曖昧トルマリン

graytourmaline

凍えた指先で

 名前を呼ばれた気がして、それが変に頭の芯に響いた。
 意識が浮上してぼんやりとそんな事を考える。体が重くだるい、頭の先から足の爪先まで、全身が熱を持っているようだった。
 目を開けようとする。瞼に力が入らず断念した。肺の中の空気を空っぽにするほど息を吐く、口で息を吸うと咽喉が焼けるような感覚。
 魔法薬と消毒液の匂いが乾いた咽喉を刺激する。咳き込みながら、ここは医務室だという事だけが判明した。
 もう一度目を開けようとする。今度は、とてもゆっくりだが、それでも視界が開けた。
 見慣れた天井に見慣れた壁。小さな部屋に簡易ベッドとサイドテーブルが一台ずつ、奥に扉があってその先はシャワールーム。
 いつもの隔離された病室。薬に対する拒絶反応が激しいこの体が一般の生徒と同じ治療では逆に悪化してしまう故に儲けられた場所。
 別に良質の力が溜まっている訳でも、治癒力を増強させる陣を張っている訳でもない。本当に、隔離の為だけに儲けられた場所。
 だから、扉越しのすぐ隣の部屋には普通に医務室がある。
 それでも、随分マシになったほうだ。部屋が、ではなくおれの体が。
 以前は何の変哲もないはずの消毒液も、おれの皮膚には合わなかったのか、赤く腫れ変質して、火傷のように爛れた。今なら、拒絶反応として皮膚が硬く変質するくらいだ。
「毒に、慣らされている気分……」
 誰にでもなく呟くと、どこからか返事が返ってきた。
「……バルサム」
 サイドテーブルの上に、白い布で包まれた遺体がある。バルサムはその前で、おれの目覚めを待っていたらしい。
「墓を、作らなくてはな……」
 自分で言って、また泣きそうになった。
 このような死は、初めてだった。幼い頃からずっと、生き物の死体を見かけては一人で埋葬をしてきたけれど、こんな事は今まで一度もなかった。
 死体は鳥であったり蛇であったり狐であったり、あるいは猫であったりした。腕に抱えた死体はどれも変わらず、とても重かった。けれど彼女の死体は、それよりももっと重い。
 何かを育てるという事は、少なくとも家畜以外の動物に関してはしたことが無かった。生物は屋敷の中に当たり前のようにいて、当たり前のように狩ったり狩られたり、食べたり食べられたりしていたのだ。おれ自身もその連鎖の中に含まれていて、冬眠開けの熊なんかに狩られそうにもなった。
 しかしそれらの為に墓を作ったことはない。墓を作ってきたのは、それ以外で、例えば電線に引っかかったり、自然界にない何か妙な物を食べたり、奇病を患っていたりして死んだ者たちの為だ。
 バルサムは、そのどれにも当てはまらない。おれが育てると誓って、そして不注意から殺してしまったのだ。
 親殺し子殺し、そんな単語が頭を過ぎった。
「いずれはおれも……か」
 困惑した瞳で見上げてくるバルサムに曖昧に笑いかける。彼女は逝く、今更おれの過去を知る必要なんてない。思考を断ち切った。
 生前と変わらない姿をしているバルサムの魂が、おれの肩に乗る。それが羽毛よりももっと軽いのは、どんな種族でも変わらない。
「行こうか」
 そう言って、おれは病室のドアに背を向けた。ここに来る度に隙を見て脱走しているので、どうせ誰かが見張っているのだろう。ルーピンの気配が感じ取れたが、眠っているようだ。
 生地の厚いカーテンを開けると、地面も木の頭も森も全部が白かった。積もった雪は多分浅いところでも脛くらいの高さはあると思う。
 窓を開けると冷たい空気が部屋を満たした。大きく深呼吸すると、咽喉に痛みが走って咽る。肩のバルサムが呆れたような表情で見上げてきたので、また笑って返してみた。
 窓枠に手をかけて、勢い良く外に飛び降りる。転がりながら着地すると靴の中の指が痛んだが、それほど気にしない。
 遅れてきたバルサムが宙を漂いながら、しばらくして、やはりおれの肩の上に体を休めた。
 振り返ると、新雪の上に足跡と脚を動かした跡が残っていく。そして医務室の窓とカーテンを閉めていないことに気付いて、魔法を使って開けっ放しのそこを閉めた。
