祈りにも似た姿
「死ぬんじゃねえぞ」
声を上げても、音は雪に消される。
これが、おれの所為だって事くらい理解できた。もうこれは気に入らないとか、そういう問題じゃなくなっている。怪我じゃ済まない、おれの所為であいつが死ぬかもしれない。
人間が死ぬ。それは別の世界の話で、現実として、このホグワーツで今までそんな事は一度だって考えたことがなかった。
家では役立たずのハウスエルフが首を刎ねられて死んでいった。けどそれに対する感情は、例えば目の前で虫が死んでいく感覚と同じようなものだった。気持ち悪いとは思ったけれど、それだけだ。
けれど今回は違う。全く違う。人間が死ぬんだ。
例え嫌いな人間でも、怪我ではなく、死ぬんだ。しかも、たった一匹の猫の為に。
「くそっ! 寒いんだよ!」
防寒具を着けて、この寒さだ。
あの馬鹿は、はこれすら着けないでこの吹雪の中にいる。どのくらいかは判らないけれど、けれど結構な時間居るはずだ。
居場所が判るだけでも救いだろう。あいつが向かって居たのは、あの……最初に、猫たちを拾った場所だ。
何でそんな所に行くのか、そこにか行く場所が思いつかなかったのかは知らない。でも、確かにあいつはあそこに居た。西日しか差さないあの暗い場所に居た。
「頼むから、あそこにいろ」
そこに居なければ、きっと、今度こそ見失う。
そうしたら、おれはどうすればいいのか判らなくなってしまう。こんな広い夜の城外で、しかも吹雪の中で人間一人、猫一匹を見つけるなんてとてもじゃないけど、出来る自信なんてない。
もうすぐ、あの角を曲がれば最後に光を見た場所に出る。
誰かが何処かに居ることを、こんなに強く願ったのは、生まれて初めてだった。
あと三歩、二歩、一歩……恐る恐る杖を翳し、光を当てる。
奥に闇がある、何も見えない。名前を呼んでも、誰からも返答はない。
無音の夜が、そこにあるだけだった。いや、そう思っていた。
「居るのか? 」
返事は無かった。けれど、闇とは違う黒い塊が、そこに確かに居た。
慌てて脚を速める。近寄ると、そこには雪を被った小さい塊が、そこに確かに居た。
「おい、。生きてるか?」
怖くて、静かに訊いた。
返事がなかったら、そのままこいつが動かなかったらどうすればいい、と、おれは誰かに聞いた。けれど答えは返ってこなかった、代わりに目の前の塊も僅かに動いて、顔を上げる。
杖の光に浮かび上がったのは、おれが知らない人間の顔だった。
膝を付いたまま放心して、泣きそうな表情をした子供が、小さな生き物を腕に抱えておれを見上げている。おれはそれ以上見なかった、見ることができなかった。
我に返って慌ててコートを被せる。唇が青白く、震えていた。
「城に戻るぞ、このままだとおれもお前も死ぬ」
出来るだけを見ないようにして、動かない奴の手を引こうとした。何か違和感がある。一度手を離して手の平を見てみると、手袋が血に染まっていた。
「おい、お前……っ!」
猫を抱えていた腕の片方を取る。細い指が真っ赤になって、傷だらけだった。
座り込んでいるそいつの奥を見ると、血の色をした雪の穴がある。まさかと思ったけれど、そうしかない。こいつ、素手で雪を掘り返してたんだ。
けれど、そうすると、腕の中の猫は既に。
「バルサムが、死んだ」
焦点の合ってない瞳がおれを、おれの背後を見て、首が左右に振られた。
血まみれの手の平で猫の死体を抱き締める。小さな体、動かない頭、鳴き声一つあげないその死体に、現実を突きつけられる。
追い打ちのように、は言葉を続けた。
「ここで、バルサムは独りで、死んだ。死んでしまった」
独白のように言葉を紡いでいる。
いや、きっと独白なんだろう。おれがいる事を認識していない。こいつの中には、おれはいない。おれがこの猫を殺したのに、あいつの中におれはいない。
「ごめんな、寂しかったな。寒かったな、苦しかったな、辛かったな……不安、だったな」
ボロボロの指先が猫の死体を撫でた。その部分が赤く染まる。
腕の中の猫は、灰と赤の斑になっていた。
「」
名前を呼んでみても、何の反応も返されない。
ただ何事か延々と呟いて、時折俯いて、そして大丈夫と呟くのを聞いて取れた。
が、泣いている。
顔を歪めるでも、嗚咽を漏らすでもなく、涙を流すでもなく、ただ本当に、泣いてる。
瞬間、我に返った。そうだ、連れて帰るんだ。猫は死んだけれど、こいつは城に連れて帰らなきゃいけない。
猫は、死んだけれど。
「……すまない」
ぽつ、とが呟いた。冷たい死体に頬を寄せて、表情は見えない。
「悪い、飼い主に似てしまったな……」
更に小さく言う。
まるで誰かと話している風に。
得体が知れない人間。こいつとおれは違う、あらゆる意味で一緒ではない。何もかもが違うんだ。同じなのは、あいつも多分、人間だという事だけ。
「なあ……誰と話してるんだ。ここで、お前死ぬ気かよ」
「この子を、連れて帰らなければならない」
はじめて、はっきりとした意思を持った声を返してきた。
けれど、猫を抱えて立ち上がった瞳はまだ虚ろだ。
今誰を見てるんだ、何が見えてるんだ?
