凍えた指先で
信じたくなかったのだろうか、きっとそうだ。
けれど理解はしてしまう、どれほどの年月を命を持たぬ者達と共に過ごしたのだろうか。大雑把には把握しているが、それでもそれを聞き分けるには十分な年月だったはず。
だから理解できていた。それでも、信じたくなかったんだ。
だって、今日の……いや、昨日の昼間ではとても暖かくて、まだ小さくて、よく鳴いていて、懸命に生きていたんだ。
弟妹を構えば傍でその様子を静かに見守って、手が空くと遠慮がちに甘えてきて、けれど触れようとするとまた何処かへ行ってしまって。
ノリスとよく似ていて、けれど全然違っていて、彼女はプライドが高いのか、人間が怖いのか、おれに懐きはしたが傍に寄るよりも、じっと凝視ばかりしていた。
それも一つの愛情表現だと、互いに判っていた。
だからおれも、必要以上にバルサムには構わなかった。
全部覚えている。彼女を拾ったあの日から、彼女とあったこと全部覚えてる。
だからさよならの意味を持ったありがとうなんて、言わないで。
言葉が繋がっていない、支離滅裂だと目の前の幼い猫は幼い顔のままで笑った。ぼんやりとした青い光に包まれながら、猫の表情のまま笑っていた。
「バルサム」
名前を読んで近づこうとすると、彼女は背を向けスウとした軽い足取りで、おれを案内すると、付いて来てと一度だけ振り返る。
おれはそれ以上何も言わずに彼女について行くことにした。
杖の光がチラチラとして、時折前を行く彼女の小さな体を覆い隠す。暗闇の中での方が、彼女の後姿が透けたりはっきりと見えたりした。
しばらく歩いていると、気付いた事があった。
「バルサム、そうなのか?」
雪に晒されながら訊ねると、もういいね、と彼女は薄い影のように消える。
しばらく、ほんの少しの時間立ち尽くしたが、前に進まなければいけないとまた足を動かし始めた。手にも足にも、もう感覚はほとんど残っていなかった。
熱いのか、痛いのか、冷たいのかもわからなくなっている体で、それでも進んで行くと、いつもの温室へ向かう道に出る。
ああ、矢張りそうなのか。
「そうなんだな」
杖の明かりを消した。辺りが深い闇に包まれる。
厚い雲に覆われて月も星もなく、雪上に反射する城内の明かりすらここには届かない。
唯一ここを照らす日の光は、今は静かに黄道の上を走っている。
闇の中の底冷えする寒さ。英国の寒さは日本よりも辛い事は知っていたが、今になってそれに気付いた。手足どころか、もう全身の感覚すらない。
死と孤独は知っている。それはとても怖いものだ。おれは孤独に死ぬ事と、死なれて孤独になる事を恐れていた、昔からずっと。
「お前が心配だった。けれどそれ以上に、おれが嫌だった。お前に死なれるのはおれが嫌だった、死はとても悲しくて、だから怖いんだ」
立ち止まる。行儀良く座っている青い猫が居た、バルサムだった。
足を動かす。近寄って跪き、手で掻き出した雪の奥深くから抱き上げた。牙の生えた小さな口で耳元に囁かれる。
「その遺言、確かに」
すると抱き締めていた青い猫は一声鳴いて、そのまま動かなくなった。
おれはずっとその場を動けなかった。どれくらいそこに居たのかも判らない。朝になるまでその猫を抱き締めていたかったのに、何処からか声がして何かを被せられる。何事か言われた気がした。
我に返る、と表現できるのだろうか。おれは腕の中の猫をようやく見ることが出来た。
そこには冷たくなったバルサムが居た。
「バルサムが、死んだ」
視線を動かす。体中の筋肉が軋んだ。
視界がモノクロの明暗に分かれている。何処からか光が差しているのだろう。
目の前には石の壁があった。ずっと上のほうに窓があって、そこから松明の光が漏れている。こんな所まで、それは届いているのだろうか?