 ここには、不気味な程に誰もいない。
 気に留めなかったわけではないが、おれは森へ入る。世界が豹変した。
 視界には裸の木が立ち並び、白に隠れて土の匂いがした。雪が足音を殺し、純粋な気配だけがあちらこちらにを移動している。
 足元に肉球のない足跡。多分うさぎのものが城の方へと続いていた。
 過去を思い出し、少し可笑しくなって空を見上げると幹の向こうに曇天が映った。
「……?」
 それはバルサムと同時だった。
 背後から複数の人間の気配がして振り返る。けれど誰もいない……が、
「取りあえず、ポッター。そこに居るのは判っている」
 かなり遠くの方で、それでも他に雑音がない為、普通の声量でもそこまでおれの声は届いたはずだ。それでも何の返答もなかった。
「ポッター、いい加減にしろ」
 二度目の呼びかけ。返答はない。
 おれは仏ではないのでここ杖を構えると、途端に黒い人間が太い木の幹の裏側から飛び出してくる。
 いつもと変わらない笑みを浮かべた顔、けれど、その表情がいつもと違う気がした。
「やあ。おはよう、
「……」
 そして、挨拶をされた。ここまでは、それほど珍しい事ではない。いや、珍しいか。
 しかし初めて、ポッターから名前を呼ばれた事には正直驚いた。杖を下げると、人懐っこい笑み、例えばルーピンがよくする表情、そんなものを浮かべてこちらに走ってきた。
「ゴメンゴメン、今までの癖が抜けなくてね。君に見つかるとどうしても隠れちゃうんだ」
「……」
 何しに来た誰だ貴様、と全力で問いかる事を押し留めたのを誰でもいいから褒めて欲しい。
 性質の悪いイタズラの延長線かと思ったがどうやらそうでもない、妙な薬(例えばルーピンの自作薬)を服用したかとも考えたがこの男はそんなに間抜けではない。誰かに呪いをかけられた気配もなければ、頭を打ったようにも見えない。
 演技ではない。本心からの行動と理解出来るからこそ、おれは目の前のポッター相手にどう反応するべきか迷っていた。
「驚かせちゃったかな。いや、普通驚くよね。昨日までと全然違う接し方されたら」
 苦笑いしていた視線が、おれの腕の中で固まる。無言でおれの前まで歩いて来た。
 瞳には悲哀と懺悔の色が滲んで、ややあって口を開いた。
「彼女には、すまない事をした。謝っても謝りきれない」
「……バルサムは、」
「誰も責めていないんだろ? でも、そういう問題じゃないんだ。少なくとも、ぼくの中では」
「自責、か?」
 言葉を遮り言うと、ポッターの指がバルサムの死体に伸びて撫で上げる。
「君と同じようにね」
「おれは……」
「それでも、同じ過ちを繰り返さないように、前を見て歩き出すんだろう? それが彼女の、君への願いだから」
 視線が上がる。責めるような、同情するような、哀れむような、けれど、決してそれだけではない視線。
「君の意思は誰かの願いから生まれる……例えばリーマスやスネイプ、人間じゃないものもある。君自身の願いもカウントしていいかな。それは賛否に分かれる思考回路で、ぼく個人としては少々理解し難いから賛同しかねる。けれどそれは、とても君らしいとも思う」
 続いたのは穏やかな笑み。おれは顔を逸らす。
「お墓、作るんだってね。手伝わせて欲しいんだ」
 ポッターは一度真上を見上げて、何も居ないその場所をしばらく眺めてから肩を竦める。
 おれが背後を振り返り溜息を付いた。
「シリウスが、言い始めたんだけどね」
「そうか……」
「だから、向こうでずっと雪かきしてる」
「……雪かき?」
「『それぐらいしかできない』からだって。吹雪が止んでからずっと雪かきしてる」
 それを聞くと、バルサムはおれの肩を降りて遠くの方にある気配に向かって走って行ってしまった。思わずそちらに視線を送るが、ポッターは何も言わずにもう一度空を仰いでいる。
 こんな時、どんな言葉をかければいいのかが判らない。
「案内を買って出たんだ。それに、君に話しておきたいこともあったから」
 無言で、また雪の中を進み始めようとすると、ポッターに止められ魔法で防寒具を着せられた。マフラーにコート、手袋。
