曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りにも似た姿

 ようやく黒くなった地面にスコップを突き刺そうとすると、シャーベットを削ったような音がした。手を離すと抉られた土と一緒にそのままスコップが後ろの方に倒れていく。
 汗を拭って背後を振り返った。新雪の中に黒い窪地が出来上がっている。
「こんなもんか」
 子猫の墓を作る、と言ったのはだった。あの口振りだとあの馬鹿は、また無茶をして一人で雪を払って地面を慣らして、なんてやるんだろう。
 放っておけないとか、心配だとか、そんなんじゃねえ。ただ、やっぱり自責というか、猫が死んだのはおれが原因だし、そのケジメじゃないけど、墓を作るくらいは手伝い……じゃなくて、とにかく、それくらいはしたかった。
 というか、これくらしか……おれには出来ないし。
 ああ、なんか凄く意味深に笑ったジェームズの顔を思い出しちまった。
 何が「中々彼の事を理解できるようになったんだね、嬉しいよ」だ。おれは別にあいつが好きになった訳でも理解した訳でもねえ、まあ、確かに嫌いとかそういう感情が薄くなったのは確かだけど。
 けど、絶対。断じて、おれはあいつを認めたわけじゃない。今回はおれに過失があるからこうしているだけで、そりゃ確かにこれからも嫌がらせというかそういう事するのかって聞かれると当たり前だろとか今まで見たいに言えないけど。
『シリウス、なに一人で百面相してるのさ』
「なっ! んな事してねえよ、つか急に連絡寄越すなジェームズ!」
 大体今、鏡はポケットに入ったままなんだから顔なんて見てねえだろうが!
『ちゃんと何度も呼んだって。でもそれだけ呼びかけても返事がないって事は、自分の思考にドップリ嵌ってるって事に他ならないと思うんだけど』
「……で、何のようだよ」
『百面相してた事は否定しないんだ』
「うるせえ! 用がないなら切れ!」
『用があるから連絡したんだよ。彼が起きたみたいだけど、雪かき終わった?』
 そこまで聞いて、おれはようやくポケットから鏡を取り出してジェームズの顔を見る。背景がかなり歪んで、ベール一枚隔てたように見える。
 多分、透明マントを使っているんだろう。
 足跡残るからこんな雪の中で使っても意味ねえじゃんとか、思った訳だけど。更によく見てみたらどうも箒に乗って空を飛んでるらしい。
 相変らず器用な奴だ。
「雪かきは終わったけど地面がまだグチャグチャだ」
『まあ雪の下だからね、それは仕方ないかも。魔法でどうにかできない事もないけど、そんな事すると絶対彼受け入れてくれないし』
「あいつ魔法使いの癖に魔法があんまり好きじゃないみたいだしな」
 喧嘩だって何だって、あいつはいつも自分の力だけでやってた。杖はいつも構えるだけで、拳で殴りかかってくる。杖なんか必要ないって挑発された気がしてたけど、今になって考えるとあいつは多分魔法そのものが嫌いなんだと、思う。確証ないし、直感みたいなものだけど。
『……シリウス気付いてたんだ。が魔法使う事嫌いだって』
「なんとなく、だよ。しかも今突然そう思った」
 それにしても今の口振りからすると、もしかしなくてもジェームズはが魔法が嫌いだって事に気付いてたのか?
