々湯を沸かして野菜をぶち込むか鶏肉を炒める程度だと自嘲気味に言ってみたら、それは料理ではなく調理だと宣言されてしまった。リーマスも以前同じ事を言われたらしい。
 勿論食べてばかりいた訳ではない。ジェームズはの持っている力に興味があるみたいで、護身術を教えて欲しいと頼んでいた。おれや、意外にもリーマスも言い出せなかっただけみたいで興味があったらしい、三人して頼み込むと渋々と了承したけれど結論から言うとそれは無駄に終わった。
 とおれたちとでは基礎体力が違い過ぎて、準備運動の段階で息が上がって動けなくなったからだ。腹筋、背筋、腕立て、スクワットの基本セットを始めとする過激な準備運動と称されるものは、クィディッチで鍛えているおれやジェームズですら翌日は筋肉痛で動けなくなるくらいスパルタだった。
 一応要らない追記しておくと、興味本位でとアームレスリングをしてみた際にあいつの左腕対おれたち三人の両腕で開始直後瞬殺された位の力の差があった。訊くと、家の方針で物心付いた頃には大人相手に死ぬほど扱かれたらしい。
 あの準備運動で汗ひとつかかなかった人間の死ぬほど、きっとそれはおれたちの想像を絶するものに違いない、多分であって欲しいけれどでもきっと気を緩めたら本当に死ぬような扱きだったんだろう。
 本人曰く軽い食前食後の運動でおれたち全員が嘔吐しそうだったので、仕方ないので今度はの持っている知識とおれたちの持っている知識を交換しようと提案するが、まずは図書室に行けと一蹴された。
 おれたちが知らないだけでホグワーツには他国の魔法書が山のように存在するらしい、異国語で書かれているのをいい事に司書に見つからないまま禁書棚にあってもおかしくないようなものもあると聞いた。
 ジェームズがこれで地図作りが楽になればいいと漏らすと、普段は聞き流すはずなのにが興味を示した。こういう所に反応するのはちゃんと男という生き物なんだなとも思った。女は大体この手の話を無視して別の、例えば雑誌に載っているモデルだとかそこに書いてあるファッションだとか、そういった心底下らない事を話したがる。そう言う話はまずは一転の曇りもない姿鏡と相談するべきなのに。
 にどんな地図を作るつもりなのかと訊かれたので、おれとジェームズは顔を見合わせた後でホグワーツの見取り図を作るつもりだと答える。言葉は態と足らなくした、おれたちが作ろうとしているのは単なる見取り図ではないのだから。ありとあらゆる隠し部屋や隠し通路、そして合言葉が書き込まれている地図だ。宝の地図、もしくは秘密の地図と言っても過言じゃない。口止めをすればそんな事誰にも言う事はないだろう、けれどそれとこれとは別問題で、いわば儀式を通過していない者への拒絶に似た感情だった。
 過去形なのには理由がある。見取り図と聞いた直後、は手頃な羊皮紙にフリーハンドで城の見取り図を描き始めたのだ。そこに更におれたちの知らない隠し部屋や隠し通路が綺麗な字で書かれて行って、但し発音は正確にという注意書きを最後に添えると、何を思ったのかそれをおれたちに手渡してきたのだ。
 リーマスが本当にいいのかと尋ねているところを見ると、書かれた内容はのテリトリーらしい。大切なものだろう貰っていいのかとおれが尋ねると、訳の判らない他人にこれを漏らさないくらいには信頼していると返しをされる。正直、予想していない言葉だった。その言葉に自分達が如何に自己中心的な考えをしていたのか、そしてに信頼されているのか思い知らされた。
 固まるおれの目の前で肩を竦めたリーマスが、そこに更に一本の道を追加する。役に立たないだろうけどと言って付け足されたそれは、暴れ柳からホグズミードへ行く隠し通路だった。
 役に立つとか立たないとかよりも、そうして秘密を共有しあえた事が嬉しいとジェームズが言うと、リーマスは笑い、は顔を俯かせる。機嫌を損ねてしまったのだろうかと不安になったけれど、そうではなかった。耳は赤かったけれど怒ってもいない、羞恥だ。
「……友人、なんだから、あたりまえだろう」
 感情の所為で掠れて搾り出された声が泣いているように聞こえて、一瞬で胸を締め付けられた気がした。そうだった、「友達みたいな関係から始めよう」と言ったのはおれで、は「よろしく」と手を差し出したのだ。
 熟れたトマトみたいな顔色をしたをリーマスが抱き締める。トマトは腕の中で沸騰して完熟した。隣でジェームズが自分も抱き締めていいかと、何故かリーマスに了承を取って却下されていた。たった四人しか居ないはずの塔の中は一気に騒がしくなって、石造りの壁に声が反響しまくる。
