凍えた指先で
子猫たちは、すっかりこの部屋に落ち着いたらしい。団子になって眠っているその傍らで手袋が所在無さ下に立ち竦んでいるのを観察する中、相変らず甘いものを持ち歩いているルーピンが飴玉を口に放り込みながら例の部屋にやってきた。
「あれ、セブルスは?」
「午後一番の授業が薬草学だ」
「そっか、じゃあ今頃は温室に向かうところだね」
おれにも飴玉を差し出し、受け取らなければ永遠にそうしているのではないかと思う笑顔で薄荷味の飴玉ばかりを無理矢理渡してきた。
「あれ、ミント嫌い?」
「いや好きだ」
「そっか。よかった、ぼくミント苦手なんだ。苦いし、スースーするから」
でもドロップってミント味が多いんだよね、とルーピンが一人で笑う。
おれは付き合いが悪いというか、皆無なので、黙々と手袋に子猫たちの作業を振り分けていた。そんなおれの行動に慣れているのか、ルーピンはなにも言ってこない。
ただ、黙って傍に座っていてくれた。
「そう言えば、初めてかも」
「なにがだ」
「の好きな物知ったの」
「……そうだったか?」
「いや、うん。そうだよ、だって君何も話さないじゃないか」
「話した方が、いいのか?」
そう問うと、ルーピンは笑う。
「いいとか悪いとかじゃなくて、話してくれたほうがぼくが嬉しいだけ」
「嬉しい?」
「そう。君のことが知りたいから、嬉しい」
ルーピンの腕が伸びてきて、おれの頬に触れた。
触れることが出来たことに驚いたのか、奴の表情が驚きのものへ変化する。そういえば、触れられることも、触れさせることも滅多になかった気がした。
おれが触れることも、そういえば、あまりない。
「……こうやって、おれに触れることもか?」
「うん、そうだね」
なんとなくだが、それを理解した気がした。
触れることが嬉しいと思う気持ちというものを、だ。
頬に触れていた手に右手を重ね、空いていた左手をルーピンの頬に持っていく。おれの方がリーチが短いので少しだけ距離を縮めた。
「あ、あの……?」
「ならそれは、好きという感情に似ている。そんな、気がする」
好きという感覚なら、おれにも判る。
おれがルーピンへ持つ感情は、理解し共有し、それを嬉しいと思うルーピンのものとは形が違うが、それはきっと。
「どうやらおれは、ルーピンのことが好きらしい」
「……え?」
耳まで赤くして間抜けた面、見上げた先にはルーピンのそんな顔があった。
「なんだ、呆けた顔をして」
「……っ!」
声をかけてしばらくすると、唐突に抱きしめられる。
たまにする、慰めや護るためのものではなくて、もっと力も想いも強い抱擁。
思うに、人間にこうやって抱きしめられたのは初めてだ。
「、好きだよ」
「ルーピン?」
「ぼくも君の事が好きだよ」
「……そうか」
「そうだよ、大好き」
人間であるルーピンの言葉が、不快ではなかった。
むしろ、それを嬉しく感じた。
誰かに好きといわれたのは、久しぶりだった。
そしてその相手がルーピンだったから、嬉しい。
「君の好きとぼくの好きはきっと違うけれど、ぼくはが好きだ」
「……ありがとう」
精一杯探し出した平凡な返答に、ルーピンは背後で頷いて、笑ってくれた。
締め付けるような腕の力がゆっくりと緩まる。ルーピンはその顔を見せずに、今度はおれの顔を胸に押し付けて、屈むようにして体ごと抱きしめた。
肩にそっと手を当てると、ごめんねと謝られた。
「もう少しだけ、いい?」
「構わん。おれは人間は嫌いだが、ルーピンは好きだ」
「ありがと」
そういえば、いつも辛いと思った時には傍にルーピンがいた。
ふとしたときに隣に居るこの男の前でだけ、らしくもない弱音を吐けたし、泣けた。
優しい人間。何度も、泣きながら感謝した。
「好きなんだ、君が」
「ああ」
「戸惑いもあったし恐かった、でも、それ以上に嬉しかった。人狼のぼくを受け入れてくれる人がいて、ぼくの為に泣いてくれた優しい人が存在して。同情でも哀れみからでもなくて当たり前だって言ってくれて……ぼくの卑屈な世界を変えてくれた」
