祈りにも似た姿
ずっとこの場に座っていた。身体が冷えている。
自分が何をすべきなのかが見当たらない。
このまま黙っていても、きっと何も変わらない。けれど今起こった事を誰かに話したら、きっとおれと、そして知った人間の記憶は消されてしまう。それだけは絶対に避けなければいけない、相手はダンブルドアだ……隙を作ればすぐに見破られる気がする。
今のおれには何かを決断する事が出来ない。危険でも何でもないのに、とんでもないものをジェームズの奴は残していきやがった。
けど、それを引き受けたのはおれの意思だ。自分でどうにかするしかない、けれど……どうすればいい? 結局思考は堂々巡りだ。何も考えが浮かばねえ。
難しい問題だ。正しい答えがあるわけじゃないし、少し間違えればたちまちジェームズの意思ごとおれの記憶はごっそり消え失せる。
おれの苦悩を嘲笑うように、ジェームズが目の前に現れた気がした。
いつも通りの、いい人に見えて実はとても人の悪い笑みを浮かべて突っ立ってやがる。
「シリウス・ブラック。死んでたら返事しなくてもいいよ」
「……生きてるよ」
ああ、現実のジェームズ・ポッターだ。鼓膜から伝わった声に安堵する。
顔を上げるのが億劫で返事だけすると、多分腰に手を当てて説教体勢に入ったであろう親友がおれの傍の雪を蹴った。首にかかったじゃねえか、冷てえよ馬鹿と心の中で罵る。
「まったく、情けないね。雪かきしただけでそんなになるなんて」
それが原因じゃねえよ、と言おうとして、止めた。
あんまり深くを探られてボロを出したらそれこそ終わりだ。第一、おれは嘘があまり上手くないし、ジェームズはおれの嘘を見破るのが得意だ。
「お姫様の御到着だよ」
そう言われて初めて、おれはこの場にもいるという事実に気付いた。
いや、馬鹿だろおれ。ジェームズ居るならも居るに決まってるじゃねえか。ああ、どんな顔をすればいいのかも判んねえ。何て言っていいのかなんて、尚更判るはずがない。
「せめて顔くらい上げなって、いくら後ろ暗くてもさ」
後ろ暗い原因はジェームズの言う、バルサムの事だけじゃないけれど、今はそれだけにしておいたほうがいいのかもしれないと判断して、顔を上げた。
しかし、おれの視界内にあの小さな男はいなかった。
顔を動かすと、結構まだ遠くにの姿を確認できた。
防寒具を着て(多分ジェームズが着せたんだ)猫の死体を持って、何にも知らない、覚えていない表情でおれを見ていた。
そんなあいつの顔をまともに見ていられなくて、また俯く。
本当に、どんな顔すればいいんだよ。記憶のあった数時間前のジェームズ、おれはそこまで神経太くねえし、演技も上手く出来ねえよ。
「参ったね……君がそこまで憔悴するなんて。数時間前までは割りと元気だったのに、どうした? バルサムの霊にでも会って呪われた?」
そういわれて、あの灰色の猫の……多分霊であったものを思い出す。
口に出た言葉は、肯定だった。ジェームズが少し驚いたみたいだ、そりゃそうか、あっちは冗談で言ったつもりなんだし。
「でも呪われてはいねえよ。バルサムはそんな事する奴じゃなかったし、それに……」
呪われているのは、の方だった。
思わず言いそうになって、自分を誤魔化すように溜息を吐く。吐き出した息が震えたかも知れない、ジェームズが何かつっこんで聞いてこなければいいけど。
「それに?」
「何でもねえ」
「……そう」
心配しなくても、ジェームズはこれ以上おれに何かを聞く気はなかったみたいだった。
の足音が近づいてきたから、というのもあるのかもしれない。
おれたちよりもリーチの短い足が雪を踏んでやってきて、丁度おれの目の前で止まった。顔をあげなくたって判る、なんか威圧感みたいなものがあったから。
それから、沈黙。
何か言うべきなんだろうけれど、何を言っていいのか判らない。判らないとばかり繰り替えす自分にも、いい加減嫌になってきたけど、解決策が何も見つからない。
何も言えない。告げるべき言葉が見つからない。
魚みたいに口を何度も開けて閉じて、やっと出た言葉は、とても平凡だった。
「……ごめん」
今は何も言えなくて。その言葉は、続かなかった。
顔を上げての顔を見る。相変らず無表情で、何を考えているのか判らない。そして腕に視線が下がり、バルサムの死体まで行ってから、俯いてもう一度同じ台詞で謝る。
「おれ、何も出来なかった」