そう問いたかったけれど、とても問える状態じゃなかった。おれにはこいつが判らない、しかも今までのように嫌悪じゃない、これは恐怖だ。
は違う。いつかジェームズが言っていた、こいつの普通は違うと。確かにそうだ、確かにこいつの普通はおれたちの普通とは違う。
触れるのが怖いとはじめて思った。何故今までのおれは平気でこいつを殴ろうと出来たんだ? 近くに居ることすらも怖い、こいつは住む世界がずれている。おれはこいつの本当の姿かもしれないものを垣間見ているのかもしれない。
今までは違った。は気持ち悪いだけの存在だった。チビで陰気で傲慢で我侭で暴力をすぐ振るう、他人の意見を受け入れないし、自分の意志を押し通そうとする。
笑う事はあってもそれはいつも嘲笑だった。怒る表情ばかりを見ていた。こいつが泣く事なんて想像した事すらなかった。機械みたいで、まともな感情なんてないと思っていた。
「お前は、一体なんなんだ」
聞こうとしても、口が言う事をきかなかった。呼び止めようとしても、声が出ない。
城の明かりが近くなってきた。前を歩くの輪郭がしっかりしてくる。
「このまま、ついて来る気なの?」
「……!」
振り返られ、ハッとした。
初めて、本当に初めての顔を正面から見る。率直に、無邪気な顔だと思った。
年齢より幼く見える顔立ち、迷いのない瞳、そして微笑っているその表情を見て、おれの胸が痛む。どうしてそんな顔が出来るんだと問うよりも、何よりも優しく思えてしまうような雰囲気に、泣きそうになった。
シリウス・ブラックを見る目でも、ジェームズ・ポッターを見る目でもない。心を許しているリーマス・J・ルーピンに向けられる笑みでもないことが理解出来てしまった。
こいつはおれを通して全く別の何かを見てる。その何かは想像もつかないけれど、この男にこんな表情をさせる何かを見ている。
戸惑いながら首を縦に振ると、はその表情のままおれをじっと見つめていた。
それに、そんな視線に耐えられなくなって視線を外すと、あの腕の中にある猫の死骸に目が行ってしまった。後ろめたさに体の筋肉が固まる。
今になってじわじわと理解し始めた。命と、死というものが、どんなものなのか。
間接的に、あるいは直接的に殺すという行為がどんなものなのか。
頭が真っ白になる。おれがこの猫を殺したんだ。それ以外に浮かばない。おれが猫を殺したんだ。心臓が軋んで痛い。おれが殺したんだ。血の気が引いて立っているのがやっと。おれが殺した。
「バルサムは、彼女は誰も責めてない」
穏やかで柔らかい口調。血まみれの掌。目の前には幼い慈母の表情。
一瞬、猫の死の痛みが薄らぐ。けれど腕の中にはその死骸。再び死の痛みに襲われる。
「おれが。おれが殺……」
「彼女は、笑って……遺言をのこした」
血だらけの指先が手袋に包まれたおれの手に触れた。思考の中断。胸の痛みが引く。
「おれは、それを聞いた。花の、咲く小さな墓を作って。これ以上、苦しませないように……成仏させると、約束した」
ぽつん、ぽつん、と言葉が宙に浮いて、おれの耳に届いた。
の声がおれの聴覚に触れると、胸の痛み、罪悪感の侵食が嘘のように引いていく。それが例えおれに語りかけるものでなくても、おれが救われる、そんな気がした。
「だから、夜は、前を向くべきなんだ」
「夜……?」
誰かの名前かと考えた一瞬後、おれは唐突にその意味を理解出来てしまった。
それは確かに名前だった。いや、それは名詞だ。は本当に「夜」というものと話している。普通じゃない、けれどにとってはそれが当たり前の事で、こいつの中か傍には夜という存在が確かにあるんだ。
