祈りにも似た姿
また雪が降り始めた外に出て、二人分の足跡がついている白い地面を走り出す。
考えなんてない。何を言おうとか、しようとか、そんなものもない。慰めとか、同情とか、そういったものでもない。
おれにはあいつが必要。その真実と、なら、一人で泣かせたくないというエゴ。
多分、そんなようなものに動かされている。
視覚が、天を仰ぐの黒い小さな背中が見えた。
疲れと寒さでガチガチに固まった脚を動かして、少しずつ距離を縮めていく。
「……」
いつもなら、とっくに気付いているはずの位置に来ても、あいつは振り返らない。
やっぱりなんだなと、そう思った。独りにするべきじゃなかったという想いと、戻ってくることが出来てよかったという安堵に、胸が痛くなる。
いつも、おれを突き飛ばしていた小さな背中は、考えられないくらい弱っていた。
いや、実際はそうじゃないかもしれない。これも、全部おれの思い込みなのかもしれない。
「……大丈夫」
でも……こんな弱った声を聞くと、
「心配、かけたかな」
気が気じゃ、なくなってくる。
声を、かけようと思って。けれど、何てかければいいのか見当たらなくて、言葉を放てずにいる。いつもみたいに気付いて欲しいとか、また、そんな自分に都合のいい事ばかり考えて。
一歩、一歩、まだ気付いて貰えないのかと、そんな事を考えながらそうやって悩んでいると、突然、立ち上がろうとしたの体が倒れこむ。
「……!?」
慌てて駆け寄ってその小さな体を支えると、がだるそうに顔を上げた。泣きそうな、泣くのを堪えているような表情をしている。
同じだ、バルサムの時と。
結局、一人にしても、こいつは泣けなかったんだ。
どんなに外見では泣き腫らしたような目をしても、本当には泣いてなんかいない。
どうしてなんだろう。はどんな事があっても、泣かない。おれが知らないだけかもしれない。それでも、少なくとも、必死になって探して、それでも亡くなってしまったバルサムに対しては、泣くのを堪えた。
きっとあの子猫は、主人に泣いて欲しくなかっただけなんだろう。決して、こんな風に、感情を押し殺してボロボロになって欲しいなんて思っていないはずなのに。
何で、どうして、はここまで強がるのだろう。我慢をするのだろう。弱いところを、見せようとしないのだろう。
「ブラック……?」
やっと、おれの存在に気付いたらしいが、いつもよりもずっと控えめにおれの名を疑問系で呼んだ。
ゆるりと上げられた顔は、ほんの少しだけ沈黙すると、すぐに次の言葉を紡ぎだした。
「酷い顔だ」
……お前が、よりもよって、そんな顔してるお前が、それを言うのかよ。
なんか、一気に言いたいことが出来て、でも結局どれを言えばいいのか判らなくて、迷っているうちになんか複雑な事考えるのが馬鹿みたいで、思ったことをそのまま口にした。
「お互い様だ」
おれだって、今自分がどんな顔してを抱えているかはわかってる。でも、こいつよりは絶対酷くない。
そんな事も、言った所で聞き入れないだろうけそ。こいつはさっき「大丈夫」とか言って無理矢理自己完結させようとしたから。
「あー……もういい」
深く、重い重い溜息を吐き出して、を抱えたまま雪の上に座り込む。
手が自然と、腕の中の体を宥めていた。言いたいことが、そのまま口に出た。
「泣け」
……言ったすぐ後で気付く。これは大分、何も考え無さ過ぎだろう、おれ。
けれど、言ってしまった事は取り返しが付かない。それに、遠まわしに言っても、きっとにとっては大した意味はないだろうと開き直る。多分最悪の他人任せ。
「取り合えず、お前は泣け」
口下手という訳じゃないのに、こんな言い方しか出来ない自分が恨めしい。
もう少し、ジェームズのような言葉を喋れたらなと思って……やっぱりやめた。それはきっとおれじゃなくなる、想像すると気持ち悪い。
ストレートに、思ったことを口にするから、きっと今のおれなんだ。そう思いたい。
だから、もういっそ殴られたり、失望させる覚悟で、おれは思ったことを口にする。言いたい事はとにかく言う、じゃないと何も伝わらないじゃないか。
「誰の為とかそんなんじゃない。泣きたいって思ったなら、素直に泣いとけ」
抵抗するを押さえつけ、そうやって言った。見様によっては、かなり酷い事をしているように見えるだろう。いや、そうにしか見えないのかもしれないけど。
でも、こいつをこのままにはしておけなかった。吐き出させないと、いけない気がした。ああ、またおれのエゴだ。消えろ弱気な自分、気分が沈む。
抵抗する力の弱くなった腕の中の体をちゃんと抱き締めた。震えている。おれも弱音を吐いてしまいたかったけれど、今のを見ると、そんな事出来なかった。
「出来ない、そんなっ……やりたくない、したくない。おれがそんな……っ!」
こんなを見て、弱音を吐けるはずがない。
おれなんかよりずっと弱っていたのに、それを隠そうとしていた、まるで大切なものを守る小さな子供みたいに。
「だって、怖い」
気付いているんだろうか、おれのコートを掴んで話さない手が震えているという事に。
そんなお前を、慰めの言葉一つ言えずに、ただ抱き締めるしか出来ない力ないおれに。
「……なら、お前はいつ泣くんだよ」
いつもみたいな軽口じゃない、優しさも愛想もない声は違うと伝えたくて、精一杯、でも壊れ物を扱うように、を腕の中に閉じ込めるようにして抱き締めた。