に対しても、バルサムに対しても。いや、バルサムがこうなったのはおれが原因だから、この言葉はおかしいのかもしれない。
でも、本当に後悔しているんだ。そして、に対してどう接していいのか判らなくなっている。可哀想とか、そんなのじゃない、この感情はもっと別で……胸が痛い。
嗚咽が漏れそうになった。涙が零れて、見られているのは判っているけれど、それでも隠れるようにしてコートの袖で涙を拭った。
の隣でジェームズが何か言った。多分泣くなんてみっともないとか、恥かしいとか、それでも男かとか、結構無茶苦茶なな台詞だろう。仕方ねえじゃねえか、止められないものは止められないし、痛いもんは痛いんだよ。
息を吐き出そうとして、おれの目の前に腕が伸びていることに気付いた。ジェームズよりもずっと小さくて細い腕……の腕だ。
無意識に、身体が一瞬強張る。
手袋に覆われていた手が、おれの頭に置かれて、髪を撫でられた。
「大丈夫だ」
優しい声をかけられて、思わず顔を上げて、の表情を直視してしまった。
あの時の、バルサムを見つけた暗い今朝の、「夜」に対する表情を、していた。
おれはシリウスなのに、今までおれとお前がどんな事をしたり、されてきたか、忘れた訳じゃないだろ。おれはお前の嫌いな人間なんだよ……なのに、なんでそんな顔出来るんだ。
また、おれはこいつを利用しそうになる。また甘えてしまいそうになる。
「大丈夫だ」
そんなに繰り返して言うな。それでなくても、今は涙腺が緩んでどうしようもなくなってるのに、お前は何だっておれにそうやって、止めを刺そうとするんだ。
忘れたわけじゃねえよ。バルサムの死を知った時、確かにおれはお前に縋ったんだ。おれを責めない人間を求めて、馬鹿みたいに都合よくお前が居たんだ。
でも、今朝になって、それが半分夢見てたみたいで、に縋った自分を認めたくなくて、ジェームズには八つ当たりみたいな事をして、自分の気持ちも無理矢理捻じ伏せて誤魔化していた。
お前に縋った事が、恥かしかったんだ。
お前を利用した事が、おれのプライドが許さなかったんだ。
「お前は、責められるような事をしてはいない」
見当違いな優しい台詞を吐く人間。何の打算もなく、見返りも求めず、ただありのままに思ったことだけを口にしてる奴。
本当に、言葉と気持ちだけは子供みたいな奴。行動は、大人とは違うけれど、子供のそれじゃない。思考は、きっともっと違う。普通じゃない、悪い意味ではなくて。
過去を消去されて、それでも、はここにいた。まだおれが何をやるべきなのかは見出せない、けれど、今やるべき事が、判った気がする。
いつまでも、こうやって腐ってはいられない。それは、おれらしくない。
泣き止み、落ち着いたおれから手を引き、は踵を返した。
「『ありがとう』。彼女の代わりに礼を言う」
彼女とは、きっとバルサムの事だろう。礼は、多分雪かきに対しての言葉。
サク、サク、と足音を立てて小さな背中がおれの目の前から去っていこうとする。拳を握る、大丈夫……今なら、身体が動く。
立ち上がって、の背中を追いかけ、すぐに追い抜く。すれ違いざまにジェームズと目が合った。少し驚いたような表情をしていた……気がする。
落ちていた、というよりも投げ置いていたシャベルを拾い上げ、墓穴を掘るために黒い土の上につきたてる。視界の端っこでジェームズが肩を竦めながら首を傾げた。
「はちょっと待ってなよ。そんな身体に無理はさせたくない……っていうのがシリウスの心の内の代弁で、ぼくの本音。それに穴を掘る道具は二つしかないし、あと、間違っても素手で掘るなんて事はしないように」
ジェームズがそこまで言って、おれも気付いた。
……確かに、放っておいたらこいつ、絶対素手で墓穴掘り出すよ。
今出来る事はこれしかないからってやろうと思ってた穴掘りだけど、よくよく考えてみるとジェームズの言った可能性は限りなく大きい。そうだよ、こいつはそういう奴だったよ。
そんなおれの気持ちを代弁していないジェームズは、小さなスコップを持ってきておれの掘った穴の形を整え始める。
しばらくはも大人しくおれたちの様子を眺めていたが、やがてふらりとどこかへ消えて、そしてすぐに戻って来た。この辺りの行動は、おれには相変らずよく判らない。
片手には、邪魔だからと取り除いた石の中から選んできたのか、平たい石ばかりがあってそれを墓穴の横に置いていく。
再びふらふらとした足取りで視界から消えては、石を持って戻ってくる。その、繰り返し。
