曖昧トルマリン

graytourmaline

凍えた指先で

 また、雪が降ってきた。
 音もなく静かに土を凍りつかせ、墓を徐々に白に染めていく。それにつれて視界も白に埋まり、指と唇が寒さに震えた。
 心の中の空白が叫び軋む。けれどそれは、感情に届く前に消され溶けてしまった。
 降る雪、降らす空、裸の幹が連なる森、網膜が認識する薄い光、おれ自身から吐き出される息、視覚で認識する世界の色はただひたすらに白。
 宙を見上げて目を瞑ると闇。目尻から体温を保った涙が溢れて落ちた。止まらない。
 脳が信号を発する、悲鳴を上げる、切られた音の中で叫び続けている。何も聞き取れない。
 自分自身を誤魔化すように言葉を紡ごうとして唇を動かすと、漏れたのは泣きそうな息だった。咽喉が震え上を向いていられなくなる。俯き組んでいた指を外して、口許を覆った。
 肺が強張る、唇から醜い嗚咽が吐き出され、それを塞ごうと意識して大きく呼吸すると身体の中に凍った空気が広がった。
 もう、何に対して泣いているのかすら判らない。ただ感情が泣けと強制している。
 ……それは出来ない。それは、したくない。
 何も考えずに、本当に泣いてしまったら、何かが終わってしまうような気がした。泣く事で、何かに対して作ってはいけない区切りが生まれてしまう気がした。それは理性なのかもしれないし、本能だったのかもしれない。
 そのどちらであっても、或いはなくても、おれが本当に感情の支配されて泣いてしまったら、この空白を認めてしまうような気がした。
 空白を認めたくないのか、空白の存在を認めたくないのか、そのどちらでもあるのか、そのどちらでもないのか。答えを探すわけでもなく、問いかけだけが浮かんでは沈む。
 単調な思考が散乱し、範囲を広めていく。どこまでも薄く、まるで膜のように広がるそれに心が平静を取り戻す。少しずつ、震えがおさまってきた。
 息を吐き出して目を開ける。目尻に残っていた涙が最後の筋を作った。
 もう一度、今度は目を開けたまま空を見上げる。
「……大丈夫」
 もう、前を見ていける。
 現実を見据えると、心の空白が底深い闇の中に落ちていく気がした。慟哭も嗚咽もなにもかもが、そこに沈んでいって、後には静寂しか残らない。
 これで、いい。これなら、大丈夫。
 あとはまた、日常に戻るだけ。
「心配、かけたかな」
 重たく感じた頭を少し横に傾げさせ、目の前で沈黙するバルサムの墓に笑いかけた。
 言葉は返ってこない。大丈夫、彼女は昇った。ここにはもういない。
 それは悲しくもあったけれど、嬉しくもあった。彼女には、心配をかけたくなかったから。
 目尻に残っていた余計な水分を袖で拭う。いつまでも雪の中でこうしてはいられない、生きている彼女の兄弟の所に行かなければならない。あの子たちに何かあったら、それこそ申し訳が立たない。
 切り替えなければならないのだろう。それも、出来るだけ早く。
 立ち上がろうとすると、膝が笑って倒れそうになった。
 片膝が雪に埋もれて、残りの身体は宙吊りになる。
「ブラック……?」
 後ろから抱えるように、その腕は伸びていた。
 嫌悪もなく、ただよく知った気配に顔を上げる。その瞬間に第一声が決まった。
「酷い顔だ」
 思った通りの事を素直に口にすると、ただでさえ酷いと感じたブラックの顔が更に歪む。しかし仕方ない、本当に酷い顔をしているのだから。
 泣きはらした瞼、やつれた気配、中途半端に開いた口、全身を覆っている倦怠感、艶のない髪、何か重いものを背負っているようにも見える身体。
 そこに居たのは凡そ誰かが知るシリウス・ブラックではなかった。しかし、そんなおれの考えなど知るはずもなく、憮然とした表情で奴は返す。
「お互い様だ」
 ……自覚はなくもなかったが、どうやら(やはりと言うべきか)おれも似たり寄ったりの酷い顔をしているらしい。鏡がないので確認しようもないが。
 ブラックはおれを抱えたまま項垂れ、何か諦めるように盛大すぎる溜息を吐き出しながら雪の上に勢いよく座り込んだ。
 当然のように、おれも引きずられて、しかも何故か、ブラックの腕の中にいた。
「あー……もういい」
 今度は長い、とても長い溜息を吐き出しながら、奴はおれの頭を体に押し付けて背中や後頭部を何度か軽く叩く。まるで、子供をあやすように。