 今までそんな事、一度も聞いたこと無かったけど。
 まあ、ジェームズの考えてること全部がおれに理解できるわけでもないし、第一の事なんて今まで進んで聞こうともしなかったし。
『別には全部の魔法が嫌いな訳じゃないよ。中には気に入らない魔法なんかがあるってだけさ、記憶や思い出に介入する、惚れ薬とか……忘却呪文とかがね』
「忘却呪文が?」
『それを疑問に思うなら、理由はきっと今に判るよ』
 なんだかまた意味深な笑みを浮かべて、鏡の中が少しだけ揺れた。
 多分、雪の上に立ったんだろう。
『あのさ……シリウス、今から頼まれてくれてもいい?』
「まあ、おれの出来る範囲でなら」
『ありがとう、親友』
 まだ何も言ってねえのに、礼を言われる。
 嫌味でも言おうとしたけど、ジェームズの顔が妙に真剣なので、その言葉も頭に浮かべる前に消えちまう。その代わりに早く言えと急かした。
『これから、何が起こっても。そこに居て欲しいんだ』
「は?」
『直情型な君の事だから、こうやってお願いしないと感情に任せてこっちに来そうだから。でも素直な君でもあるから約束すれば来ないだろ?』
 ジェームズ、おれはお前が何が言いたいのか全然理解できねえ。
 予言か? それとも占いか? 確かにおれは感情的になる事があるかもしれないけど、ここからジェームズの所まで全力疾走するくらいの事は早々起きねえと思うぞ?
『だからさ、何があってもここには来ないで欲しいんだ。ぼくはもう駄目だけど、君が覚えていてさえいれば……きっとは、少しだけ救われるから』
「なんかいやにの事心配してるじゃねえか」
『心配っていうか。ただの、自己満足だよ』
 鏡の表情が曇った。
 諦めに似た溜息がジェームズの口から漏れる。
『それに、なんだか想像している以上に嫌な予感がするんだ。きっとぼくは忘れるだけだけど、彼はもっと、違う気がする』
「忘れるって? これから何が起こるっていうんだ?」
 おれがそう問いかけても、ジェームズは曖昧な笑いを浮かべるだけで正確な答えは返って来ない。
 相手の鏡の向こうでの声がした。ジェームズの名前を呼んでいる。どうも尾行がバレたらしい、親友が仕方ないと肩を竦める。
『魔法界に対してのささやかな反乱だよ。鏡が見つからず、君がこれを忘れないことによって、それは人知れず成功する』
「……わけがわかんねえ」
『今はそれでいいさ。その後どうするかは君自身の行動にかかっている、頼んだよ親友』
「理解できないけど、任せろ親友」
 少々投げやりに、けど心の中では真剣に返すと、ジェームズはおれの気持ちなんてお見通しなのかニッと笑って鏡をポケットにしまった。
 鏡の視界は闇に覆われて、少し篭った音だけがおれの耳に届く。
 が再びジェームズの名を呼んだ。おれは白い木の幹に背を預け、何も見えるはずのない鏡をじっと見つめていた。
『やあ。おはよう、
 胡散臭いほど軽やかなジェームズの声、見えなくたって判る。は今、絶対に、もの凄く、これでもかというくらい警戒している。
 おれだってこんな爽やかな声のジェームズに遭遇したら何をされるかという疑心暗鬼にかられる。なら、なら尚更警戒するに決まってる。
 雪の上を走る音、逃げている風でもないから近づいているんだろうけど、親友よ、敢て問う。いくら記憶を取り戻したとか言ったとしても、疑われるとか普通に思わないか?
