凍えた指先で
苦しい。息が続かない。
何処にいるのかも見当がつかない。
視界が滲んで、袖口で拭うと僅かに濡れた。
「焦るな。焦れば判らなくなる」
強く言い聞かせ、歯を食いしばり、手の平に爪が食い込んで血が流れる。
心臓の音に同調してその真新しい傷口が疼いた。
混乱する脳を落ち着かせるために一度大きく深呼吸して、神経を集中させる。視覚を遮断し聴覚を研ぎ澄ませ、普段必死に塞いでいた第六の感覚を解放した。
途端に流れ込んでくる、多くの断片的な思考。
「……っ」
吐き気が、胃から咽喉から込み上げて来る。
さっきまでただ冷たいだけだった空気が、薄汚い灰褐色に澱んでいた。頭の中に直接流れ込んでくるのは城の中に居る生き物たちの思考。
大半の人間が眠っているのがせめてもの救いか、コレならまだしばらくは体は持つだろう。いや、持たせてみせる。倒れてなるものか。
「ここより上にはいないか……下、の」
足元へと感覚を下ろしていく。城の中の至る場所、物置きや使われていない教室、階段の下、隠し通路から小さな隙間までくまなく探した。
ノリスもバルサムも、普通の子とは少し波長の違う力を持っている。だからこそ、その一端でも引っかかれば見つけられる。
必死に、どこまでも必死に。彼らが今ポーズを、弟を探しているように。
「見つけてみせる。絶対に……絶対に、死なせない」
居た。見つけた。間違いない、彼女だ。生きている。
開いていた感覚を無理矢理閉じて、再び暗い廊下を走り出す。
激しい嘔吐感はあった。けれど、それ以上に突き動かすものがあった。
石壁の両側に掲げられた松明が消え、広い吹き抜けの空間まで辿り着くと足を止める。動く階段がひしめき合うその一番下に、おれは彼女と彼を見つけた。
手すりに手をかける。躊躇い無く床を蹴ると身体が宙に浮いた。そしてそのまま、落下。
突然上から降ってきた人間に、目の前の男の顔が驚きの表情に染められる。けれど腕の中の子猫は、おれがそんな行動を取ることを予想していたのか大らかな表情で待っていたと高い声で鳴いた。
「気付くのが遅くなって済まない、ノリス」
厚着された腕の中から小さな身体をバタつかせて、甘えた鳴き声でおれの腕の中に飛び込んで来たのは、迷子の片割れであるノリス。
「無事でよかった。心配した」
寒くないようにそっと抱き締め小さな頭に頬を寄せると、子猫の下が顎を嘗めた。
ルーピンが用意していたのに似たバスケットを魔法で出し、暖かくした中に入れようとしたが嫌だと抗議される。気丈な彼女も余程不安だったのだろう、まだ腕の中に居たいと言ってきてくれた。
「すまないノリス。ポーズは無事だったけれど、まだバルサムを探さなければいけない」
「ミ……ミ、ミス……ミスター・!?」
「どうしたんだ、フィルチ」
「お、お前は今どこから現れ……」
「見た通り上だ。ああ、それよりこの子を保護してくれた事に感謝する、今は急いでいるから礼は後日必ず」
バルサムの事が気にかかるが、ノリスの為に、一度あの部屋に戻るべきだろう。
バスケットを消しながら考えて両脚に力を入れると、頭の上から慌しい足音と息切れが聞こえてきた。見上げた視界に映るのは、綺麗な鳶色と白い吐息。それと、もう一人。
「!」
「ミスター・!」
残り数段となった階段を飛び降り、大きく咳き込みながらやってきたルーピン。続くマクゴナガルは、どうやら彼の体調を気遣っているようだった。
そういえば今夜は十三の月。満月まであと二日なのだから、仕方ない事なのだろう。
「、見つかったの?」
「ああ、ノリスはフィルチが保護してくれていた。バルサムは、今からまた、探す」
「ぼくも手伝う!」
今にも倒れそうな顔色をして叫んだルーピンにおれは躊躇い、それでも頷いた。
あの子は今、たった一人でポーズを探している。
攫われた弟が泣いていないか、震えていないか、酷い目に遭っていないか、そんな不安で押し潰されそうになりながらも、ずっと探し続けている。
探している側も、探されている側も、生まれてから幾ヶ月も経っていない子猫なのに。
そんな彼女が必死で、死に物狂いで、我が身を省みずに弟を探しているのに、何故年上で、人間で、彼らを育てる義務を自ら選んだ人間が捜索を放棄できるのだろうか。
それを理解しているからこそのルーピンの言葉、自分は無力だと決定付けられたくない故の我侭。その為なら多少身体がどうなろうと知ったことではないのだろう。
今のおれと、同じように。
「いけません!」