 脱ぎ捨てようかと思ったが、マフラーに手をかけると同時に今度はポッターが先に歩き出してしまう。呼び止めたが止まらなかったので、仕方なく追うことにした。
 今までのものと違い肌触りが良い。背中でポッターが笑う。少し癪に障った。
「ごめん、君の警戒心があんまりにも薄かったから」
「今のお前が違和感が無さ過ぎて気持ち悪いからだ」
 今度は振り向いて目を丸くされた。
 今日のポッターは表情の変化が激しい、忙しい奴だ。
「話したいことは正にそれなんだよ。ね、今までのぼくに、違和感を感じた事ってある?」
「……」
「お願い、大切なことなんだ。はぼくが普通じゃなかったって事を知ってたの?」
 真摯な瞳、冗談を言っている態度でもないし、敵意もない。
 おれは考える仕草をして足を速めポッターの隣に来る。ポッターもひたすら歩き続けていた。
 違和感はあるにはあったのかもしれない。しかし、これは違和感と呼ぶべきことなのだろうか。確かにある時期を挟んで、ポッターのおれに対する態度は少し違っていた気がする。
「なんとなく。しかし、その原因は例の乱闘ではないのか?」
 視線を合わせずに告げる。
 秋の始めにしでかした乱闘を境に、ポッターの態度が少し違っていた。それには気付いていたが、むしろ態度が違う方が普通の人間なのではないのかと思った。
 しかし、この口振りからするともっと別の何かがあるようだ。
 ……頭の隅に、何か引っかかった。これは一体何だ?
「いや、それは違うよ。ぼくは殴られたくらいじゃ価値観を変えることはできない男だ」
「殴るというより、重傷にしたがな。しかしならば、何が原因なんだ?」
「それは自分に対しての問いだね」
 断定の形でポッターが言う。無意識に、おれは首を縦に振った。
「……君は、それに気付くべきだと思うかい?」
「気付いた所で何も変わらないのなら、気付いた方がいい」
 知らないよりも、知っていたほうがいい。それだけのことだ。
 隣の男の気配が笑った。おれは目を合わせない。
「知らないよりも、知っていたほうがいい。それだけのことだね」
 考えていたことと同じ事をポッターが言う。
「けれど、それだけで収まらない事が稀にある。今回はそのケース、かもしれない」
「……知らないままの方がいいのか、絶対に知っておいたほうがいいのか、どちらだ」
「少なくとも、ぼくは『知っておきたい』し『覚えておきたい』……」
 顎を摘んで首を傾げた。
 どうやら言葉を捜しているらしい。少しして、それを探り当てたのか目線がおれの方に向いた。それでもおれは視線を合わせようとしない。
「いいや、正確には『忘れたくない』そして『思い出して欲しい』だ」
 その言葉に、一本の線が引かれた。
 見向きもしない、残り滓のような点と点が、この瞬間に繋がったのを感じた。
 腕の中の死体を抱く。記憶を辿るまいと思考を切断しようとしても、記憶の残骸があらゆる所で集合して大きくなっていく。
 何かが喉元まで出かかった。
「楽しかった記憶を消されるのは、とても辛いことだ。そして相手への好意を忘れさせられるのは、とても気分が悪くなる……何度だって、何十度だって、それは変化しない気持ち。怖くて、悲しい」
「……!」
 鍵が、開いた。
 未来から来た少年、ポッター家の子孫。そして彼に関わったその記憶。
「思い出せたみたいだね?」
 思わず足が止まり、エメラルドではなくハシバミの視線が覗き込んできた。
 頷きそうになって思いとどまる。それだけではない、他にもまだ何か、おれの内側には鍵がかかっている存在が認識できた。
「ぼくは君の事が好きだった。でも彼の記憶と一緒にその想いまで消されてしまったみたいなんだ、だから、ぼくは君がとても苦手だった。訳が判らなかったから、今までぼくを突き動かしてきたものは本当の自分の気持ちじゃなかったから」
 ポッターの言っているものは、それだけだ。
 おれが他に違和感を感じ、鍵をかけられている記憶ではない。では、この蓋の閉じているものは一体いつの記憶なんだ?