『ゴメンゴメン、今までの癖が抜けなくてね。君に見つかるとどうしても隠れちゃうんだ。驚かせちゃったかな。いや、普通驚くよね。昨日までと全然違う接し方されたら』
 早口で捲くし立てるジェームズに当然ながらは始終沈黙を貫いている。もしかしたら喉元に杖を突きつけられているかもしれない。
 もしこれで一発でも殴られでもしたら、今のお前の行動は勇気じゃなくて無謀っていうんだぞ。おれにだってそれくらい判る。
『……』
 当たり前のように双方沈黙。
 また、雪が踏まれる音がした。視界が揺れたから、ジェームズが近づいたんだろう。
『彼女には、すまない事をした。謝っても謝りきれない』
 立案者のジェームズ、実行者のおれ。その責任を確かにするように、あいつは鏡の向こうでに向かってそう言った。
『……バルサムは、』
『誰も責めていないんだろ? でも、そういう問題じゃないんだ。少なくとも、ぼくの中では』
 それは、おれも同じだ。
 おれは今でも、おれを責めている。それはきっと誰が許すといっても、おれがおれを許せない限り続くんだろう……たかが猫一匹。それでも、命だ。
『自責、か?』
『君と同じようにね』
『おれは……』
『それでも、同じ過ちを繰り返さないように、前を見て歩き出すんだろう? それが彼女の、君への願いだから』
 そう言ったジェームズの声は、何故だかとても辛そうに聞こえた。それでも、相手を労わる様な声色にも聞いて取れた。
『君の意思は誰かの願いから生まれる……例えばリーマスやスネイプ、人間じゃないものもある。君自身の願いもカウントしていいかな。それは賛否に分かれる思考回路で、ぼく個人としては少々理解し難いから賛同しかねる』
 ……今の、ジェームズの言葉に、おれはかぶり振った。
 形は違うが、おれにはそれが理解できた。自分の意志を持てないわけじゃないけれど、周囲があまりにも煩わしいんだ。家とか血とか、自我を持たない内から周囲にそんなものを押し付けられて、自分の意思が押し潰されて、消える。
 そんな事が自分の環境で当たり前になると、自分自身の考えが次第になくなっていく。自分の考えだと思っていても、実はそれは単なる他人の願いって事があった。
 押し付けられるか、無意識か無理矢理なのか抱え込む、自発的な分の方が性質が悪いとも思うけど。あいつ一体どんな環境で育ったんだ、今更だけど。
 おれはそこまで自虐的じゃないし、ジェームズと会ってからはそれからも解放されつつある。あいつは強い、ジェームズ・ポッターという男は真実の意味で恐ろしいほど強い。
『けれどそれは、とても君らしいとも思う』
 その言葉にも、は無言で返した。
 また、暗闇の中に沈黙が降りる。やがてジェームズが口を開いた。
『お墓、作るんだってね。手伝わせて欲しいんだ』
 本題に入る。なんだかまた、が凄い複雑な表情を浮かべている気がした。
『シリウスが、言い始めたんだけどね』
 ちょ、おま、ジェームズ! いきなり何バラしてんだよ!?
 いや別に隠してたわけじゃねえけど、なんかすっげえに気を使わせる発言な気がするのはおれの気のせいか!?
『そうか……』
 そうか、ってそれだけかよ。おい。
 おれの考え過ぎか、所詮だ。感情が薄いんだよ。今は、前みたいに別に責めたりしねえけど。
『だから、向こうでずっと雪かきしてる』
『……雪かき?』
『「それぐらいしかできない」からだって。吹雪が止んでからずっと雪かきしてる』
 洗い浚い喋ってくれますね、ポッターさん。
 おれは別にあいつの為に墓作ってるわけじゃないんだよ。ただ猫がおれの所為で死んだからその責任くらいは取ろうとしてるだけなんだよ!
 そうやって鏡に叫べたら、どんなにいいか。
 叫んだら最後、なんか色々とてつもなく恐ろしい結果になりそうな気がするから、そんな事言わないってか、言えないけど。
『案内を買って出たんだ。それに、君に話しておきたいこともあったから』
 そういえば、ジェームズ。昨日の晩、そんなような事言ってたな。
 一体なんなのかは、おれには全然判らなかったけど。
 そう考えていると、突然ジェームズが面白そうに笑い出した。声を上げてではないけれど、まるで何か、小さな悪戯が成功した時のように。
『ごめん、君の警戒心があんまりにも薄かったから』
 やっぱり何かやったらしい。対しては無言。
 速攻で手を出さないって事は、それ程怒ってないか、大いに怒って怒りを溜めているかのどちらかだけど……まあ、多分、それ程怒ってないんだろう。