ジェームズはこの男が神聖なものかもしれないとも言っていた。間近で見たおれは、以前と違う意味でそれに賛成は出来ない、おれがを見つけた時の表情は、どこまでも普通の人間だった。むしろ神聖と呼ぶよりも、まったく別の次元に住んでいた人間のそれだ。
例えばそれが夜という存在が完全に物質として認められている次元なのかもしれない。
考えてみれば、に敵意を持つ人間は誰もこいつの事は知らないんじゃないかと思う。少なくともおれはそうだ。日本の出身で、ダンブルドアの孫という事以外何も知らない。
そしてリーマスとスネイプの野郎。今はジェームズも、の一部だか全部だかを理解した人間はあいつの敵になっていない。
今のおれ自身も、以前と同じ目でを見ていない。好きになったという訳じゃない、ただ一概に嫌いと言えなくなった。
目の前に立っている人間は、一方でおれに現実を突きつけながら、他方で確かにおれの心を軽くしている。腕に死体を抱え、現実を突きつけながらも、ただ微笑して、糸を紡ぐような言葉だけで救おうとする。そしてその両方が無意識のものだ。
傷だらけの指先が手袋の上からそろりと退き、血塗れの小さな掌がおれの指先を掴む。に対しての恐怖は、いつの間にか薄れていた。
「……温かい。バルサムも、こんな風に温かかった」
唐突な言葉。残された腕に抱えられた猫を、は抱き締めた。
わざとではない事は判ってる。こいつは「夜」に対して敵意は持っていない、これは無意識の自然な行為だったんだろう。
けれど、そこから覗いた猫の顔が、おれの胸を容赦なく締めた。
「……ごめん」
謝ると、胸がさっきよりも痛くなる。もう一度言おうとして、痛すぎて言葉がでなかった。
「何故、謝るの?」
罪悪感で頭と心が一杯になったおれに、幼い口調で細い腕が伸びて、頬に触れる。
涙が溢れて、一筋だけ流れてしまった。傷だらけで血の匂いのする小さい手は、おれの手なんかよりずっと温かく感じる。黒い瞳が、心配そうに、真っすぐとおれを見上げていた。
「どこか、痛い?」
頷きかけて、首を横に振る。
が訊いたのは、精神的なものではなく、きっと肉体的な痛みなのだろう。そう感じ取って、おれは否定した。
「悲しい、それとも、寂しいの?」
視線を逸らし無言で居ると、首を軽く傾げたままの体勢でが覗き込んでくる。
「……つらい?」
辛い、繰り返して。その言葉が一番しっくりくると頷きかけた途端、また涙が溢れてきて今度は止まらない。みっともない姿を見られたくなくて身を屈めようとするおれより早く、それでもゆっくりした動作では片腕でおれを抱き締めた。
もういいよ、と言われた気がする。都合のいい自分自身への言い訳か、幻聴かもしれないけれど、おれは誰かがそう言っているのを聞いた気がした。
それでも、おれの罪悪感は止まらない。この程度で止まるものは、罪悪感などと言わない。
は、そんなおれが泣き止むまで待っていた。罪悪感は去らなくても、心が落ち付く。するとさっきより強く抱き締められ頭を撫でられたので、また泣きそうになった。けれど、何とか耐えた。
相手はなのにまるで、理想の中にいる母親像みたいだ、と思ってしまった。とてもぼんやりと、漠然と、だけれど。
情けない事におれは、こんな同い年の男に、母親を求めてしまっていた。相手を理解できない恐怖も拭えないけれど、それ以上に、おれとは違う人間だからこそ、求めてしまっていた。
いや、自分がこれから逃れたいがために、の存在と行動が都合よかったから、利用しているだけだ。別に、じゃなくてもよかった。
でも、以外の奴だったら、どうなっていただろう。これがジェームズだったり、リーマスだったりしたら、おれは……この猫の死を責められたんじゃないか?
