凍えた指先で
病み上がりの所為か、体がいつもよりも随分重い。意識がまだ翳む。
雪に躓いて転びそうになった。横から伸ばされた腕がおれの体を支える。確認するまでもない、その腕は隣を歩いている男のものだった。
「離せ」
「今、手を離したら君と彼女の遺体は重力に従って雪に前半身埋もれることになるよ?」
上から降ってくる声に抗おうとするが、思ったように体に力が入らない。そうしているうちに体を起こされて、雪の中に真っすぐ立たされる。
「お墓作り終わったら、休んだほうがいいね」
「……」
おれはとても嫌そうな顔をしただろう。
しかし、何故だかポッターはそれを見て笑った。理由は全く見当が付かない。
「別に医務室に行けとか言ってるわけじゃないよ、ただ言葉通り少し身体を休めたほうがいいって言ってるだけで」
大体君は医務室嫌いだろ? と屈託なく笑い続ける隣の男にどう返せばいいのか考え、何も思い浮かばなかったので黙って歩き出すことにした。
まだ姿は見えないが、前方に知った気配がある。
ふと、ある事に気付いたので、視線を上げてポッターを見てみた。それに気付いたようで、ポッターはまた子供のように笑った。
「どうしたの?」
まるで迷子の子供を見つけたときのような笑い方。
分厚い手袋に覆われた手の平が、おれの髪と頭を撫でた。その手を払いのけることもなく、と言うよりも、払いのける気力も起きず、おれは思ってみたことを口にした。
「『おはよう』。さっき、返すのを忘れていた」
手が止まり、奴の目が点になる。どうも、おれは何か変な事を言ったらしい。しかし、何が変なのだろうか。挨拶をされたら、挨拶を返すのが礼儀だと思う。
確かに、返すのが大分遅いというのは問題ではあるが。
互いにしばらくの間黙っていると、何故か、唐突にポッターが吹き出した。腹を抱え、おれを支えにしなければならない程笑っている。
本当に、ポッターはよく笑う奴だと思う。特に今日は。
何がこの男をそうさせるのだろうか、その思考に沈む前に顔が上がる。
「。君、実は面白い人間なのかもね」
「……よく判らない」
穏やかな口調でポッターが質問する。
「リーマスやスネイプに何か言われない?」
そんな事を答える義理などないだろうと思ったが、一度思考を沈黙させて、咽喉に行きそうになったその言葉を隅に追いやり考えを改めてみる。
正直に言うと、おれは別にポッターが嫌いな訳ではない。ただ苦手なだけだ。それに、こうして話し掛けられるのは不快ではない。割と、普通に会話出来ている……と、思う。
少し、この男と他愛のない話をしてみようかと思った。何がおれの考えをそうさせたのかは判らない、ただの気紛れなのかもしれない。
「ルーピンは、天然だと言ってよく笑う。スネイプには、性質が悪いとよく叱られる」
そう告げるとああ、とだけ返された。
それがどちらに対しての賛成意見なのか、あるいは両方そうなのかもしれないし、ただの気のない返事かもしれないが、おれには結局理解出来なかった。
大体おれ自身の何が天然なのかもよく判らない。何か突拍子のない事を言っているのだろうが、それは一体何なのだろうか。おれとしては至極当然の事を言っているまでなのだが。
「だから天然で性質が悪いんだよ。ぼくとしては面白いと言いたい所だけどね」
おそらくおれの表情から思考を読んだポッターがそう言って、軽く肩を叩いた。
「さてと、道案内はここまで。この先にシリウスの奴が……あれ?」
指で示された先を見ると、確かに雪かきをされ黒い土が剥き出した場所が見える。相当な広さで、人一人がならすにはきっと相当な時間が掛かったに違いない。
しかも傍らにはシャベルとスコップが一つずつ転がっていた。全て、魔法を使わずに手でやったらしい。おれならまだしも、純粋な魔法族のはずのブラックが手作業でやったのなら、相当苦労をしたはずだ。その厚意に対して感謝すべきなのだろう。
「あいつ、いないなあ。しかも道具放り出したままだし」
「居るだろう」
ブラックの姿を探すポッターに、おれは背後から指で教える事にした。