 それ程怒って無くても、たまに肋骨とか折られるけど。
『今のお前が違和感が無さ過ぎて気持ち悪いからだ』
 吐き捨てるように告げられた台詞に、意外にもジェームズは何も返さなかった。
 普通なら、おどけてもう一言二言は告げるはずなのに。
 代わりに聞こえてきたのは、とても焦った、親友の声だった。
『話したいことは正にそれなんだよ。ね、今までのぼくに、違和感を感じた事ってある?』
『……』
『お願い、大切なことなんだ。はぼくが普通じゃなかったって事を知ってたの?』
 ジェームズらしくない問いかけ方。
 はかなり時間を空けてから、呟くような返答をした。
『なんとなく。しかし、その原因は例の乱闘ではないのか?』
『いや、それは違うよ。ぼくは殴られたくらいじゃ価値観を変えることはできない男だ』
『殴るというより、重傷にしたがな』
 いや、重傷とかいうより重体だ。
 ああ、凄い嫌な記憶が甦ってきた。思わずなんておれはこんな事してるんだろうとか思ってしまうあたり、酷く薄情なようにも思える。すまんバルサム、お前は悪くないんだ。お前に関してだけ言えば、悪いのはおれだ。
『しかしならば、何が原因なんだ?』
『それは自分に対しての問いだね』
 視界の黒が波打ち、会話の途中に雪の上を歩く音が混ざる。
 移動しながら、話をしているようだった。
『……君は、それに気付くべきだと思うかい?』
『気付いた所で何も変わらないのなら、気付いた方がいい』
『知らないよりも、知っていたほうがいい。それだけのことだね』
 ジェームズの声色が少し明るくなる。そのトーンのまま続けた。
『けれど、それだけで収まらない事が稀にある。今回はそのケース、かもしれない』
『……知らないままの方がいいのか、絶対に知っておいたほうがいいのか、どちらだ』
『少なくとも、ぼくは「知っておきたい」し「覚えておきたい」…………いいや、正確には「忘れたくない」そして「思い出して欲しい」だ』
 声色が少しずつ変わって、やがて真剣になる。
『楽しかった記憶を消されるのは、とても辛いことだ。そして相手への好意を忘れさせられるのは、とても気分が悪くなる』
 ……なんとなく、さっきのあいつの言葉を理解した。
 ジェームズと、そしては忘却術を施されている。そして、きっとおれ自身も。そして、ジェームズだけが、何がきっかけか知らないが、自力で解除できたらしい。
『何度だって、何十度だって、それは変化しない気持ち。怖くて、悲しい』
 そして今、あいつはにかけられた術も解除しようとしている。それが魔法界の考え方に反しているから、あいつは『反乱』と言ったんだ。
 けど何でだ? 都合が悪ければ、記憶を消すのが普通だろ? それに、失ってもそれは、大したものじゃない。現に、おれはこうやって記憶が無くたって、普通に生活できている。
 過去なんかなくたって、今と未来は生きていける。
 それとも、失った過去は……あの二人にとっては大切なものなのだろうか。記憶を取り戻した時のジェームズは、確かに大切なものを思い出した顔をしていた気がする。への態度が変わった。
『思い出せたみたいだね?』
 安堵した声。けれど、何故か、とても辛そうだった。
 その理由は想像できた。記憶を消したという事は、誰かの都合が悪かったらだ。
 その誰かに、記憶を取り戻したことを知られれば、また、記憶は消されてしまう。けど、その記憶を消したのは誰だ?
 ジェームズやのようなレベルの魔法使いを押さえ込むには、並の生徒や教授じゃ太刀打ち出来ないはずだ。
 今なら、認められる。も強い。少なくとも、おれよりは、確実に。
『ぼくは君の事が好きだった。でも彼の記憶と一緒にその想いまで消されてしまったみたいなんだ、だから、ぼくは君がとても苦手だった。訳が判らなかったから、今までぼくを突き動かしてきたものは本当の自分の気持ちじゃなかったから』
 時間がないとでも言うように、早口で捲くし立てるジェームズには何も言わない。もしかしたら、言えないのかもしれない。
『ごめんね、本当はこんな時に不謹慎だとは思った。けど、今じゃないといけないんだ。これより後じゃもう駄目なんだよ……そうだよね、
 まるで、縋るような、祈るようなジェームズの言葉。おれには、絶対言わないような台詞。
 誰なんだ、ジェームズを、をここまで追い詰める存在は……?
 記憶を取り戻した時、あいつは何て言った?