右手には深い森、どこまで続いているのかは知らない。森自体が息を潜めているようで、とても暗い。
左手には道、温室へと続いている。今は誰もいない。
「ここで、バルサムは独りで、死んだ。死んでしまった」
あの時とは違う。
金色ではなく、闇色の雪の中で。
兄弟はだれもおらず、たった独りきりで。
自分が生きるためではなく、弟を守るために。
彼女は、おれが見つけた同じ場所で死んでしまった。
「ごめんな、寂しかったな。寒かったな、苦しかったな、辛かったな……不安、だったな」
腕の中の小さな体を撫でた。冷たくて硬いだけで他は何もなかった。バルサムは、彼女の霊は隣で黙って居た。
おれは自分が泣くかと思っていたが、涙は出なかった。出せなかった。
本当は泣きたかったのかもしれない。大声で、死なないでと取り乱したかったのかもしれない。けれど傍らでおれを見上げる彼女が、彼女の霊がそれを押しとどめていた。
バルサムは上目遣いでおれを見て、そして頬を舐め痛いかと訊いた。そういえば、外に出る前に頬を打たれていたことを思い出して、大丈夫と訊かれてから痛くなってきた頬に一筋だけ、涙が零れた。
それからまたしばくして、でも貴方は来てくれた、と言ってくれた。そして怒っているとも。
死んでしまった、それでもまだ昇っていない彼女は、我が身を省みないおれを叱った。おれは謝った、けれどバルサムが心配だったと続けると。判っている、だから怒っているけれど嬉しい、でも矢張り悲しみの方が大きいと言われた。
自分の所為で誰かが傷つき、そしてまた自分が傷つくのを恐れているのは、なにもおれだけではないのだと言われた。
おれは返す、けれどバルサムもポーズの為に我が身を省みなかった。悪い飼い主に似てしまったなと言った。彼女はきょとんとしてから悪い飼い主ではなく、飼い主の悪い所だと笑いながら訂正する。
とても唐突に、夜から振って来た声が言った。誰と話している、ここでお前まで死ぬ気かと。何故そんな思考になるのか理解できなかったから、この子を連れて帰らなければならないと夜に返した。そして立ち上がる。バルサムの死体を抱えて。
夜はおれに付いて来た。まともに動こうとしない脚を引きずるおれを、どうしようかとずっと背後から見つめていた。
何度か夜が口を開きかけたが、結局何も言ってはこなかった。おれを相手に声を発するのに、怯えているようにも見えた。
城の明かりが近くなる。闇夜と雪の輪郭が翳み始めた。
足を止め、このまま付いて来る気なのかと訊ねると、夜は驚いた表情をして、そして頷く。
そこで初めて、夜に輪郭がある事に気付いた。
夜は人間の顔をしていた。それも、とてつもなく精緻な人間の顔をしていた。凛としていれば、きっとこの夜は恒星のような輝きも持っているのだろうと感じた。
けれど今、その表情は曇っている。バルサムの、彼女の死を悼んでいるのだろうか。視線はおれの腕に注がれていた。
夜は光を前に立ち止まる。バルサムと、何故かおれを辛そうな目で見ていた。
「バルサムは、彼女は誰も責めてない」
彼女は笑って遺言を残した。おれはそれを聞いた。花の咲く小さな墓を作って、これ以上苦しませないように成仏させると誓った。だから、夜は前を向くべきだ。
自分を責める子供のような夜の手を取る。夜に手がある事よりも、その手に体温があった事に少しだけ驚いた。そうだ……バルサムもこんな風に温かかった。
すると夜は謝った。矢張り子供のように、ゴメンとだけ言った。
何故謝るのかが理解できない。夜の頬に手を当てると、夜が泣いた。
痛いのか、悲しいのか、それとも寂しいのか。辛いのか。
そう問うと、夜は益々泣いた。いつの間にか肩の上に居たバルサムは慰めてあげてとおれにしか聞こえない声で静かに鳴いた。
慰め方は多く知らないから、ルーピンやスネイプがやってくれた時のように夜を抱き締める。それでも夜は泣き止まなかった。けれどバルサムは笑う。
きっともうこんな過ちは繰り返さないから、と言っていた。おれはよく理解できなかったが、ならおれもバルサムの為に泣いてもいいのかと問うと、おれを泣かせたくはないと返された。第一、夜が鳴いてもおれが慰めることが出来るけど、おれが泣いたら誰も慰めることが出来ないから、とても悲しいと言う。
ならばおれは泣かないと告げると、バルサムに礼を言われる。
夜は泣き止んで落ち着いていた。だから、もっと強く抱き締めて、頭を撫でた。
おれはそうされると安心できた昔の記憶を僅かに思い出した、してくれたのは誰だったのだろうか。屋敷の中の誰かだった気がする。
風が強くなった。バルサムの体を早く移動させたくて、もう涙は流すまいとする夜の顔に雪の結晶が叩き付けられる姿が痛々しくて、おれは夜の手を引いて城へ向かった。
夜はまたおれに謝った。何を謝っているのか、おれには判らなかったけれど、夜を責めていないのならその旨を伝えた方がいいと言われたのでそうする事にした。
「……夜が、何に対して謝っているのかが、おれには理解できない。何か、誰かに責められるようなことをしたのか?」
彼女はおれの腕の中に戻って、自分の体を眺めながら苦笑いした。
それがどちらに対しての苦笑だったのか、おれは矢張り理解できずにいた。
夜が言う。
「バルサムは、おれの所為で死んだんだ。それに……」
続きは、出てこなかった。