無言で差し出された、手を握り返す。腕を引かれながら、おれは歩いた。
目の前には、頭一つも違う小さな背中がある。
「……ごめん」
おれは死から救われたいが為に、お前を利用している。
その言葉は、続いて出てこなかった。
はゆっくりとした歩調のまましばらく黙り、そして口を開いた。
「夜が、何に対して謝っているのかが、おれには理解できない」
足を止め、振り返る。
「何か、誰かに責められるようなことをしたのか?」
おれも歩くのを止めて、間近でを見下ろした。
迷いのない黒い瞳に、懺悔を口にする。
「バルサムは、おれの所為で死んだんだ。それに」
おれは、お前を利用しているんだ。その言葉も、続かなかった。
にしてみれば、何故「夜」がこう言うのかが理解できないだろう。
けれどその返事は、おれの言葉に対する違和感や疑問ではなかった。
「……生者に縛られる死霊は、とても苦しいそうだ」
おれたちの視線が腕の中に行き、制止する。
は顔を上げたようだったけれど、おれはそうすることが出来なかった。
赤い手が、おれの頬を撫でる。また、慰められているようだった。
「バルサムは誰も、責めていない。それを望んでいない」
はた、とその手が止まり、腕が下ろされる。
視線を上げた。が、泣きそうな顔をしていた。
「ポーズも自分を責めていた。おれも自分を責めた。そして夜も……けれど彼女は自分の死で誰かが責めたり責められるのは悲しいし、自分も傷つくから辛いと言った」
思わず腕を伸ばしそうになり、けれど触れることが出来なかった。
泣きそうな顔で、それでもは涙を堪え笑おうとしていた。
「彼女を悲しませ傷つけ苦しめるような真似を、おれは二度もしたくはない……だから、笑うことは出来なくても、泣かないことくらいは出来る」
表情と声が歪む。それでもこいつは泣きはしなかった。
「自分で出来る事をやるしか、おれにはないんだ」
「……強いんだな」
すると、今度は自嘲気味に笑った。
歪んだ表情が俯き加減になり、ついには見えなくなってしまう。
「強さとは、なんだろう?」
「……え?」
「何故人間は、善悪や強弱などというもので世界を分けようとするんだろうか」
両腕が、死んだ猫を抱き締めた。
が何をおれに言いたいのか、もしくは誰に何を伝えたいのか、おれにはわからなかった。ただ、何かに嘆いているようにだけ、見えた。
「……もう城の中に入ってしまう。夜はどうするんだ?」
顔を上げる。もう泣いても笑ってもいなかった。
黒い瞳が、おれだけを見ている。思わず反応が遅れ、少しして、視線を逸らしながら付いていくと返事をした。はまたおれの手を取って歩き出す。
城の中に正面から入ると、そこには誰もいなかった。胸を撫で下ろして、少しだけ足を速める。すぐにの隣に並び、あの目がおれを見上げてきたから、思わずまた逸らす。
その逸らした先に、うちの寮の寮監の後ろ姿を見つけた。やっぱり見張ってやがったんだ、きっと他の教師もどこかに居るはずだ。
マクゴナガルが気付く前に、おれはを肩に担ぎ上げ走り出す。思ってたよりもずっと、肩の上の人間は軽かった。
「ミスター・ブラック!? それに、ミスター・!」
乱暴な靴底の音にマクゴナガルが振り返る。声を張り上げたがもう遅い。第一、ホグワーツでおれより足が速い奴なんて知れている。
すぐに誰の姿も見えなくなって、肩の上の体を担ぎ直した。たまにのろまのピーターなんて抱えて走るから、同じようなサイズなのにの場合は体重が軽すぎて逆に落としてしまいそうになる。
「おい、落としそうだからしがみ付いてろ」
言うと、は素直におれの背中のコートを掴んだ。走るスピードを上げて、階段を段抜かしで駆け上がる。もう誰の声も聞こえない。
廊下の奥には猫の絵のある部屋。マクゴナガルはここの場所を知らない。リーマスやジェームズが何も言ってなければ、相当の時間稼ぎにはなるだろうと思う。
こいつはバルサムを連れて帰ると言った。あそこで捕まったら、こいつは確実に医務室に直行してたろうし。せめてもの、気遣いというやつなのかもしれない。
「……ここだろ?」
立ち止まってを抱えて下ろす。何も言わずに目の前のドアと絵を見上げた。
絵の中の、あの猫も起きていた。おれを見て、バルサムを見て、最後にを見て「おかえりなさい」と泣きそうな顔して笑った。
「ただいま」