手袋に覆われ不恰好な形をした指先は、木と木の間を潜り、ここからでは視界に捕らえられない場所を指している。
首と上半身を真横に曲げて、おれの指した方向を凝視するヘーゼル色の瞳。腕を下ろすと同時に奴の視界にも黒い塊が入ったようで、何故かおれに向かって「凍死してたらどうする」と、これも何故か非常に嬉しそうに問いかけてきた。
このような場合、おれよりもポッターの方が理解不能の部分が多いと思われる。
尤も、親友や血の繋がらない双子と称されている二人の場合、この程度の言葉は侮辱でもなんでもなく、ただの挨拶と変わりないものなのだろうけれど。ただ、その辺りはあくまでおれの予想だ。
「とりあえず遺体を遺族に渡すべきだろう。この季節は空気が乾燥していて寒いから死体の腐敗が常温時に比べて遅くなり、運ぶこちらとしては幾分か助かる」
「成程、確かにそうだ。でも君の面白恐いところはそれを素で言ってるってところだよね。取りあえずあの黒いのの生死の確認だけでもしておこうか」
何か一文字増えた気がするが、それに対して言及する前にポッターは雪の上を跳ねるように駆け出していた。おれは歩いてその真新しい足跡を追う。
目の前の二人の男は、片方は立ったまま、もう片方は俯いて座ったまま、何事か会話をしておれの方を見た。ブラックの瞳は何故か虚ろで、おれを視界にいれるとすぐにまた俯いた。
ポッターが手招きをするから、という訳ではないが、おれは二人の方へと歩いていき、未だ雪の上に座り続けているブラックの目の前までやってくる。
俯いていたが何故か判った。ブラックの顔色が優れない、病気ではなく精神的な要素で身体を崩している様子だった。唇は青白い、身体が冷え切っているようで、心が震えていた。
何事か言いたそうに口を開閉させるが、舌が動くのを拒んでいる様子に見える。
「……ごめん」
俯いたまま、やっと紡がれた言葉。それは、何故かおれに向けられたものだった。
「……ごめん」
顔を上げてから、二言目はバルサムに向けられた言葉。けれど、そう言えば、彼女の姿がどこにも見当たらない。
何も言わずに、彼女は上へ逝ってしまったのだろうか。迷わなければいいのだが、この世界に未練がないのなら、きっと彼女も無事に成仏できるはずだけれど。
「おれ、何も出来なかった」
また俯いてしまったブラックに、おれが声をかける事はなかった。
かけるべき言葉が見つからなかったと言うのものあるが、何よりも、ブラックが何に対して謝っているのかが理解できずに居た。
涙を流すほど悔いているのは、確かにバルサムの事もあるのかもしれない。しかしどうもおれには、それ以外に何かあるように思えて仕方なかった。
泣くなんてみっともない、と嘆く演技をするポッターを横目で見て、おれはブラックの頭に腕を伸ばす。その仕草に過度に反応し跳ねる肩を見て、胸が締め付けられた。
ブラックは何かに、怯えている。
「大丈夫だ」
頭部に触れると、途方に暮れた子供の表情でブラックが顔を上げる。
何かを告げたそうに唇と咽喉が動いている。けれど、それは決して言葉になる事はない。おれにはそれを悟ることが出来た。ブラックは自分自身の制約に縛られている、何かに葛藤しているんだ。
目を瞑り、歯を食いしばり、拳を震わせるブラックに対し、もう一度同じ言葉を告げる。ポッターが横から意外そうな目で見ているが、ここは人間の気配が薄いし、害意さえ向けられなければおれだってこの程度なら、人間と接することが出来る。慰める事も、出来ないでもない。
第一、幾ら険悪な仲とはいえ、こうも弱った人間を更に突き放したり、無視したり出来るほど、おれはまだ精神的に大人ではない。
「お前は、責められるような事をしてはいない」
誰からとは言わない。そこまでは、おれも判らない。しかし少なくとも、おれはブラックを責めていない。その事だけは、多分判ってもらえただろう。
ここから先はブラック自身の心の問題だ、おれが踏み込める領域ではない。