「ごめんね、本当はこんな時に不謹慎だとは思った。けど、今じゃないといけないんだ。これより後じゃもう駄目なんだよ」
 肩を叩かれる。顔を上げると視線が合った。
「そうだよね、
 含みのある言い方、瞳の奥には悲哀がある。近くで雪が泣いた。
 これから何が起ころうとしているのか、理解できているのだろう。それはきっと、ポッターがこの記憶を取り戻した瞬間から起こるべくして起こる結果なのかもしれない。
 けれどそれは全て、他人と世界の都合。自らを構成する個としての意志を蔑ろにした、その存在に嫌悪すら覚える術の一つ。
 忘却呪文。
「……いるんですよね。ダンブルドア校長」
 風が舞って雪が滑る。ポッターがゆっくりと振り返り、おれは、振り返らない。振り返れない……振り返りたくも、ない。
 氷の結晶を溶かして刻む音。知った気配が背後から近づいて来て……止まった。
「ねえ、
 諦めたようなポッターの声。吐き出された息が空に消える。
 着せられたコートの裾を捕まれた。とても強く、跡が残るんじゃないかと思うくらい強く捕まれて、指先が微かに震えていた。
 そこから感じ取れる想いを、静かに受け止める。
 今から、また、記憶を消される恐怖。思い出を忘れてしまう悲しみ。他の者に過去を蹂躙される憤り。そんなものが一緒くたになって、伝わってきた。
「このまま逃げられたら、どんなによかったかな」
 背後で杖が上げられた。おれは乾いた目を閉じる。
「もうぼくは、ぼく自身の意志に反してまで君を拒絶したくないのに……」
 隣に佇む泣きそうな声、視界の端で光が溢れた。願うような榛の視線が頬を掠める。
 おれの後方へ傾いていく体。倒れる前に腕を差し出して、体全体で倒れるのを防いだ。辛うじて立っていられた意識のない体は、思ったよりも重い。
 片手では支えきれなくなり、膝から崩れ落ちる体。震えていた手がバルサムの遺体に触れ、その下の袖口の銀色の釦を引き千切って持っていった。
 意識が無くなり、座り込んでしまったポッターに、何故か酷く胸が軋んだ。
「……おれは、人間が嫌いだ。お前みたいな人間が嫌いだ」
 カチリカチリと左回りの時計が啼く。
 閉ざされた扉が開く音がした。
「必要じゃったから、それに他ならない。それはあってはならん記憶なのじゃ」
「そうやって魔法使いたちは自分に都合の悪いものを全て抹消する。たった一本の杖で、たった一言の呪文で、たった一瞬で……その人間の築いてきた過去を奪い、壊す。お前のような人間は、それこそ何の感情も、罪悪感の欠片すらも感じずに。それが当然だからと言って」
 それを気付かずに生きていける人間は幸せでなくても、決して不幸ではない。けれど、それに気付き、そして思い出せない人間はどうすればいいのだろう。
 おれは、どうすればいいのだろう。おれがおれで、で居られる存在理由がどこにも見当たらない。今更、そんな事に気付く。答える人間は誰も居ない。誰も居やしない。
「過去を奪われた人間はどうやって生きていけばいい。過去を奪われた事に気付いた人間はどうやって生きていけばいいんだ」
 人間の記憶は積み上げられた石のようなものだ。一つを取り除けば、すべて崩れてしまう。
 崩れないにしても、その全体像は形を変えてしまう。
 過去とはジグソーパズルのように平たく形勢されるのではなく、積み木のように一つずつ上へ上へと積みまれていくものだと思っている。
 それを構成する一つが失われたとき、過去は、記憶はどうなってしまうのだろう。残骸しか残っていないおれは今、どうなっているのだろう。
「おれは一体、誰なんだ……」
 布が擦れる音。目の前の杖が下げられた。
 張り詰めていた気配は緩み、振り返ると背後の男は驚いたような顔をしていた。何か言いたそうな表情。しかし言葉は綴られない。
