凍えた指先で
右の手の平を眺めながら呟く。
ハリーも、ルーピンも、ブラックも、そこに居る人間の全ての視線が集まった。
別に何があるわけでもないのにと笑うと、それぞれがそれぞれのタイミングで視線を逸らしていった。最後まで眺めていたハリーの髪を、その手が撫でる。
「……終わり?」
「そうだな。きっかけは、これで終わりだ」
少し不思議そうな顔をしている緑の視線に、苦笑してしまった。
「正直おれも、何故ブラックの態度が変わったのかは知らない」
「え、あ……うん。そっちはなんとなく、判るような気がするんだけど」
「そうか?」
ハリーの視線が、今度はブラックに注がれる。
それだけで何を伝えたいのか理解したのか、ブラックと、そしてルーピンが同時に咳払いした。
「さて、シリウスがを好きになったきっかけは、またの機会に話すとして」
口を開いたのはルーピンで、その手には冷め切った紅茶が入ったティーポットが握られている。
カップの中に入ってた紅茶も、杖の一振りで綺麗に消え去ってしまった。こんな事にまで魔法を使うなと言いたかったが、正直な話、おれも長話でかなり疲れたのでそんな気力がなかった。
「紅茶が冷めてしまったね。ハリー、新しいのを淹れるから手伝ってくれないかい?」
「あ、うん!」
「ルーピン、淹れなおすのなら中央の戸棚の奥にあるものを淹れて欲しい」
「が銘柄を指定するなんて珍しいね」
何気なく言われたその言葉には答えず、おれはソファに深く沈んで目を閉じた。ブラックも流石に長々と語られた昔話が堪えたようで、顔にうっすらと疲労の色が浮かんでいる。
立ち上がりながらおれとブラックを見比べたハリーを引き連れ、ルーピンはキッチンの方へと消えていった。後にはおれたち二人と、沈黙だけが残る。
「記憶、全部取り戻したんだな……」
「ああ」
あの時、あの男に、全部解かれた。そこまで言う必要もなく、ブラックは首を縦に振った。
「……呪いって、そういう事だったんだな」
ぽつりと呟かれた言葉に、ああそう言えば、ブラックは知らなかったんだな。と、過去の記憶に浸ったまま考えた。
目を閉じたまま、視線もなにも合わさずに、疲れているだろうブラックに対しても迷惑だし誤解を生みかねないので、嫌な感情を出来るだけ殺した平坦な声で、返す。
「ブラックは訊かなかっただろう」
「……だって、きっと訊いても答えなかっただろ?」
ブラックも平坦な声で、訊く気もなかったけどと続ける。
腹の内を探り合うわけでもないのに、どこか緊張した空気が間を流れた。
「でも、おれも結局……お前の消された記憶に関して、何も言えずにいた」
少し、後悔の色を滲ませた声色の後、再び沈黙が降りた。
ブラックのその台詞には、恐ろしい可能性があった。こんな未来もありえたんだという、今となっては意味もない、けれど戦慄させられるような可能性。
「……もしも。」
眩しい暗闇の中で、重い言葉を放つ。
「もしも、ブラックが……あいつに消された記憶の事を話して、おれが過去を取り戻していたら」
視界を更に手で覆う。ほぼ、完全な闇が訪れた。
「きっとおれが、この手でハリーを殺していた。あの陣営の中で……それこそ、何の疑いもなく」
「……」
こんな事を話したかったわけではないのに、どうもおれはまた……過去と、在りもしない可能性だけの未来に囚われているようだった。
話題を変えたいと思って、大きく長い溜息をつく。何故か謝られた。
「なんか変な方向持って行っちまって」
「謝るな、持って行ったのはおれだ」
今のブラックがどんな表情をしているのか想像がついてしまって、手を退ける事も目を開けることも出来なかった。
おれもブラックも耐えられなくなり、無理矢理、いっそ奇妙な程強引に話題を元に戻す。
「おれの呪いはどうしようもない、大体、今更大した事ではないだろう」
長いソファの軋む音がして、手を退けて目を開ける。
隣には複雑な表情をしたブラックが座っていた。
「いや、今聞いても相当、重いと思うぞ」
「気のせいだ」
「そうは思えないんだけど」
困惑した声で結構無茶言うよな、と天井に話しかけるブラックに対して、おれは無言でいる。
またしばらく互いに黙っていると、キッチンの薬缶がお湯が沸いたことを知らせていた。
「本当に、今となっては、どうでもいいものなんだ」
いつの間にかおれを見ていたブラックに視線を合わせ、続けた。
「今は、おれの周囲に誰かがいてくれる。それだけで、どうでもよくなるような呪いだ」
その言葉に嘘や偽りなんてない。
本当に、呪いなんて、もういいと思っている。
甲高い蒸気の音が止んでから、ブラックの口が開かれた。
「お前は今まで、絶対に呪いについては喋らなかったからな……」
「そう、だな。どうして……今更になって、どうしてこんな事を話すのかと、普通は思うよな」
そう言って、今の台詞を誤魔化すように苦笑する。
もう一度手の平を眺めながら、この体に流れる血について、思っていたことを口に、そして言葉に。形にしていく。
「呪いに抗う能力のないおれには、どうしようも出来ない事だ。受け入れるしかないと悟ったし、流石にこの歳では反抗できる気力も体力もなくなっている」
力がない等どの口が言うんだという非難めいた視線を無視して、今度はおれが天井を仰ぐ。
「……いいのか?本当に」
「構わない。別の道を見つけた」
それが何かは言わず、上を向いていた視線をまた戻す。
「言っただろう、お前たちが傍に居てくれる。それだけで、おれは今がとても幸せなんだ」
泣きそうになったおれの視界を、ブラックの手の平が被った。
ブラックも、泣きそうな顔をしていた。
「そんな小さい幸せ噛み締めやがって……おれも、お前も、どうしようもない」
「まったくだ」
薄い暗闇の中でその指先が涙に濡れる。目は見えないけれどきっと、ブラックも同じように泣いているのだろう。
聞こえてきた声が、微かだけれど震えていたから。
「でも、幸せなんだよ。一緒に居る、こんな平凡な事が凄く幸せなんだ」
「ああ」
「本当に、どうしようもなく、幸せなんだ……」
「……ああ、まったくだ」
ソファに並んだままそうしていると、爪紅の紅茶を持ってハリーとルーピンがやってくる。
その背後で、目を覚ましたジュニアが二階から降りてくる音がした。
ブラックの手が顔から退けられる。リーチの短い脚がかなり速い間隔で歩いている音が聞こえた。
視線を少しずらすと庭には沢山の鳳仙花が咲いていて、それを眺めていると寝ぼけ眼でパジャマ姿のジュニアが膝の上によじ登ってきた。
涙目のままで苦笑していると背後からハリーに抱きつかれ、最後に到着したルーピンが穏やかな笑顔で五人分の紅茶を用意する。
どこまでもどこまでも、絵に描いたように平凡でありふれた、けれどとても幸せな生活。
望んでいた優しい時間を与えてくれる住人。いつだって傍に居てくれる彼等に心から感謝をして、おれは泣きながら笑った。