 不覚にも、それが心地いいと感じている自分が、ここに居た。
「泣け」
 一言。
 まずそう言われる。
「取り合えず、お前は泣け」
 泣けと言われて誰が泣けるものか、そう思って血と泥に塗れた手でこの男から離れようとした。
「誰の為とかそんなんじゃない」
 思っていたよりもずっと強い力で、頭を押さえつけられる。
 肩に額が当たって、少し痛かった。耳元で、言葉を続けられた。
「泣きたいって思ったなら、素直に泣いとけ」
 抵抗していた腕が止まる。止めたいわけではない、むしろ離れたかったのに、腕が止まってしまった。指先から、また震えが甦る。
 それは、何と呼ぶべき感情だったのだろうか。
「そ、んな事、出来ない……」
 唇も咽喉も、また震えだす。
 閉じようとしても、口が勝手に動き出してしまった。
「出来ない、そんなっ……やりたくない、したくない。おれがそんな……っ!」
 感情に全てを委ねるなんて、そんな事をしてしまったら。
 何年か経って卒業して、また軟禁されたら、覚えた感情の全てがいつまでも心を蝕んでおれを殺して……きっとおれは、死んでしまう。
 そうだ、そうだった。忘れていた。だからおれは、人間と関わりあいたくなかった。
 人間としての自分を見つけてしまったら、人間に拠り所を見つけてしまったら、おれはいつか他人のいない世界で苦しみもがきながら息絶える。
 本当に孤独になってしまう。同属の居る世界から切り離される。人の中で孤独を感じ、自然の中ではそれを感じないなんて、そんなの嘘だ。自然の中での人間であるおれは異物だからそれは嘘。
「だって、怖い」
 人間が恐かった。人間としての自分が恐かった。人間と関わることで絶えず生まれる可能性に、それを奪われる事にずっと恐怖を覚えていた。
 幾千万の可能性の中でどんなに拠り所を見つけても、それは全て奪われる。どんなに抗っても、いずれは力尽きて地に伏すのだろう。
 初めて伸ばした手を払われた瞬間、おれの中で理想とされていた人間の像は脆く崩れた。大したものではないと思っていた、きっと人間は臆病で、力がなくて、迷っているだけで、だから長く生きていればそれが判って、少しだけ優しくなれる生き物ではないのかと信じていたかった。
 それまで、おれの唯一知る人間であったお祖母様は、本当はとても優しい方だと知っていたから。例え呪われていてもただ無関心だっただけで、捨てる事も傷つける事も本当に何もなく、ここまでおれを育ててくださって、外の世界を見せようとして下さった恩人だから。
 だから、お祖母様よりも長く生きている人間は、同じように優しいと、そう信じ込んでいた。
 けれど理想は理想でしかなくて、おれはあれ以来ずっと、人間に何かを求めることを拒んできた。失望したし傷ついた、何より辛かった。
 おれはおれの中に存在する人間を捨てたかった。
 出来ないとわかっていても、人間としての全てを捨てたかった。
 けれど、その弱々しい意思もやがて壊れ、今おれは……
「……なら、お前はいつ泣くんだよ」
 声と腕が、おれを抱き締める。ようやくかと、優しく責めているようにも聞こえた。
 今更になってやっと気付く。もしかしたら、全部が遅かったのかもしれない。しかし、きっと手遅れではないのだろう。
 だって、今おれは……他人に手を伸ばして、繋がっていた。それを確認して、理解した。
 それはルーピンだったり、スネイプだったり、お祖母様だったり、もしかしたらポッターや、そしてブラック、おれの周囲に存在する全てのものに対してだったのかもしれない。
 こんな簡単なこと、なんでもっと早くに気付けなかったのだろう。
 なんで、不安な未来ばかりに気を取られていたのだろう。
 おれは過去の十数年と今にしか、存在していないのに。
「泣きたいなら、ちゃんと泣けよ」
 その言葉で溢れた。
 涙や、声や、とにかく色々なものが、全部溢れた。
 多分これが、肉体が感情に支配されるということなのだろう。
 だって、思考だけはこんなに平静を保っていて、まるで火が付いたように泣いているおれに何をするわけでもなく、じっと内側から眺めていた。
 思えば、こうやって声を上げて泣くなんて事をしたこともなかった。