 長い間が流れる。片腕にポッターを支え、片腕にバルサムを持ったおれはこの場を動くことが出来ない。以前なら出来ただろうに、今は、彼を突き放せない。
 同情を、しているのかもしれない。同じ境遇に合わせてしまった彼に。
「お前は……は、なにも覚えておらぬのか。本当に、何も……」
 やがて、ダンブルドアが口を開く。
 何とも間抜けな言葉の羅列。おれはポッターを雪上に座らせ、杖を持った。
 彼女の遺体を包んだ手が震えている。ぼんやりとした、焦点の合っていない視線がゆっくりとおれを見て、何も伝えることなくまた伏した。
 何故か、胸の内が熱くなる。この感情は、憤怒だ。
「全て忘れてしまったというのか。彼の、トムの事は全て」
 トム。
 違う、そんな名前じゃない。『わたし』が愛した、たった一人の人間はそんな名前じゃない。
「間違っていたのは、わしの方だったのか」
 再び相手の杖が上を向く。
 瞳には懺悔。けれど唇が紡いだのは懺悔ではなく、忘却の呪文だった。
「言っている事と、やっている事が、違う」
 予想はできていた、用意していた反対呪文を唱える。
 所詮この男はこういう人間だと判っていた。騙す騙されるではなく、この男はこの方法が正しいと信じて突き通そうとするのだ。他の者の迷惑も顧みずに、だから、性質が悪い。
「それは忘れたままでいなければならぬ記憶じゃ」
「それを決めるのは『わたし』であって貴方じゃない」
 ヒュ、と杖が空気を裂く。
 もう一度反対呪文。今度は麻痺の呪文。
「思い出せばお前が傷つく」
「10年分の思い出。多少傷ついても取り戻したい、普通はそう思う」
「過去の自分ばかり見ていても今と未来は変わらぬぞ」
「じゃあ貴方の過去全部失ってみてよ」
 また強力な忘却呪文。今度は消滅させずに跳ね返す。相手に辿りつく前に消された。
 三度目の、同じ呪文。また跳ね返すけれど、結果は同じ。
「自分が自分である全て。全部閉じ込めて、嘘で塗って」
 四度、五度、何度も忘却呪文が襲ってくる。
「そして記憶を思い出す間際に、貴方がこの世で最も憎んでいる人間にもう一度消させる。その時、今と同じ台詞が平然と吐ける?」
 わたしは失ったんだ。全部、閉じ込められて、上から嘘で塗り固められたんだ。
 それはなんだったのか。未だに判らない。
 とても大切な気持ちだった気がする。過去はわたしの全てだった気がする。とても幸せだった気がする、だから今がとても虚しい。とても怖い。幸せを求めるのが怖い。
 また、忘れてしまう恐怖がある。
「記憶の改竄、わたしはそれを最も畏れる」
 呪文が止む。
 じと、と手の平に汗が滲んだ。
 息が少し上がってくる。病み上がりの所為か体調が悪い。吐き気もしてきた、眩暈もする。
「例え改竄された記憶の方が幸せなものでも、お前はそう思うか?」
 多重化して八方から発動する忘却の魔法。
 最初から用意されていた。それは当然と言えば当然で、この人は最初からわたしたちの記憶を消すことが目的だった。罠くらい張るし、その権限を使えばいくらでも自由が利く。例えば、見張りの教員を少なくする、とか。
 自我を守る壁の向こうで魔法同士が衝突、閃光が視界を染める。亀裂が生じてそこから進入してくる呪文の渦、色の識別が付かなくなり、視覚が闇に墜ちて、意識が翳む。
「そんな幸せなんかいらない。そんなの、幸せなんて言わない」
 だって今のわたしを、幸せと思えない。
 暗い意識の中で、扉が完全に開いた。
 泳ぐ彼の視線、躊躇いがちに伸ばされる腕、大きな手の平が目の前に来て、恐る恐る自分の手を差し出すとゆっくり握り返される。思ったより温かい、これが人間の体温。そして遊んだ。とても、目一杯遊んでもらった。
 それが彼との出会い。