それに、そこまでする義理もない。おれもこいつもガキだが、誰かがいなければ何も出来ない赤子ではない。それなりに自分の考えを持ってはいるし、自由に動かせる手足や口がある。
ブラックの頭部から手が離れる。おれは踵を返し、ポッターも一拍置いておれに続いた。
「『ありがとう』。彼女の代わりに礼を言う」
背を向けて告げる。二三歩進むと、視界の外で雪が大きく軋んだように鳴った。
振り返る必要はない。背後で立ち上がったブラックはおれたちの横を早足で通り過ぎ、転がっていたシャベルを掴んで土を掘り返し始めた。
ポッターは軽く首を傾げ、足元に転がっていたスコップを拾い上げる。
「はちょっと待ってなよ。そんな身体に無理はさせたくない……っていうのがシリウスの心の内の代弁で、ぼくの本音。それに穴を掘る道具は二つしかないし、あと、間違っても素手で掘るなんて事はしないように」
ポッターがそう言うと、ブラックはおれたちとは反対方向を見る。機嫌を損ねたのだろうか、それでも穴を掘る作業を止めようとはしなかった。
そんな様子に肩を竦めながらも、ポッターもブラックの元に行って穴の形を整え始める。
無言で居続ける二人をしばらくの間眺め、やがて視線を外した。
その先で捕らえたのは、不規則に詰まれた石の山。多分、雪かきをした後に、この辺りの石も取り除いてくれたのだろう。
平らな石を幾つか選んで、墓穴のすぐ隣にまで持っていく。何回か往復すると満足いく量が小さな山になって固まっていた。
そうしているうちに墓穴の準備も整い、幾分か余裕のある表情を浮かべて見せたポッターが何をしているのかと話しかけてきた。
「……墓標を」
それだけ告げると奴も納得し、同時に表情が悲しみに崩れる。
その後ろで、ブラックは何かに耐えるようにひたすら無言を貫いていた。
「いいぞ」
シャベルを横に置き暗い表情のままで、準備が出来た事を告げる。おれは彼女の遺体を片手で抱えたまま、手袋を口で外していった。
下から現れたのは、大げさなくらい包帯が巻かれた手の平と指先。両手でバルサムの遺体に触れると、その場所が酷く痛んだ気がした。
墓穴の前に膝を付くと、背後に二人の気配が移動してきた。胸に手を当てて、黙祷を捧げている。
「おやすみ、バルサム」
指先が、白い布を一度撫でる。
微動だにするはずもない彼女の遺体を深く小さな墓穴に収め、ゆっくりと目を閉じた。
彼女の霊はもう見えない、けれど、これで約束を果たすことが出来る。もう一度、心の中でおやすみと呟き、おれは目を開ける。
心の隅に残っていたバルサムの面影が瞼に焼きつき、そして光のように溶けていった。
懐にしまってある短刀を取る。後ろの髪を束ねるようにして掴み、長かった髪を切り落とした。背後から驚いた声が上がる。
黒い墓穴の白い布の上に、烏色の髪が広がる。
血曇も銘もない短刀の刃を鞘に戻して、それも同じように入れた。
「手向けだ」
おれには彼女に手向ける花も、歌も、物もない。今持って、そして捧げられるのは、長い間大切にしてきたこの髪くらいだった。
それに、髪はまた伸びる。
また、同じような長さになれば、おれは忘れかけたバルサムを思い出せるだろう。髪を切ろうとする度にも、もしかしたら思い出すのかもしれない。
彼女を忘れないこと、心に留めておくことが、おれに出来る唯一の事。
「……埋めよう」
誰にでもなく、あるいはポッターにもブラックにも、おれは言う。
柔らかい土を被せていくと、徐々に彼女の姿が見えなくなって行った。彼女の霊はもう見えないけれど、きっとバルサムは……少なくとも悲しんではいないと思う。
やがて、小さな土の山が出来る。おれは石を持ち、一つずつ丁寧に積み上げて行った。
かちゃ、かちゃ、と冷たい音を立てながら平たい石が段のように重なり、一番上に少し丸みを帯びた石をゆっくりと置く。
「無実の女神に安らかな夢を」
胸の前で手を合わせ、彼女の冥福を祈った。
随分長い間そうしていると、おれの中のバルサムも高くに昇っていく。
「……もう、逝った」
手を合わせたまま振り向かずに、そう告げる。