おれとルーピンとの会話に、マクゴナガルの言葉が割って入る。
「二人とも、一体今何時だと思っているのですか!? 誰の許可もなく深夜に城内を徘徊するなんて言語道断です! 今すぐ寮へ帰りなさい! これは寮監の命令です」
「……判った、今夜はもう城内を探索しない」
「! それ本気で言ってるの!?」
「本気だ。既に城の中が全て視たが、バルサムは居なかった」
ルーピンの表情が、怒りから、戸惑いに変化する。
フィルチはおれが本当に城の至る場所を探した事を理解し、マクゴナガルは頭のおかしい人間をみるような目つきでおれを見下ろしていた。
「だから、残っているのは城外だけだ」
その一言で、三人はおれが何をするのか判ったらしい。
フィルチに至っては、おれがそう言うことを見越していたのか驚きもしなかった。ただ、おれの言葉に賛成をしている風ではない。
逆にマクゴナガルはおれの理屈に顔を真っ赤にして震えている。そして、手を上げられた。
頬に痛み、瞬時にそこが熱を持つ。ルーピンとフィルチが何か言った。それを遮って、マクゴナガルが怒りに任せて叫ぶ。
「猫探しなど明日でも出来るでしょう! こんな吹雪の中外に出てそんな事をして御覧なさい! 貴方たちの身体もただでは済まないのですよ!?」
その台詞に、ルーピンは一瞬怯む。おれはノリスを見た。
彼女は、意図を汲んでくれたのか優しく鳴いてくれる。
「おれは行く。おれは彼女を探さなければならない」
「ミスター! いい加減に頭を冷やしなさい、この寒さの中で子猫が生きている可能性はどれくらいか判らないのですか? 規律が守れないのならそれ相応の考えがありますよ!」
死を前提とした最悪の台詞。そして退学か謹慎か、それは彼女なりの脅しなのだろう。
おれは初めて正面からマクゴナガルを見据えた。視線を合わせようとすると向こうから逸らして、青い顔をして一歩後ずさった。
「上等だ。命より規律を重んずる世界など、此方から願い下げる」
動けずにいるマクゴナガルから視線を外し、踵を返すとフィルチと目が合った。彼もまた、数歩おれから後ずさった。
歩を進めると、擦れ違い様に震えた唇で呟かれる。
「理想主義者だな」
「理想や願いを持たぬ人間に、人間として生きる意味はあるのか?」
ルーピンが、マクゴナガルの手を振りほどいておれの隣にまで駆けて来た。
僅かしかない体力と寒さの所為で青白い顔、互いの冷え切った手が繋がれる。微かに指先と手の平が温かくなった。
「理想を持てず行動もしない、不満を抱える現状を喚き嘆くだけで自らの変化すら拒む人間など、生きている意味がない。以前のおれがそうだったように」
背後で立ち尽くす大人たち。
「貴方たちが現実的で正しい、おれは理想的で間違っている。それでいい。貴方たちの中には第三者から見た命の大小しかない。おれは当事者であり、秤には命の是非も善悪もない」
吐き捨ててから、ルーピンは視線だけで振り返る。すぐにそれを戻して柔らかい表情を浮かべた。片腕に抱いたノリスは音もなく床に着地して、ルーピンのズボンの裾を引っ張りこれ以上進めないように邪魔をする。
「ノリス」
何事か言おうとしたルーピンの肩を叩き、僅かな時間繋いでいた手を離す。おれが笑うとルーピンが驚き悲しそうな顔をした。
おれは何も言わずに、外へと足を向ける。
背中がおれの名前を呼ぶ声とそれを制止させようとする音を聞いた。振り返る事なく夜に姿を溶かしても、雪の降る音におれの名が混ざり、地に降る。
ノリスの瞳はこれ以上彼に無理をさせるなと言っていた。それでなくても弱っているルーピンの身体が、この雪の夜の中に晒されれば、どうなるか想像するのは難くない。
おれよりも、ノリスの方が遥かに理性的な判断を下していた。
「すまない、ルーピン。ありがとう、ノリス。連れて、帰るから。必ず、連れて帰るから」
目を閉じると、君は勝手な人間だよと言って、辛く泣きそうなルーピンの声が聞こえた。そんな気がする。
けれど、お前だってきっとこうしただろう?
もしおれたちの身体が真逆の立場だったら、ルーピンはおれを置いて一人で探しに行くだろう? だから、あの身体で一緒に行くと強情を張らず、おれを止めもしなかったんだろう。
「似たもの同士だ」
おれだって、もしもお前の立場ならそうするとも。
杖先に光を灯し、息が出来なくなりそうな吹雪の中で、拳を握り締める。
「生きていてくれ」
白く曇った吐息と共に涙を吐き出し、おれはまた、彼女を探す為にあの感覚を解放した。