 嘘をつく彼。唇は邪魔だと言って、視線は愛してると言ってくれた。弱い自分が情けなくて泣いて、力の入らない体は彼に触れることすら出来ない。転がっている小さな手の平を大きな手が包んで、そして杖が向けられる。
 それが、彼との別れ。
 思い出せた、ようやく、思い出せた。それなのに。
 また、忘れてしまう。彼以外の人間の手によって。
 予想できた。消失する感覚すら思い出せた。わたしの扉の向こうの記憶が削られ、破られ、壊され、潰され、砕かれ、消される。記憶も思い出も過去も全部真っ白に塗り替えられて、ほんの少しの違和感だけを置いて全部無くなるだろう。
 雪上に倒れる体。顔が冷たい、息が出来ない。
 忘れたくないと、潜めた息のように吐き出した言葉は、誰にも届くことなく消え失せた。体が宙に浮き、裸の木の幹に背中が当たる。隣には、眠ったようにも見える、ポッターの顔。瞳はヘーゼル、額には傷一つない。
「お前は刺客でも、スパイでもなかったんじゃな……」
 上から降る声、頭部に伸ばされる腕。体の自由が利くものならそれを振り払い両耳を塞げたのに、今はそれすらも出来ない。
 そう思っていた。
「……っ!」
 腕が、引かれる。
 血の匂いが雪に混じった。聞こえない子猫の唸り声に、何が起こったのかを知る。
「……。」
「……」
 名前を呼んで、そして佇んでいた男は去っていった。
 全ての感覚からその人間を認識出来なくなってから、子猫の霊はおれの傍に擦り寄ってくる。感謝を示したいのに腕が上がらない。
「ありがとう、バルサム」
 絞り出した声は乾いた風に攫われてしまったけれど、それでも彼女がとても優しく笑い、そして空に溶けて消えるのを理解できた。
 墓を作る前に逝かせてしまって、ごめんなさい。
 最後まで護ってくれて、主人と認めてくれてありがとう。
 その思考も、少しずつ白く穢れていく。忘却呪文は結局幾つか食らってしまった。意識を保つための反対呪文も、じきに効果が切れるだろう。
 じわり、じわりと、記憶が攫われる。
 わたしの過去が、無くなっていく。
「大丈夫、まだ、わたしは愛してる……」
 本当はわたしから、去っていって欲しくなかった。でも、そんな事言えなかった。
 彼に笑っていて欲しかった。歩んで望みを叶えて欲しかった。何にも縛られず自由で居て欲しかった。彼は、わたしの世界そのものだった。
 そんな彼だから、記憶の改竄を受け入れたのに。過去の消滅は同意だったのに。それなのに、なんで、あんな人間がわたしを作り変えようとしているの。
 忘れたくないのに、忘れたくないのに。忘れたくないのに! わたしと彼以外の人間の手で彼の事を忘れたくないのに……記憶が、思い出が、過去が、全部全部汚い……白に、染められていく。
「愛してるから。わたしの呪いで、貴方を苦しめたくなかった……!」
 砂城のように崩れる、雪塊のように溶ける、跡形も無く記憶が消えていって……。そしてまた、この虚ろな気持ちだけが残るのだろう。
 この、灰色をした虚しさだけが、心の中に奇妙な空間を作るのだろう。
 いつかまた、思い出せるだろうか……ふとした瞬間に、まるで奇跡のように、思い出すなんて事は出来るのだろうか。
 そんな都合のいい事が起こるのだろうか。
 怖い、そんなの想像したくない。けれど考えてしまった、記憶が抜け落ちる。嫌だ、怖い忘れたくない覚えていたいこれから先もずっとずっとずっと再び出会える日まで忘れないでいたい。
 唇を噛んで、目を開く。薄明るい曇天の下で、降り積もった雪の上で、緑のない森の中で、遠くに伝わるように、小さく、小さく。
「今も貴方を愛しています。   」
 けれど、せめて最後に呼ぼうとしたあの人の名前は、いつの間にか『おれ』の中から消えていた。