ポッターは泣きそうな顔をして笑い返し、とても小さな声で「よかった」と呟くのが聞いて取れた。声が少し震えていて、顔を上げることが出来ないでいる。
ブラックは、未だに祈っていた。きっと彼の中のバルサムは、まだ昇っていない。そう思うと、少し辛かった。何か言うべきなのかもしれないけれど、結局おれはまた、何を言うべきか掴めなかった。
それでも、やがて顔は上げられる。
「……じゃあな」
精一杯、震えを押し殺して振り絞ったような声。
顔も合わせようとせず、ブラックはそのままおれに背を向けて歩き出した。
残されたおれたちは互いに何も言わず、ポッターが静かに置いていかれた道具たちを片付け始める。とは言っても、シャベルとスコップが一つずつだけだったけれど。
「……彼は、」
「判っている」
ブラックのフォローをしようとしたポッターに、先におれが返す。丁度よかった、一人になりたかった。独りで、考えたい事があった。
墓を見つめたまま動かない、そんなおれの背中を見つめていた視線が逸らされた。
「ぼくも、行くよ」
「……ああ」
「身体に無理、させちゃ駄目だからね」
「ああ」
合わせていた手の平が、離れる。
それでも振り向かないおれに対してそれ以上声はかけられず、雪を踏む音だけが早くも遅くもなく遠ざかっていった。
バルサムの墓は静かで、何の言葉も返ってこない。本当に、もういないのだと理解した途端、胸が苦しくなった。口許と表情が、その感情に歪む。
「雪が……解けて、春になったら、爪紅の種を、持ってくる」
そうしたら、ちゃんと、約束を果たせるからと、言って震える唇。熱を持った掠れた声、今まで我慢してきたものが溢れ出して来る。
夏には、沢山の艶やかな花を咲かせる花。その実が彼女と似ていて、そう名前を付けた。酷い名前だと、でも楽しそうに笑われた。
だってバルサムはいつも触れようとすれば避けて、一人でいることが多かった。寂しいのかと訊いても何も言わずに、たまにノリスとだけ会話をしていた。
無理矢理スキンシップを図ろうとすると呆れられ、そうしているうちに打ち解けていった。どこか、自分自身こうして欲しかったという願望が、彼女相手に現れていたのかもしれない。
感覚がなくなってきた手に息を吐き、傷が切れて血の滲んだ指先に舌を這わせる。唇が土で汚れて、泥と鉄の味がした。
寂しいと感じた。その感情が、同じ淋しさを思い出させようとしている……気がした。
「……わたしに触れないで下さい」
それが、爪紅の花言葉。熟れた実に触れれば、たちまち弾けてしまう。
まだ幼い頃、庭に咲いていたそれを知らずに触れた小さな手は震え、シャボン玉を掴まえようとして壊してしまった嘆きが甦った事を思い出す。
けれどそこに、違和感を感じた。
泣きそうになりながら、高くに手を伸ばした思い出がある。陽光を遮る大きな影と温かい手が、子供を包んでくれた。
そして笑ってくれた。逆光がかかっていて、そこから先は思い出せない。あとは、白。
これは脳が作り出した妄想だろうか、それとも現実か……現実だとしたら、なぜここまで記憶がないのだろうか。その前後もなにもない、唐突に思い出は始まって途切れている。
色々な感情が胸の奥から湧き上がる。けれど何一つ、確かなものなんてない。答えに辿りつく前に、全てが灰色から白に染まっていく。思考が散乱して纏まらない。
何かが思い出せない。何か忘れている気がする、思考の断片が噛みあわない……けれど。
底知れない淵を覗き込んでいるようで、その先を考えるがとても恐ろしく感じた。今、おれはたった一人だ。孤独が、怖い。汚れた白い心に暗い孔が内側から開く。
それは、過去の夢。
記憶の深淵に沈んでいる微かな夢。
誰かと、繋いでいた手がとても暖かかった。
その暖かさをもう一度確かめたくて、冷えた自らの指を組み、両の手を合わせてみた。
けれどそれで得たものは、感覚の麻痺した指先から伝わる凍えきった自分の手と、冷えきった心だけだった。
「 Please riddle my mind 」
おれは、泣いていた。