曖昧トルマリン

graytourmaline

凍えた指先で

「あー……ミスター・?」
「はい?」
 夕食後。現在時刻は八時少し前、また教授に罰則を言い渡され教室に向かう途中、人通りの少ない廊下で正面からフィルチに呼び止められた。
 丁度校内の見回り中だったらしい。よく見かけるバケツもモップの代わりに火の入ったカンテラを下げていた、それは彼の心身にとっても、学校にとっていい事なのだろう。普段からそんな姿なら、彼の管理人生活も少しは楽になるのだろう。
 もっとも、騒ぎの大半を起こしているおれが言えた義理ではないのだが。
 いつもよりは随分元気そうな顔色で、けれど表情の優れないまま、彼は訊いてきた。
「その、どうだ?」
「何がですか?」
「子猫たちだ」
「見ていて嬉しくなるほど元気だ。この一週間で体重も随分増えた」
 そう返答すると、フィルチの表情が変に歪む。
 どうも、求められていた答えはこれではないようだ。
 それとも、おれが感情の起伏を表さない声で答えたから、信用されなかったのだろうか。もしかしたらそれ以外の何かなのかもしれない。
「それはよかったが、私が聞きたいのはそれでなくて、里親の方だ。見つかったか?」
「……」
 ここは正直に、考えるとは言ったけれど最初から諦めていたと言うべきなのだろうか。
 それとも、まだ見つかってない、もしくは、忘れていたと答えるべきか。
 どれも結果はあまり変わらない気がするが。
「見つかっていないのか」
「……ああ」
 おれが返す前に、彼の方から次の言葉を出した。
「私の方で、何匹か引き取ろうと思っているんだが」
「いいのか?」
「本当は猫といえど兄弟を離したくないんだが、済まないな。私だけでは精々2匹か3匹の世話で手一杯になってしまう」
「そんな事はない。その気持ちだけでも十分に嬉しいのに」
 すると、フィルチの表情がまた変化する。
「ミスター・。何かあったのか」
「なにがだ?」
「いや、少し……変わったと感じたんだが。それに今、笑わなかったか? この暗さだから、私の気のせいなのかもしれないんだが」
 その言葉通り、おれが笑うのは確かに珍しいことなのだろう。
 しかも、表情に出るようなことなんて数える程しかない。
 それだけ考え終わってから、ようやく口を開いた。
「笑ったと……思う。それに、自分自身も少しだけ、変わり始める事が出来たとも、思っている。自覚が、出来るようになった」
「そうか、よかったな」
 大きくて温かくて固い手が、おれの頭を撫でた。
 目の前のフィルチは嬉しそうに笑っていて、本当に、何がそんなに嬉しいんだろうと思えるくらい笑っていて、おれもつられて笑った。
「ちゃんと、笑えるようになったんだな」
 その言葉は、安堵。
 人間らしくないおれが、笑ったことに対する、フィルチの安堵なのだろう。
 おれも実家ではよく笑ったりはしゃいだりしているんだが、そんな自分を想像されたことはないと思う。なんだか、心配性なフィルチが保護者みたいだと思って、そんな事を思う自分が、おかしかった。
「そういえば、変わった事といえば。この間の記事は凄いというか、酷いというか」
「ああ、アレか」
 彼の言っているのは、数日前に校内に張り出されたスネイプの中傷記事の事だろう。
 簡略すると、スネイプが公衆の面前でおれに対する告白をした、らしい。
 号外のようにバラ撒かれていた記事を発見した瞬間に憤死しそうだったスネイプを、ルーピンとおれが嗜めたり慰めたりして余計にへこませたのも記憶に新しい。
「正直なところあの程度のものはだからなんだで済ませれる」
「だがあそこまでされてスネイプが大人しいのが何とも不気味だ。それもお前が原因か?」
「さあ、どうなのだろうな」
 まあ、それがスネイプの本心でもあるのだから、大人しいかどうかはともかくとして、仕方がないと言えばそうなのだが。
 だからこそおれも、だからなんだで済ませたんだが。スネイプにそう言ったら、何故か廊下のド真ん中で馬鹿者と怒鳴られ説教が始められた。
 そしてルーピンは傍らで苦笑しながらおれたちを恥かしくて迷惑だからと空き教室に放り込んだ。その行為に対してもスネイプは矢張り怒っていた。
 それだけ怒ると流石にかなり疲れた様子だったが、結局何に対して怒っていたのかは、未だにおれには全く理解できないでいる。
 少しは変化したものの、おれは相変らず他人の気持ちに疎いらしい。
 一層の努力が必要なようだ。
「近々備品がいくつか壊れるんじゃないかと気が気でない」
「大丈夫だ、幾らなんでも照れ隠しで学校の備品を破壊するほどスネイプはガキではない」
「……それは一体どういう意味だ?」
「ああ、それは」
 続けようとしたおれの言葉の上に、非常に聞きなれた怒鳴り声が覆いかぶさった。
 背後を見てみると、噂をすれば影。
「どうした、スネイプ。なんだ、魔法薬学の自習の帰りか」
「どうしたもこうしたもあるか馬鹿者が! 相変らずお前は自己完結が早過ぎるのが……ではなく、! お前のことをマクゴナガルが血相を変えて探していたぞ!? 今度は何をしでかしたんだ!」
 そう言えば、フィルチに捕まって忘れようとしていた。
 おれはマクゴナガルの所に行こうとしていたんだ。
 怒髪天をつかんとするスネイプに、フィルチは半ば呆然としている。そうか、彼はスネイプがおれに説教する様を聞いたことはあっても、見たことはなかったか。
「別に何もしていない。ただ罰則の内容を聞きに行くだけだ」