「……生者に縛られる死霊は、とても苦しいそうだ」
夜は俯いたままだった。もう一度、その頬に触れる。何故か指先が、じんと痛んだ。
「バルサムは誰も、責めていない。それを望んでいない」
彼女は既に現世に切りをつけて、上へ昇る心の準備をしている。
なのにおれや夜が後悔して彼女をこの世に縛り付けてしまったら、それこそ彼女はもう一度苦しむことになってしまう。
霊体が生きたモノの意思に縛られるのは、とても辛いものだ。
「ポーズも自分を責めていた。おれも自分を責めた。そして夜も……けれど彼女は自分の死で誰かが責めたり責められるのは悲しいし、自分も傷つくから辛いと言った。彼女を悲しませ傷つけ苦しめるような真似を、おれは二度もしたくはない」
だから、笑うことは出来なくても、泣かないことくらいは出来る。
自分で出来る事をやるしか、おれにはないんだ。
夜に「強いんだな」と言われた。
強さとはなんだろうか、強いからと言って誰も何も死なせない訳じゃない。強弱に関係なく、人間の周囲には常に死と悪意が満ちている。そしておれは、その匂いや空気が苦手だ。
世界に勝敗はないのに、誰がいつ何のためにどういう基準で勝敗をつけるのかおれには理解できない。力や心の強弱で変わるのは当人の生き様だけで、常に強いものが生き残り弱いものが死ぬなんて事は在り得ない。何故人間は、善悪や強弱などというもので世界を分けようとするんだろうか。
おれの知る世界とは、ただそこに在るだけの、巨大で凡庸かつ変則的な目に見えないもの。要するに、おれ自身もよく判らない「世界」という名の「何か」なのに。
人間が分けようとしている世界とは、一体どんな「もの」なのだろうか。
「……もう城の中に入ってしまう。夜はどうするんだ?」
思考を打ち切り、振り返らずに夜に問う。夜は戸惑いながら、付いて来ると言った。灯りの下の夜は、肌の色を除けば上から下まで、夜色だった。
突然、不安定に柔らかくなっていた夜の気配が、急に固まってしまった。
意識の遠くの方で、何処かで聞いた声がおれと、そして夜の名前らしきものを呼んでいる気がする。夜はおれの手を振りほどいて、おれとバルサムを肩に担ぎ上げて走り出した。
夜はひたすら無言だった。そしてもう泣いてはいなかった。落としそうだからしがみ付いていろとだけ、言われた。従うと、夜は走るスピードを上げる。
「……ここだろ?」
立ち止まる。それだけ言って、夜はおれとバルサムを下ろした。
目の前の扉には、見慣れた猫が心配そうにおれを見下ろし、バルサムを見て、一瞬泣きそうな顔になる。それでも、すぐにおかえりなさいと笑った。
「ただいま」
猫に、おれは言った。
扉が開く。色違いの小さな頭が一斉に跳ね起きて、おれの服にしがみ付いた。それはいつの間に着たのかすら判らない、誰かのコートだった。爪が折れないように、一匹ずつ丁寧に、片手で下ろした。
膝を付くと、残りの視線を感じた気がした。何故か、ルーピンとポッターの二人が、この部屋にいるように見える。ルーピンはともかく、何故ポッターが見えるのだろうか。
「ノリス、ティブルス、タフティー、スノーイー……ポーズ」
六匹の兄弟を、長女を外して上から順に呼ぶ。誰もが皆、暖かくて、生きていた。
悲しくなったが、それでも出来る限り微笑っていた。傍らの彼女は柔らかく目を細めるだけで何も言わない。
バルサム。お前の守りたかった弟は、無事だったよ。そう告げると、子猫の声でみゃあとだけ応えられた。
そんな事報告されなくても判ると、小馬鹿にされた。
ここに居ても目が開かない。もう二度とこの瞳で、妹や弟たちを見ることは叶わない。胸が締め付けられ、悲しかった。辛くて、もう笑えなかった。
「ごめん。お前たちの姉さん、死んだ」
死という意味が、理解できるだろうか? できるから、泣いているのだろう。ポーズ、バルサムは、姉さんはお前を責めていない、彼女は誰も責めていない。
だから自分を責めないでくれ。責めるよりも、生きてくれ。
バルサムはそう言っている。
許さないなら、憎いなら、そうすればいい。けれど、昇ろうとしているバルサムを縛らないでくれ。ノリス、お前だけはバルサムの姿が見えるのか? 声が聞けるのか?
皆も、許してくれるのか……いや、初めから恨んでなどいないのか。
猫は人間と違う。そして子猫は、赤子が人間ではないように、猫ではない。
「ありがとう」
残された者たちのために、おれは出来ることをする。それしか出来ないけれど、出来ることはしてもいいと、おれはおれに許すことができた。
救われたと、思えた。おれを追い立てる、人間のおれが姿を消し、緊張の糸が切れる。
項垂れ、バルサムの遺体を布で包むおれの指先を、子猫たちがチロと嘗めた。おれに注がれた五匹の視線は、不安と心配に満ちていて、おれは自分の両手をじっと見てみる。
何故か、両手から、血と熱の匂いがした。
手の平を返して見てみると、指が傷だらけで、肌の色ではない変な色をしていた。
熱の匂いはどこから来ただろうかと考えていたら、視界が歪んで頭に衝撃が来た。目が見えなくなる。そして意識が彼方まで翳んだ。
叫び声。遠のく意識の中で、おれは初めて見えない目で夜の顔を見ることが出来た。夜の姿は、何故かおれが知る人間の誰かによく似ていた気がした。
そしてその夜によく似た誰かにも伝えなければならないと思った。
バルサムは誰も、責めていないと。