「……!」
 そこまでして、ようやく気が付いた。
 ジェームズはその存在を介入者と呼んでいた。そして、その魔法使いなら、間違いなく二人の記憶を消すことが出来る。どんなに抵抗しても、あらゆる差で負けてしまう。
 おれはその名を出したくなかった。けれど、鏡の奥から、ジェームズがその不吉な名前を呼んでしまう。
『いるんですよね。ダンブルドア校長』
 痛いくらいの沈黙。
 随分遠くにいるはずなのに、ダンブルドアが二人に近づく音がおれの耳にも届いた。
 誰も何も喋ろうとしない。
『ねえ、……このまま逃げられたら、どんなによかったかな』
 震えているジェームズの声。
 は何も答えない。親友のおれですら、何も言えない。言うべき言葉があったとしても、ジェームズの頼みの為に何も言わなかっただろうけど。
 頭の中に流れる血液が、妙にうるさく感じた。
 覚悟をしたように、ジェームズの息を呑む音がする。
『もうぼくは、ぼく自身の意志に反してまで君を拒絶したくないのに……』
 再び、暗い視界が揺れた。
 ジェームズが、倒れた。多分、きっと、ダンブルドアの忘却呪文によって。
「……ジェームズ」
 判ったよ。お前の言葉に乗ってやる。結局おれは何も思い出せないままだけど、誰にも知られずに、おれは反逆者になってやるよ。
 だって、確かにこれはおかしいじゃないか。
 いくら都合が悪いって言ったって、他人に対する好意まで消していいはず、ないじゃないか。消していいのは記憶まで、それも考えようによってはおかしい。けれど、それがどんなものであれ、気持ちを消すのは、絶対に間違っている。
 こんな事考えたって仕方ないことは判ってる。おれの所為だって理解してる。それでも、もしも……もっと早く、ジェームズがこの事を思い出していれば、もし、忘れないでいる事が出来ていれば、あの子猫も死ぬ事がなかったのかもしれない。
 おれはを前みたいに酷く嫌っていたままだったかもしれないけど、それでも、あの小さな命は救えたのかもしれない。
『……おれは、人間が嫌いだ。お前みたいな人間が嫌いだ』
『必要じゃったから、それに他ならない。それはあってはならん記憶なのじゃ』
『そうやって魔法使いたちは自分に都合の悪いものを全て抹消する』
 硬質化した声、向こうであいつは、怒っている。
 忘却の術に、ダンブルドアに、たった一人で諍おうとしている。
 あいつは、いつだって一人で諍っている。おれたちに、教師に、祖父に、全てに、もしかしたら世界に対しても、群れることなく一人で渡り合ってきていた。誰も力を貸そうとしなかったし、あいつも借りようとはしなかった。
『たった一本の杖で、たった一言の呪文で、たった一瞬で……』
 それでも、おれはそこに行けなかった。行った所で力になれない、なにより親友との約束がある。言い訳だと捕らえられてもいい、それでも、おれは行かない。そうしなければ、きっとおれの記憶も消されて、全てがなくなってしまう。
 おれだけは覚えている。そうでなくてはいけないんだ。
 これは、忘れてはいけない。
『その人間の築いてきた過去を奪い、壊す。お前のような人間は、それこそ何の感情も、罪悪感の欠片すらも感じずに。それが当然だからと言って』
 その言葉は、まるで自分を、そして世界を恨んでいるような言葉だった。不安と怒りと恐れが、言葉の中に混在している。
 余程、大切な記憶だったんだろう。
『過去を奪われた人間はどうやって生きていけばいい。過去を奪われた事に気付いた人間はどうやって生きていけばいいんだ』
 おれは、それが慟哭に聞こえた。
 静かに、手に持っていた鏡を握り締める。
『おれは一体、誰なんだ……』
 こいつは、なんて声で、なんて事を言うんだ。
 何でお前はそんな、泣きそうな声でそんな事を言うんだ。
 自分自身が判らないなんて、そんな事を言うを昨日のおれでは想像出来なかった。今だって、あまりの事に頭の処理が追いつけずににいる。
 バルサムを亡くした時のあいつは、心神喪失状態だった、まともじゃなかったんだ。それは確かにだったけれど、あんな奴にはもう二度と会うことはないと思っていた。
 墓を作ってそれで終わり。理解し合えるはずがない。明日からは、また意味もない張り合いが始まると思っていた。
 は思い出したんじゃないのか?