「思いっきりしでかしているではないか! 自分の寮監の授業で何をしたんだ!?」
「いや、例によって濡れ衣だ」
「ああそうか! 濡れ……濡れ衣だと? しかも例によって?」
 スネイプの怒りが、目に見えて静かになって行った。
 ただ静まっているわけではなく、先程よりも怒りの含有率の高い瞳で思い切り睨まれた。両肩を掴む腕も、心なしかいつもより痛く感じる。
……マクゴナガルの所に行く前にまずはぼくの質問に答えてくれ。その濡れ衣は既に日常なのか?」
「大体月に一度くらいだから、そうでもないのかもしれない」
「犯人はブラックとポッターのどちらかもしくは、両方か?」
「普段はブラックが多いが、今回は珍しくポッター一人だったな。授業中にペティグリューにちょっかいをかけたと思われて、授業はペティグリューの大失敗によって中断した」
「今までの罰則は全て濡れ衣か?」
「傷害と器物破損はおれだが、授業妨害の類は誓って一度もしていない」
「最後に、教授に何故何も言わない」
「濡れ衣の場合はいつも言っている。そして、いつも聞き飽きた言い訳だと言われる。ルーピンは知っているが、おれの罰則が終わる時間が他の生徒より遅いらしいのはその為だ」
 全ての質問に淀みなく答え終わると、スネイプはおれの両肩に腕を置いた体制のまま沈黙して頭を垂れた。
 斜め後ろから感じるフィルチのなんとも言えない視線も、背中に痛い。
「マクゴナガルの所に行くぞ」
 そして、地を這うような声。
 スネイプが相当怒っている時でないと、こんな声色は出ない。
「あの偏見インテリ教師にお前の無実を証明してやる」
「スネイプは関係ないだろう。わざわざ不興を買いに行くことはない」
「大馬鹿者が! 教授の不興などというそんな些細な事を気にしていてお前の友人など努まるか! 大体聞き飽きたからというふざけた理由だけでお前を犯人と決め付けてこちらの言い分を聞こうともしない頭の悪い教師に評価されるなどこちらから願い下げだ!」
「……言いたい事はよく判った、取りあえず落ち着け。それに、スネイプが行った所で信用はしてもらえない。ルーピンが一度来てくれた時もそうだった」
 そしておれは、その後ルーピンに二度とおれを庇うなと言った。
 あの教授に、ルーピンを脅して証言させれば信用して貰えると思って、と言われた瞬間、おれはその教師の肋骨の何本かと鼻の骨を骨折、内臓も幾つか損傷させ、教室の一部を血塗れにした経験がある。
 後に罰則が増加したのは言うまでもないが、ルーピンが脅しに屈する人間だと決め付けられたのが我慢ならなかった。
 しかしそれを後でルーピンに話したら、そんな事で怒る必要なんてないと窘められ、今度からはそんな事で教授に手を上げないでくれと頼まれた。おれにとっては全くそんな事程度に収まるものではなかったが、ルーピンに再三頼まれ約束までしたので、それがスネイプに代わったところで約束を破るわけには行かない。
 ルーピンと同じようにスネイプが貶されれば、例えおれは寮監だろうが副校長だろうが女だろうが、きっとまた手を上げてしまう。ルーピンと自分に誓った約束は、破りたくない。
「しかし
「だから、今度は例え何を言われても罰則は受けない」
「なんだと?」
「言っただろう、聞きに行くだけだと。罰則を受けに行くわけではない、それにマクゴナガルはまだおれの話を聞く部類の人間だ。一晩くらいかけて証拠を突きつければ、納得してくれると思いたい」
「一晩かけると豪語はするが、最後の最後に弱気だな。そこがお前らしいんだが」
「落ち着いたようだな。まあ、そう言う事だからこの件に首は突っ込むな。今までは、結局相手と話すのが疲れて逃げていただけなんだ、だからこれは今のおれが一人で処理する」
 そこまで言うと、スネイプも仕方がないと肩を竦めた。
 フィルチは、相変らずおれを見ている。
「仕方がない。挫けない様に応援してやる事しか、ぼくには出来なさそうだ。あと眠いからと言って寝るなよ、お前は夜になると立ったままでも寝る男だから心配だ」
 ぼくも、に対する接し方を少しずつ今までのものから変えて行かなければならないな、と呟くように笑って、おれの肩を叩いた。
 ああ、そうだ。忘れるところだった。
「フィルチ、明日は休みだから午前中にでも猫を連れてくる。楽しみにしていてくれ」
「……そうか、では事務室で待っている」
 少しだけ何と言葉を返そうか躊躇ったようだが、それでもいつものフィルチの口調と内容で、彼はおれに返答をした。おれは、頷く。
「何だ引き取り手が見つかったのか?」
「ああ。フィルチが世話をしてくれると丁度話していた」
「二人とも、今はそんな事はいいだろう。それよりミスター・、早くマクゴナガル教授のところに行きなさい。彼女は時間にうるさい、もう8時を過ぎた」
 おれにとっては自分の濡れ衣を晴らすことよりも猫の方が大事なのだが、フィルチは猫よりもおれの方が心配らしい。
 おれより猫の方がしっかりしていると認識されたのだろうか、否定はできないが。少し自分が思い違いをしている気もしないでもない。
「今更遅刻で叱られても構わない。おれにとってはフィルチと話しをしていた方が、濡れ衣を晴らすことよりも価値がある」
「お前は、そう言う所は変わらないんだな」
「変わる必要のない事もあるだろう」
 そのおれが返した言葉に、フィルチとスネイプは変な顔をしてから、笑った。おれは二人が笑った顔を見てから踵を返した。
 廊下の向こうで、これから立ち向かう女性の金切り声が聞こえる。