「ねえ、。何してるの?」
「……墓標を」
この石で作る、とは言った。
墓標、その言葉を聞いて、腕の力が鈍る。少しの間だけ目を閉じて、また墓穴を掘ることを再開させた。一瞬だけ目に入ってしまった、ジェームズの悲しそうな表情が、焼き付く。
「いいぞ」
墓穴の横にシャベルを置き、バルサムの遺体を抱えたを呼ぶ。ジェームズもその斜め後ろに並び、おれもその隣に佇んだ。
凍った地面に膝を付き、包帯だらけの小さな腕が白い布を墓穴に納めていく。その酷くゆっくりとした動作を見て、胸に手を当てる。
「おやすみ、バルサム」
それは子供を寝かしつける母親そのものだった。
細い指が白い布に覆われた遺体を柔らかく撫でて、笑う。表情は見えなかったけれど、はきっととても穏やかな笑いを浮かべているはずだ。
なにもせずに、おれも、そしてきっとジェームズも、目を閉じてこの沈黙を守っていた。
しかし、しばらくすると、はおもむろにコートの下から剣を取り出す。まさかと思って、おれたちが声を出すよりも速く、その剣は閃いた。
「……!」
軽い、乾いた音を立てて、短い髪が目の前の肩に散らばる。
左手には、長い黒髪の束。今、が切り落とした、自分の髪が握られていた。
その髪を、バルサムの上に置き、鞘に収めた剣も、遺体の隣に音も立てずに置いた。
「手向けだ」
何かに束ねられることもなく、ただ白い遺体の上に散らばる髪。まるでバルサムを何かから守るように絡みつく、おれの髪とは違う深い黒の色。
一度大きな息を吐き出したは、静かな声で埋めようと呟いた。
けれどそれはきっと、誰に言ったわけでもないんだろう。包帯に巻かれた小さな手が、隣に盛られた土で穴を埋めていく度に、ジェームズは諦めたような、仕方なさそうな顔をしていた。
砂山を作る子供のように、柔らかく盛り上がった墓を二三度叩き、その上に、平たい石を一つずつ積み上げ始める。
森にいる何かが壊してしまうんじゃないか、そんな言葉が思い浮かんだが、もしかかしたら、の作った墓は、そんな心配がないのかもしれないと、根拠のない事も考えた。
積み上げられる石を見るたびに、漠然とした悲しみと、本当に考えなしだった自分に対しての情けなさが込みあがって来て、おれは心臓の辺りを握り締める。
最後の一つが収まると、その痛みも少し和らいだ。
静かに、本当に一つ一つの動作を静かに行い、は胸の前で手の平を合わせた。あれが、きっとあいつの国の祈り方なのだろう。
「無実の女神に安らかな夢を」
昨日の今頃では、考えられなかった今日。
原因は、おれの行動。
猫が居なくなって、の知らない顔を見て、そして、記憶を消される瞬間を見て。おれ一人の行動で、昨日とは何もかもが違っていた。
死んだバルサムの事を思い出そうとしても、とても軽くて小さかったことと、おれに唸っていたことと、そしてついさっき、最期に会いに来てくれたことしか、思い出がない。
最後に見たバルサムは、とても優しかった。なんて言っているかなんて判らなかったけど、とにかく、とても優しかった。
ごめん、ありがとう。バルサム。
お前が居なければ、今頃おれは……
「……もう、逝った」
独白に似た思考が途絶えた。
バルサムは居なくなったと、天国に行ったとが告げる。ジェームズは「よかった」と呟いて、泣きそうな顔をしていた。
おれは俯いたまま、顔を上げれずにいた。本当に、バルサムのおかげなんだ……こうして、の事を知ることが出来たのは。そして、記憶を失う直前のあいつを救ったのも、おれではなくバルサムだった。
本当に……本当に、優しい猫だった。
「……」
ゆっくりと、目を開ける。
は墓を向いたまま、微動だにしない。小さな背中を見て、物悲しくなった。
今はまだ、おれは何も言ってやることができない。
「……じゃあな」
とジェームズに背を向け、おれは歩き出した。
また溢れてきた涙を拭い、二三度深呼吸する。すぐに森を抜けて、城壁の隠し通路から城の中へと入った。途中にあった窓ガラスに映ったおれの顔は、とてもじゃないけど他人に見せられるようなもんじゃない。
「……おれは、これからどうするんだろうな」
自分に自分で尋ねるなんて、馬鹿な事をしても返事が来るはずない。
それでも、声に出して問わずにはいられなかった。
「おれは、どうしたいんだろうな」
おれはあいつを、置いてきた。
置き去りにしてきた、捨て置いていた、そう責められるかもしれないし、実際そうだとも思う。けれど、おれはあいつを一人にしたかった。