 その中で、何故かおれは一人、別の世界に取り残されてしまったような感覚に陥った。目の前にあるのに触れることも出来ない状態と表現してもいい。口の中が乾いて指一本動かせない。自分の中に巣食っていたとてつもない絶望を突きつけられた気分だ。おれはまだを信用しきっていないのに相手は既に、少なくともおれ以上には信頼してくれている罪悪感に胃が縮んで、今まで食ってきたものを全て吐き出してしまいそうだった。まただ、またどうしていいのか判らなくなってしまった。
 ジェームズがおれの異変に気づいたらしい。塔の中が静かになっていく。何だこれは、格好悪すぎるだろうと自嘲しているとタイミング悪く南京錠が外されていく音を耳にした。マクゴナガルがおれとジェームズとリーマスの名前を呼んで、出てくるよう命令してくる。多分おれたちの中では一番信頼されているリーマスが少しだけ待って欲しいと告げると、沈黙の後で少しだけだと扉の向こうで告げられた。
 おれは自分の為にも気丈に振舞うべきだったのだろう。ジェームズとリーマスの声を左右の耳で聞きながら額の汗を拭った、冷たい汗で手の甲がぐっしょりと濡れる。酷い様だ。自分はつい最近まで強い存在だと思っていたけれど実はそうではなかったらしい。ことが関わると頭の中がパンクしてまともな思考が出来なくなる事が多かった。
 マクゴナガルの尖った声がまたおれたちの名前を呼ぶ。ヒステリックな声が家の母親とよく似ていると考えが至って更に落ち込みそうになった。腹の中に嫌なものが溜まっていく。体中の血液がコールタールみたいになって、そこに消えかかっている小さな火種を立て続けに入れられているみたいだった。その耳障りな金切り声を止めろと怒鳴ってやりたい。
「……ブラック」
 煮えくり返りそうだった腸を鎮めたのは、まだ顔の赤が引き切っていないの声だった。思考に神経を邪魔されていた耳はジェームズもリーマスも何て言っていたのか判らなかったのに、の声だけはきちんと拾って、何を言ったのか脳に伝えてきた。
 返事をするために口を開こうとしたら、小さな手の平が二回だけ頭を撫でる。顔を伏せていた所為でが爪先に立ちになって態々頭を撫でた事を知った。踵が降りると手も下りる、屈めばもう少しだけ頭を撫でてもらえるだろうかと甘ったれたガキみたいな考えが浮かぶ。
 もう一度、普段と変わりない声色で名前を呼ばれた。ゆっくりと顔を上げると、優しい笑みがあった。あの時の、慈母みたいな笑い方をした人間がいた。
 あまりに唐突な再開に驚いて瞬きするとの表情はいつものあの不機嫌そうな顔に戻っている。幻覚としか思えない一瞬の出来事に呆然とし、言葉を忘れてしまったおれの耳に今度は幻聴が聞こえた。後で紅茶の淹れ方を教えて欲しいといった内容で、その言葉はの声で作られている。
「……紅茶?」
「嫌なら別にいい」
 幻聴ではない。確かにそう言われたようだ。初日に淹れた紅茶の味が気に入ったが言い出せなかった、その言葉を確認できた途端、おれの内側にあったコールタールは嘘みたいに跡形もなく消えてしまった。腕を組んでしかめっ面をしている一回り小さな少年を抱き潰したくなって腕を広げようとしたら、ネクタイを後ろに引っ張られた上に即頭部を拳で叩かれる。ネクタイを掴んだのがジェームズ、殴ったのがリーマスだった。
 馬鹿だ馬鹿だとステレオで言われたけれど、そんな事どうでもいいと思えるくらい幸せな気分になっていた。ネクタイを掴んだままのジェームズに引き摺られ、普段なら間近で見るなんて耐えられないリーマスの眼光も笑顔で受け流す。返事をしなくてはと閃いて、けれど「はい」とか「いいよ」とか、そういった返事は不適切な気がして、おれは残された数秒の間に適切な言葉を懸命に探した。クィディッチの試合や学期末の試験の終了間際だってこんなに慌てた事は一度も無かった。ジェームズの手が扉に掛かる、もう時間がない。追い詰められたおれは一番最初に浮かんだ言葉をそのまま叫んだ。
「なら今からって呼ばせろよ!」
 今考えると、我ながら何とも馬鹿な台詞を思いついて吐いたものだと思う。けれど、その時はこれが一番適切だと思ったのだ。リーマスが面食らって、ジェームズが今までにないくらい苦しそうな顔で笑い出す。マクゴナガルは不審物を見るような目でにやにや笑うおれを見下ろしていた。
 扉の外に出るまでずっと、塔の中に残されたは呆れたような顔をしていた。けれど扉が閉まる瞬間好きにしろという返答をおれは確かに聞いた。
 その時のあいつの表情は、手の掛かる子供を見守る母親の表情に似ていて、もしかしたら、さっき見た笑顔も実は幻覚ではなく本当に笑っていたのかもしれないと、少しだけ思った。