背中に爪を立てられた。ローブが強く掴まれている。
なんて声をかければいいのか、判らなかった。おれは、それでも何かしなくてはいけないような気がして、ルーピンの首に腕を絡めて、また、ああとだけ呟いた。
「君を知りたくなった。少しずつ知っていこうとしたら、いつの間にか好きになっていた」
無言でいると、頭上でルーピンが泣きながら笑う。
「ぼくは君が好きだよ、」
ルーピンの指が顎にかかる。同時に、背後にある部屋の扉が開く音がした。
『……』
おれを含む三者の、在り得ない程の長い沈黙。
ルーピンと部屋の扉を開けた人物の心拍数が急上昇しているようだった。
「じゃ……邪魔をしたな」
始めに言葉を発したのはドアを開けたスネイプ。
そのまま部屋を出て行こうとして、おれが呼び止めた。ルーピンがはっとしたようにおれから離れ涙を拭う。スネイプが文句を叫び散らしながら後ろ向きに部屋に入ってきた、おれの呪文により。
「何をするんだ!?」
「怪我人を放置できるか」
「今までのルーピンとの状況から急にそんな冷静な受け答えをするな!」
「怪我をしている事実は否定しないんだな」
「口の中を切っただけだ! もう治った! 大体お前は何故そんな事まで判るんだ!?」
「確か今日の午後は校医が出張だと記憶しているが、自力で治療できたのか?」
「お、お前という奴は……どこまでマイペースな……!」
「えっとさ……セブルス、取りあえず君が一番冷静になろう?」
まだ赤い顔をしているルーピンが、おれとスネイプの間に割って入った。
するとスネイプは今度は訳のわからない理由でルーピンを責め始める。ルーピンは苦笑しながら受け答えをしていた。
「スネイプ。取りあえずこれを嘗めておけ、おれの調合した薬だ」
「薬というより、飴に見えるのだが」
「飴だが薬でもある。よく効く」
「いや、お前の調合した薬が効くのは知っているが。何故飴なんだ?」
「口内炎になったルーピンの頼みで作ったついでに、自分用に」
そう言うと、スネイプはかなり複雑な表情をして、飴を口内に放り込んだ。
「……ミント味か、好きなのか?」
スネイプがそう言うと同時に、赤い顔をしたルーピンが吹き出す。
多分だが、おれとルーピンのしたドロップの会話を思い出したのだろう。
「……」
「、どうしたんだ?」
「いや」
よく考えると、スネイプも、だろう。
ルーピンとは違い、スネイプの前だとおれはどちらかと言うと強がる傾向があった。
スネイプの前で弱音を吐いた記憶はあまりない。その代わりに愚痴がもの多い気がする。
そんなつまらない事にも、スネイプは一々反応を返してくれる。時には怒ったり、怒ったり、怒ったり、大概おれかその場に居ない第三者が怒られるのか叱られるのかしている。
おれの事を思ってくれての事らしいので、きっと叱ってくれているのだろう。
それとも、おれが怒る過程を経ないでキレて暴れるので代わりに怒ってくれているのかもしれないが。
形は違えど二人はおれを思ってくれていたのだろう、そんな事に今頃気付くなんておれはとても馬鹿で、けれど、それでも気付けた事がとても嬉しい。
「何なんだ、急に黙って」
「おれは、スネイプのことも好きだ」
「は!? 何なんだお前のそのぶっ飛んだ思考回路は!?」
「ああ、まあ、セブルスにはそう思えるかもしれないけどね」
真っ赤になって完全に混乱しているスネイプを宥め、今までの経緯を話すルーピン。
未だに眠り続けている子猫を眺めながら、少しずつ大人しくなっていくスネイプの声のトーンにおれは耳を傾けていた。
しかし、その声もやがて消え、やがて聞き取れないくらいのボソボソとした会話の後、ルーピンがスネイプの肩を重々しく叩いていた。
振り返ると、何故か二人とも顔が赤い。そしてルーピンの視線が同情じみている。
一体何を話していたのだろう。あまり気にはならないが。
「なんだ、二人ともおれを眺めて」
「うん、あのね。セブルスもの事好きなんだって」
「ルーピン貴様言った傍から!?」