扉が開くと同時に、子猫がのコートにしがみ付く。ジェームズとリーマスも居て、おれを見た。
おれが首を横に振ると、ジェームズが唇を噛んで座り込み、リーマスは力なく項垂れ膝を付く。その前を、は一言も言葉を発さずに通り過ぎた。
絨毯の上に膝を付き、バルサムを抱えていない方の腕で一匹ずつ子猫を下ろしていく。
誰も何も言わなかった。子猫も鳴かず、窓を叩く雪の音だけがしていた。
「ノリス、ティブルス、タフティー、スノーイー……ポーズ」
の声が猫を呼ぶ。子猫の瞳が飼い主にだけ注がれた。
五匹の猫を見て、は笑ったが、バルサムの遺体を撫でて、その表情が消える。
「ごめん。お前たちの姉さん、死んだ」
誰も、衝撃は受けなかった。けれど、悲しみが広がる。
灰色の子猫二匹がに擦り寄り、ノリスの方が何度か鳴く。残りの三匹も皆に擦り寄って鳴き始めた。
「ありがとう……」
苦しそうな声で、それでもほっとした表情をして、は項垂れる。泣くかと、思った。
子猫が鳴いて、悲惨な状態の指を舐める。唐突に、本当に突然、はその手の平をじっと凝視した。
「……何で?」
自分が、こんな手をしているのか。そう口が続ける前に、体全体が傾いていく。
おれ以外の二人がの名前を呼び、立ち上がろうとする。それより早く、おれが駆け寄って小さな体を支えた。座り込んで額に触れてみる。信じられないくらい、熱い。
「熱の、匂いがする」
うわ言のような言葉を言いながら、ぼんやりとした黒い瞳がおれを見ていた。
ジェームズが医務室に急患を知らせる為に部屋を飛び出した。子猫も部屋の外に出ようとしたが、ノリスが一喝して全員を寝床に戻らせる。
「シリウス、ぼくがを運ぶから手伝って」
「いや、おれが運ぶ」
有無を言わさないリーマスの言葉にそう返し、に楽な姿勢を取らせながら続けた。
「今のリーマスじゃ無理だ」
「っ、無理でもやる!」
「馬鹿野郎! 相手は意識まともに保っていられない病人だぞ! 共倒れするつもりか!?」
それでも譲らないリーマスに、おれはを抱えたまま叫ぶ。
それでもリーマスは怯まない。
鳶色の瞳がおれを見下ろす。
「ぼくは君が信用できない!」
「リーマスっ!」
「君の所為でバルサムは死んだ!」
「それは……!」
「がこうなったのも、元々の原因は君じゃないか!」
悲痛な表情をしたリーマスの言葉におれは反論できなくなる。
を見て奥歯を噛み締めた。やっとのことで、おれは言った。
「それでも、体格と体力を考えたら、おれの方が運ぶのに適してる。後で殴るなり何なりしてもいいから、だから今は早くを医務室に連れて行きたい。こんな所で喧嘩してる場合じゃないんだ」
「……わかった」
決して許されたわけじゃない、それでもリーマスはそれ以上何も言わずにの腕を持ち上げておれの肩にかける。
立ち上がると、背中でがうわ言のように何か呟いていた。リーマスがおれに少し待つように視線を送り、優しい言葉で、どうしたのかと話しかける。
「あいつに……教えなければいけない」
「あいつって、誰?」
リーマスの声に反応し、小さな頭が重たそうに動いた。
「ブラックに……」
「シリウス、に?」
「シリウス・ブラックに、バルサムは誰も……責めてないと」
前に回されていた小さな手がぎゅっと握られ、緩慢とした動作で開く。
おれもリーマスもしばらく沈黙して、どちらからでもなく歩き出した。隣を歩いていないから、リーマスの表情が見えない。
「……ぼくが責めれるはずないじゃないか」
「リーマス?」
突然、リーマスが口を開いておれの隣にくる。
「バルサムも、それを伝えたも、君を責めていないのに。ぼく一人がそんな事出来るはずないじゃないか」
伸ばされたリーマスの手の甲がに触れる。熱いね、とだけ言った。
「……ごめん、シリウス」
「謝るなよ親友」
俯く鳶色の髪に向かって、おれは返事した。
「それに、お前の言った通り……これはおれの所為なんだ」
「そういう言い方すると、は怒るよ」
「……判ってる」
前より幾分かは、この背中の人物の事を理解していると思う。
そんなおれの返答に、リーマスは少し驚いた顔をしてから、納得したような表情に変化した。
おれよりを知ってる分、もしかしてがおれにどう接したのかが予想できたのかもしれない。リーマスはそれっきり喋らなくなる。
「こいつ、普通じゃねえよ」
高くも低くも、もう一人の親友の言葉を、おれは今になって理解できた気がした。