 理由も何もなく感情に任せて泣くとは、心地いいものだ。息継ぎをする度に体力が削られていくが、心がとても軽くなっていった。
 不安や恐怖は、ただ単純に「泣く」という行為の前では、なんの意味も持たない言葉でしかなくなっている。
 泣く事に呼吸が追いつかなくなって咽た。背中を擦られると、また声を張り上げるようにして泣き出す。そこには、声や感情を殺して泣くと言う苦しさが微塵もない。
 とても楽だった。全身から力が抜けて、座っている事も出来なくなっていた。それでも、腕や肩に支えられながらしばらく泣き続けていた。
 その間、ブラックはずっとおれの背を擦っていた。今更になって、少し気恥ずかしいと思う。
「なんか……言いたい事、色々あった気がするけど。全部忘れた」
 トン、と背中を軽く叩かれて、その手がおれの頭に置かれた。
 俯いたままブラックの体から気だるい体を離す。手は、まだ長いままの顔周りの髪と長い指が梳くように絡まって、すぐに解けた。
 互いに沈黙し合っていたけれど、やがてその空気に耐えられなくなったのか、大丈夫かと気遣いの言葉をかけられた。
「……」
?」
「……だるい」
「いや、そりゃお前。あれだけ泣けば疲れるだろうけどそうじゃなくて」
 重い頭と首を動かして何か言い続けているブラックを視界の、ほんの端に捕らえる。
 明後日の方向を向きながら、文句を垂れていた。
 おれの視線に気付いたのか、なにやらバツの悪そうな顔をして、赤い顔で今度は俯く。口からは、自棄のようにしか聞こえない唸り声みたいなものが絶えず出ていた。
 そのまましばらく経って、ようやく意を決したように、おれの双肩が勢いよく掴まれる。
 正直痛かったのだが、疲れていたのでそれを言うのも億劫だった。
 目の前にはブラックの顔。ただし、視線は逸らされている。
「あ、あのさ……ええと、」
「なんだ」
「と、取り合えず……友達、みたいなのにならないか? いや、友達とはちょっと違うかも知れないけど、知り合いよりは上というか、そんな感じのに……」
「……」
 どうしてそんな事を言うのに顔を赤くしたり、視線を外したり、どもったりするのだろうかと思ったが。とりあえず、勘違いされるといけないので怪訝な顔をするのは止した。
 しかし、どう返事をするべきなのだろうか。敵意を向けていない今のブラックを嫌だとは思わないから、頷けばいいのだろうか。何か違う気がする。
 それ以前に友人みたいなのとは一体何なのだろう。みたい、と言う事は知り合い以上友人未満という関係だろうか。
 あまり長く考えても仕方がないので、とにかく誤解されない返事をすべきなのだろう。
「よろしく」
 多分、この場に一番適していると思う言葉と一緒に、おれは傷だらけの手を差し出した。
 握手もどうなのかと思ったが、頷くだけよりはいいだろうと思う。意外そうな顔をしたブラックの表情が目に入る。そして、少し呆れたような顔で笑って手を取った。
「いや……こちらこそよろしく。シリウス・ブラックだ」
だ」
 互いによく知っている名前を名乗って、手を離して、おれも笑う。
 奪われる未来への怖れ。予想と違わぬ未来への恐れ。それは今も変わらない。
 でも、もしかしたら、本当にもしかしたら、思っているのとは別の未来があるかもしれない。
 全ては可能性の問題。ならばおれは、今を変えたい。未来ではなく、まず今を、生きてみたいと、そんなような結論に達した。自分でもよく判っていないが、とにかく、変えられない過去ばかりを見て、決められた未来に絶望して、どうしようもない今を過ごす、そんな生き方から変わってみようと思った。
 今から見れば、未来はいつまで経っても未来だから。頭の悪い言い訳じみた事を心の中で呟いて、まずは今を生きて、変えたり、変わったりしてみよう。
 ああ、けれど、その前に……
「済まない、ブラック」
「え?」
「限界、寝る」
「は!? お、おい!」
 寝不足なのか、体調不良なのか、座っていても平衡感覚が麻痺してきた体が倒れる。その先には、ブラックの体があった。
 何か言われたが理解できない。もう脳と肉体の限界のようだ。
 そしておれはこの腕を塞いでいた色々な切れ端を、意識諸共どこかに手放す。
 空になった手の平は、ずっと目の前にあった今という存在そのものを精一杯に掴んで、抱き締めた。