 失った記憶を取り戻したんじゃないのか?
 だから、ダンブルドアはジェームズと、一緒にあいつの記憶を消そうとしているんじゃないのか?
「……まさか」
 あいつは、それ以外にも何か消された記憶が存在するのか?
 さっきジェームズは「思い出せたみたいだ」と言った。そしてその記憶に関して、に語った。あいつは反論もなにもしなかった、だから、ジェームズの言う記憶に関しては、思い出せたんだろう。
 全部推測の域を出ないけれど、多分、それがきっかけだ。
 あいつはジェームズの言っていた過去以外にも、消された記憶が存在する。だからこそ、自分自身が誰かと言ったんだ……きっと。
『お前は……は、なにも覚えておらぬのか。本当に、何も……全て忘れてしまったというのか。彼の、トムの事は全て』
 裏付けされていくおれの考え。トム、その名前に心当たりはない。
 とても有り触れた名前だ。ホグワーツ内で何人居るかも判らない。けれど、ダンブルドアの口振りからすると、そいつはホグワーツの人間ではないだろう。そんな感じがする。
 そして、そのトムという人間の記憶を消したのは、ダンブルドアではない。
 あいつは、このホグワーツに来る以前から、誰かに記憶を操作されたのか?
『間違っていたのは、わしの方だったのか』
『言っている事と、やっている事が、違う』
 ドン、と魔法同士がぶつかった音がした。
 森の向こうで、閃光が弾けた。
 あそこで、とダンブルドアは戦っているのか、そう思った。鏡からは、二人の会話がおれの耳に届く。
『それは忘れたままでいなければならぬ記憶じゃ』
『それを決めるのは「わたし」であって貴方じゃない』
『思い出せばお前が傷つく』
「……?」
 聞き間違いじゃない。こんな聞き間違いなんて、ない。
 の口調と、一人称が変わった。
 記憶を、思い出そうとしているのか?
『10年分の思い出。多少傷ついても取り戻したい、普通はそう思う』
「……冗談、だろ?」
 だって、10年分の記憶は……それは、まだ12歳のおれたちにとっては、とても重い。10年もの記憶をなくしたら、おれは、きっと、おれで居られなくなる。
 いいや、誰だって、そんなに記憶を失ったら、自分自身が判らなくなる。
 それに気付いて平気で居られるのは、自分自身がどうでもいい存在だと自覚している人間か、余程前向きな人間くらいだ。
『過去の自分ばかり見ていても今と未来は変わらぬぞ』
『じゃあ貴方の過去全部失ってみてよ。自分が自分である全て。全部閉じ込めて、嘘で塗って』
 静かな怒りに呼応するように、遠くで魔法がぶつかる音が激しくなる。
 ダンブルドアの言葉も、確かに一理ある。
 過去がどんなであれ、今と未来は決定されていない。けれど、それは当事者じゃないから、そして長い人生を生きているから、言える言葉だ。
 おれは、そしても、そんな言葉では納得できなかった。若いからとか、そういう事じゃない、感情がその発言を受け入れることが出来なかった。
『そして記憶を思い出す間際に、貴方がこの世で最も憎んでいる人間にもう一度消させる。その時、今と同じ台詞が平然と吐ける?』
 そう問うに、返答はなかった。
『記憶の改竄、わたしはそれを最も畏れる』
 それはとても、真っすぐとした言葉だった。
 今まで続いていた魔法が止み、ダンブルドアが静かに問いかけた。
『例え改竄された記憶の方が幸せなものでも、お前はそう思うか?』
「っ!?」
 視界の端で、目が眩みそうなくらいの閃光が走った。
 地面が軽く揺れて、木の上の雪が落ちてくる。
「嘘だ……」
 あんなの、まだ子供の魔法使い相手に使うものじゃない。