「別にいいじゃないか。本人だけ知らないのは可哀想だよ、どうせ今日の夜か明日には」
「喧しい!」
何をしたいのかよく判らない二人から視線を背け、腕の時計を見下ろした。
……授業時間を10分過ぎている。
「あれ、どうしたの?」
「10分前に授業が始まっている」
おれの言葉に二人の動きが止まった。
ゆっくりと顔を見合わせて、珍しくスネイプから口が開く。
「午後の授業は全部パスする」
「ぼくもそれに賛成、今日は三人で一緒にいよう」
どうやら、おれに拒否権はないらしい。
別に、二人の決定事項を拒否するつもりもないし、進級できるのなら何日無断で休もうと構いはしないのだが。
ただ、珍しかったのは確かだ。
「だって、今日はがぼくらを好きだって言ってくれた日なんだから」
「違う、好きだと気付けたんだ」
「なら尚の事授業なんかに出ていられるか」
「……おれがルーピンとスネイプを好きなことは、そんなに重要なことなのか?」
その問いに、二人は示し合わせたように同時に首を縦に振る。
ふと、二人の反応に胸の奥に引っかかりを感じた。すぐにそれを口に出す。
「おれはルーピンとスネイプが好きだが、愛しているわけではないぞ」
好きという感情は、家でも沢山向けられた。
けれど終ぞ人間として愛しているという感情は向けられなかった。
だからおれは愛するという行為がどのようなものなのかが、理解できない。
「おれには、人間の愛し合い方が判らない」
それは、二人も知っている事だ。
ただ、それを忘れておれの感情に応えられるくらいなら、いっそ嫌いでいてくれた方が楽だと思った。おれにとって、好きは、好きという感情でしかない。
好きという感情を蔑ろにしている訳ではない。けれど好き、と愛する、はおれにとっては全く別次元のものなのだと、それを理解して欲しかった。
「大丈夫、君の事を忘れてなんかいないよ」
おれの心に気付いたのか、ルーピンが抱き締めながら言う。
「でも君は消え入りそうな声でこうも言ったんだよ。人間の愛し方を教えて欲しいって」
「ルーピンに向かって言った訳ではないのか」
「同じ事だよ、セブルス。誰にも聞こえないように、は言ったんだ」
ね、と耳元で同意を求められる。
返事をしないでいると、スネイプがおれの頭を撫で、短く続けた。
「ポッターは思い違いをしている」
「そう、君は優しいけれど、人間が恐いから、人間に近寄って欲しくないから、混乱してどう接していいのかが判らなくなっちゃうんだよね。他人に優しくして欲しいとか、そういう次元の問題じゃないんだ。だからかな、今までずっと思ってたんだ」
リーマスの言葉に宿る意思が、強くなった。
「が好きだって言ってくれて、決めた」
「何を、だ?」
「僕たちが教えるから、これから覚えればいいのではないか、とな」
スネイプの言葉と冷たい手の平が俯いたおれの頬をなぞった。
二人は、とても優しい声をしていた。
「まだ遅くないから、諦めないで。ぼくらが傍に居るから」
「少しずつでも構わない。だから、ぼくたちを信じてくれ」
「人間を愛してみよう?」
「自分自身を愛する方法を探してみないか」
優しい、言葉。
慣れないものだからだろうか、それがとてつもなく、痛いものだと思った。
「、泣いているのか?」
「泣いてなんか、ない」
「セブルスは酷い男だね、こういう時は無言で胸を貸すものだろう?」
「それは女に対しての、しかも古臭い行動だろう。は男だ」
「ぼくは今まで君の言う、その古臭い方法でを慰めてきたんだけど?」
「ルーピン、スネイプ」
名前を呼ぶと、二人は会話を止め視線を交わしてからそれぞれおれの手を取る。
右の手の平には温かい、左の手の甲には冷たい、柔らかい感覚。それが唇の感触だと理解できたのは、おれが顔を上げて正面にいたスネイプの姿を確認した後だった。
「好きだよ、」
「好きだ、」
両耳に囁かれ、体温が上昇する。
身体を強張らせると、二人に抱き締められた。
内側の空っぽだった部分が感情と涙で溢れ胸が締め付けられる感覚に、おれの口からは二人への次の言葉が出てくることはなかった。