一人にしてくれと、あの小さな背中が言っていた。そんな気がした。
かける言葉が、見当たらなかった。だから……
……ほら、やっぱり。どうしようもなかったから、おれはをあそこに置いて逃げてきたんだ。やるべき事が判ったなんて薄っぺらい嘘だ。所詮お前はそこまでだと、心の側面が責める。心が、折れそうになる。
「強いんだな」
同じ台詞を、雪と闇の中でに言ったら、自嘲された。あいつにとっては強いという事、それが当たり前だったからなのかもしれない、でも、おれは本当にそう思ったんだ。今になって、尚更強くそう思ったんだ。
後ろを振り返らないわけじゃない。過去を取り戻したいとも確かに言っていた、それは一瞬で散ってしまったけれど、それでもあいつは踏み荒らされた思い出の上に立っている。
今は静かに前だけを見据えて、先だけを求めて進んでいくの姿勢は、もしかしたら……自分の過去が真実ではないと、どこかで気付いているからじゃないかとか、そんな思考が展開していった。
どんなに足掻いても過去が手に入らないなら、未来を見据えるしか、なくなるじゃないか。過去や思い出を退路にしようとしても、心と身体のどこかがそれを拒んでいるんじゃないか?
あいつが自分の事を多く語らないのも、原因はそれかもしれない。きっと、無意識かもしれないけど、あいつは過去が本当じゃないと気付いているんじゃないか?
けれど、もしもそうなら、あれは本当に強さなのか?
ただの、虚勢ではないのか?
「もしもそうなら、手を」
差し伸べるべきではないのか?
「……え?」
纏まらない思考が方向を変えて散っていく。今、おれは何を考えた?
「手を、差し伸べるべき……何でだ?」
それは強さではなく怯えかもしれないから。
「でもそうだと決まったわけじゃない」
なら何でこんな理由のない不安な気持ちになる?
本当にが強ければ、過去と正面から向き合えるはずだ。実際、あいつはバルサムの死という事実と過去には目を逸らさずに向き合っている。偽りかもしれないけれど、その過去だって、受け止めようとしている。
「……それは本当に?」
浮かび上がったたった一言の疑問で、散乱した思考はすべて肯定が出来なくなった。
全てはおれの頭の中でのみ起きている事象だ。これはおれの中ののイメージに過ぎない。今までのものも、全てそうだ。じゃあ、本物のあいつは?
「……駄目だ」
駄目だ。おれはここに居ては駄目だ。また間違える。このままだと、また何かを殺す。
来た道を戻り、走り出す。途中でジェームズと擦れ違った、背後から何か声をかけられたけれど、振り向かなかった。
あいつは今、一人だ。
おれが、お前が、独りにした。
「うるさい」
また会いに行ってどうする。
「そんなの会ってから考える」
どうせ何も出来ないくせに。
「何も出来ないなんて決め付けるな」
また怖気づいて逃げるんだろう。
「逃げる気があるなら行かない」
どうせあいつはお前の事なんて何とも思ってない。
「それでもおれは行く」
これ以上関わりあうのは迷惑なだけだ。
「これ以上こんな面下げてる方が誰にとっても迷惑だ」
それとも、あいつの境遇に同情しているのか。
「おれはあいつを何も知らない。だから薄っぺらい同情なんか出来るはずもない」
いい加減大人しくしていろ、もう関わりあうな。
「嫌だ」
お前があいつを傷つけたんだろう。
「そうだ。でも傷つけるだけで終わりたくない、もうこんな関係でいたくない!」
あいつにお前は必要ない。
「おれが必要なんだ!」
窓ガラスが割れる音。それと一緒に、思考も音を立てて割れた。
おれが必要。思わず叫んだ言葉は……真実だった。
もう、幻聴も聞こえない。その一言で心の中が恐ろしいほど静かになった。
「雪……」
いつの間にか止まっていた足を動かして、窓の近くまで歩いてくる。視界にはいるのは白い森、それと、一人でいる小さな黒い背中。
あいつは、窓の外で雪を見上げていた。
ぼんやりと空を眺めているようだった。
よく見てみると、自分の指を組んで、両手を合わせていた。
何かを祈っているのか、何かに祈っているのか、過去を塗り潰されたあいつの願いを聞く神なんて居やしないのに。
……それでも、あいつの姿を見ていて、自分でも気付かないうちに考えていた。
「 Please relieve his mind 」
あいつは、一人で泣いていたのかもしれないと。