 慌てて鏡を見るけれど、見えるのは暗い布だけで、外の様子なんてどうやったって知る事は出来なかった。こんなに近くにいるのに、それでもおれは行くことが出来ない。
 指先から徐々に力が抜けて行き、遂には鏡を手放す。雪の上にそれは軽い音を立てて落ちて、おれはその場に座り込んだ。
『そんな幸せなんかいらない』
 の声が、おれの耳に届く。
『そんなの、幸せなんて言わない』
 鏡から聞こえる声を、今すぐ切ってしまいたかった。それでも、最後まで見届けなければいけない気がした。
 雪上で光るそれに手を伸ばそうとして、目の前に座る小さな影に気付く。
 それは猫の形をした影だった。猫の顔なんて一々覚えることが出来ないと思っていたのに、とても見覚えのある仔猫だった。
 そいつは何処にでもいそうな灰色の毛色をしていて、とても健康そうな毛並みをしている。ただ普通の猫と違うのは、足元から続く影が無ければ、こんな雪が積もってるっていうのに足跡一つ、周囲にはない。
「……バルサム?」
 子猫の名前を呼ぶまで、短いような、長いような時間が過ぎた。そして、その名前を呼ぶと、そいつは嬉しそうに、本当に嬉しそうに一度だけ鳴いた。
 どうしてここにとか、謝らなきゃいけないとか、色々な事が頭の中を廻ったけれど、一番最初に口に出た言葉は、そうじゃなかった。
「お前の主人の所に……行ってやってくれ」
 どこまで傲慢なんだろうと、そう思った。
 それなのにバルサムは、おれの脚に一度擦り寄ってとても優しく鳴くと、音もなくおれの前から姿を消す。雪の上の鏡に手を伸ばすと、それは氷の様に冷たくなっていた。
 ダンブルドアがに何が言っていたけれど、聞きそびれてしまった。
 何か大切な事だったのだろうか、確かの名前を呼んでいた気がする。鏡を掴んで胸に当てると、痛いくらい指先が冷えた。
『……ありがとう、バルサム』
 心臓の上から、声が聞こえる。
 また顔を伏せる。目を閉じて、その声だけに耳を傾けた。
『大丈夫、まだ、わたしは愛してる……』
 翳みがかった穏やかな声、記憶はまだ消されていないみたいだった。
 けれど、もう少ししたら……きっとは、また過去を失って、書き換えられてしまう。
 もうおれにはどうしようもない。どうする事も出来ない、こうしてただ見ていることしか出来ない。ただ、おれだけはこの記憶を忘れないようにしなければならない。
 吐き出した息が、泣く寸前みたいに、情けなく震えた。
『愛してるから。わたしの呪いで、貴方を苦しめたくなかった……!』
 伝わってきたの言葉に、耳を疑う。
 呪いって、……何だ?
 聞き、間違いじゃ、ない。
「な、んだよ。呪いって……」
 そんなものにかかってたのかよ。誰もお前を助けなかったのかよ。他人に近づかなかったのもその所為なのか? 泣きそうな声してんじゃねえか、本当は一緒に居たかったんだろ? でも自分殺しちまうくらい、怖かったのか。
 記憶はないけど、それでも頭の片隅では、その誰かの事、覚えてたのかよ。
 ……だから今までずっと、たった一人で居ようとしたのかよ。
 同じ事、繰り返さない為に。
『今も貴方を愛しています……』
 今まで聞いたことないくらい、優しい声。そして、鏡からは何も聞こえなくなる。
 きっとは、おれが見たこともないような顔をして、また10年間の思い出を消されて行ったのだろう。また、つまならい日常を送るだけのために。
「かなしいやつ」
 自分の声に、気持ちが押し潰されそうだった。誰でもいいから、あいつに声をかけて欲しかった。こんな時におれは、立ち上がることが出来ない。
 蹲ることしかできなくて、おれはここから動けない。