「泣きたいなら、ちゃんと泣けよ」
そう言って……あ、泣くな。と、思った。
瞬間、咽喉が裂けるんじゃないかと思うくらいの声で、腕の中の人間が泣き出す。
まるで理由もなく泣く赤ん坊のようで。でも、だからこそ、ちゃんと泣けたんだなとも思った。
今まで溜め込んでいた分を全部吐き出すんじゃないかと思うくらい激しく泣いて、息が追いつかなくなって咽る背中を擦ってやる。
落ち着いたかと思うと、また思い出したように泣き始めて。何度も何度も、が力尽きるまでそれは続いた。
その内におれに凭れるようにして泣き止んで、そんな様子を見ていると本当に安心して、次の言葉が見当たらなくなる。
「なんか……言いたい事、色々あった気がするけど。全部忘れた」
背中を軽く叩いて、その手で、短くしてしまった髪を撫でてみた。
ジェームズの言ったとおり、の髪はとても綺麗で、おれから離れた瞬間に、まだ長い髪は指の間を通るだけで決して絡まりはしない。
傷一つなさそうなその髪を眺め、本当に大切にしていたんだなと、少し明後日の事を考えた。
しばらく沈黙が続いて、俯いたまま黙っているにどう声をかけようか悩んで「大丈夫か」と月並みの気遣いをしてみる。けれど、返事はない。
「……?」
「……だるい」
「いや、そりゃお前。あれだけ泣けば疲れるだろうけどそうじゃなくて……」
そう言う意味で訊いたわけじゃないんだけど、ああ、でもそれでもあるのかもしれないけど。
おれが訊ねたのは心の方の問題で、体の方も心配といえば心配だけれど、やっぱり返ってきて欲しかった言葉が違うと少しだけへこむ。
そんな事をぐるぐると考えていると、がおれを見ていることに気付いて、思わず顔を逸らしてしまった。
ここから先の事、全然考えてなかったし。
本当におれは、行き当たりばったりの状態でここまで来たわけだから、当然といえば当然なんだけれど。けどそれは絶対に誇れることなんかじゃないってのは理解していて……いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。
ああ何を言えばいいんだろう。取り合えずおれはもうの事を嫌ってないって言うべきか? なんか違う気がする。じゃあなんだろう、友達としてやり直したいとか? 大筋で合ってる気がするけどそれってストレートに言ったら逆に気持ち悪くないか?
ジェームズ。おれの親友、お前はどうやってとの仲を修復したんだ? そんな事おれが心中で問いかけても返事なんて来るわけないのにな。
いや現実から目を逸らすな、シリウス・ブラック。沈黙するおれをが怪しがってる。なんかずっとおれの事を見ている、あからさまに他所を見られていたらそれはそれで傷つくんだけど、我侭だなおれ……じゃなくて!
とにかく! 思った事は口にしろ! じゃないと誰にも理解されないぞ!
意を決しての肩を掴むと、正面を見……れなかった。おれの阿呆!
「あ、あのさ……ええと、」
どもっていると、即行で「なんだ」と返される。
恐る恐る表情を伺ってみると、怒ってはいないようだった。
「と、取り合えず……友達、みたいなのにならないか? いや、友達とはちょっと違うかも知れないけど、知り合いよりは上というか、そんな感じのに……」
遠まわしすぎるというか、ストレートというか、ごめんジェームズ。今ならお前の言葉を否定しない、確かにおれは馬鹿だ。
幸いには不快な顔はされなかったけど、なんか……もの凄く沈黙が長い気がする。
おれの言葉が通じなかったんじゃないかと思うくらい、とにかく長い。息が詰まる。
何時間にも感じた沈黙は、意外な一言で終止符を打たれた。
「よろしく」
その返事と一緒に差し出される、小さな手の平。
これは、もしかしなくても……握手、なのだろう。
の事はまだよく知らないのに、なんだかその行動が、とても「らしい」と感じてしまって、思わず笑ってしまった。
「いや……こちらこそよろしく。シリウス・ブラックだ」
「だ」
初対面なわけでもないのにお互いに名乗って、ああ……でもそう言えば、結局とは自己紹介をしていなかったなんて、一年以上も前の記憶を掘り出す。
手を離すとは笑っていて、その笑みには、どこにも悲しみが見当たらなかった。
よかったと、心底安心した。
そう思っていると、唐突にが謝ってきた。思わず間抜けな声を出すと、おれに向かって倒れこみながらたった単語二言。
「限界、寝る」
「は!? お、おい! 寝るってなんだ、冗談……じゃない」
……本当に、寝てやがる。
念の為、手を当てて熱を測ってみたけれど異常はない。本当に睡魔に負けて眠ったみたいだ。
「……仕方ねえな」
この小さな体なら、魔法を使わなくたって運べると判断して、軽々と背負うことが出来た。
本当に軽くて、小さくて……こんな魔法使いが、
「呪われてる、なんてな」
血と泥にまみれた手の平がやんわりと握られ、背中からは寝息が規則的に聞こえてくる。
今はまだ、過去の事は話さないだろう。そして一生、おれは呪いについて訊けないだろう。
それでいいのかもしれない。焦っても仕方がない事だってある。きっと先は、とても長いのだろうし、やらなくちゃいけない事だって他にも沢山あった。
「ああ……でも、結構。重いんだな」
一人分の人間の重さを落とさないように、その体を両手でしっかりと支える。
そしておれは、雪に埋もれ始めた小さな墓に背を向けて歩き始めた。