凍えた指先で
昔からその手の気配には敏感だ。些細な悪意とか、憎悪とか、おれの住んでいた所にはそんなものは全くと言っていい程なかったから。
「どうした、」
部屋を出ようとするとスネイプがそう尋ねてきた。
返答せずに部屋を出ると、スネイプも付いてくる。相変わらず律義というか何と言うか、何も話さないおれに着いてくるなんてお人好しというか。
「いいのか勝手に、ルーピンは」
「すぐそこまで来ている」
「……いつも思うんだが、何でそんな事が判るんだ?」
怪訝とも不可解とも取れる表情と口調で話してくるスネイプ。口で話した所でこんな事、通じはしないだろう。
「感覚」
「聞いたぼくが馬鹿だった」
それでも口に出してみると、案の定こう返された。
仕方がない、事実なのだから。
世の中なんて机上の論理では到底説明できないような事がそこら中にある。魔法だって。現代科学からすれば証明不可能な存在の一つだろう。
いや、現代科学さえもその自身の存在証明は不可能だろうが。
結局そんなものだ。大体、存在証明なんてそれ自体が馬鹿馬鹿しい。存在しているから存在している、生きていくのにはその証明すら必要ないだろう。
「あれ、もセブルスもどうしたの?」
丁度廊下の突き当たりでルーピンとはちあった。
腕にはパンが数個とジュースの大瓶が一つ、甘い菓子、特にチョコレート菓子が多数。
「……ぼくは甘いものは苦手なんだが?」
「心配しなくていいよ、これぼくらで食べるから。セブルスはこっち」
ぼくら、ということはおれも含まれているようだ。
そんな事など、今はどうでもいいが。
「どうしたの?」
「……尾けられたな、ルーピン」
「え?」
慌てて遠のいていく複数人の足音。
ブラックとポッターだろう、透明マントの下から二人分の足が見えた。さっき感じた嫌な気配の正体はこれか。
「あー……ゴメン」
「別に構いはしない」
奴等が何を考えているのか、興味はない。
どうせまた、くだらない事だろう。
「?」
「……気分が悪い、先に寝る」
顔を覗き込んでくるルーピンにそう言い、スネイプにはロクに挨拶もせず別れる。
おやすみ、と二人の声が聞こえた気がした。けれど、もしかしたら気のせいなのかもしれない。胸がムカムカとする。咽喉のすぐ奥で異物が詰まる感覚。
誰もいない廊下、トイレに駆け込んで咽喉に指を突っ込んだ。
嫌な音、嫌な匂い、嫌な味、嫌な感覚。涙が出た。
苦しい、けれどもう慣れている。
人間の毒気にあてられこうなるなんて、いつもの事だ。吐いてしまった方が幾分か楽だからそうしているだけで。
それに、多分気が緩んだんだろう。あの仔猫たちに触れて、久々に安らいだ感じがした。そういえば、最近は浅い夢ばかり見ている。
一人でいる時以外で、安定した眠りを得た記憶なんてない。
長く寮に居過ぎたか……今日は別の部屋で寝た方が。
「……」
吐き出す物が無くなり、嫌な音も消える。杖を一振りすれば、嫌な匂いは消える。口を濯ぐと嫌な味は消えた。けれどこの感覚だけは、今も残っている。
水を掬って顔に叩きつけると、痛い程冷たかった。それでも、生理的に出た涙の跡は消えただろう。
濡れた手を鏡について、そこに映っていたおれの顔はまるで人間そのもの。姿形、雰囲気までも、そうなってきてしまった。
これでは家の皆に心配されるのも頷ける。同時に、嫌悪されなくてよかったと安心した。彼等は人間を快く思っていないから。
住家を追われた存在たちが、己の命を奪われた存在たちが、被害者を快く思うはずがない。許せないからこそ、存在していたいからこそ、彼等は存在し続ける。
「……冷たい」
指先から曇る鏡に滴が伝う。手を拭うと少し温かいもう片方の手が触れた。
「……」
以前、何度か感じた事がある。そんな気がする。
大きくて、温かい手を繋いで、誰かに手を引いてもらった記憶がある。きっとそれは、強い願望から現実と幻想の区別のつかなくなった浅ましい虚構だろう。
人間は、嫌いだ。なのに、人肌が恋しいなんて馬鹿げていると思う。
それでも、誰かに抱き締めて欲しかった。
矛盾した感情だが、事実ではある。そしてこれから先も、きっと死ぬ間際までこんな感情を抱えておれは生きていくのだろう。
「……いつまでそうして見ているつもりだ」
「あ、やっぱりバレてた?」
鏡の中の扉から現れた二人の黒髪。
おれよりも頭一つ大きな体つきをしている、同じ寮で同じ部屋の二人。
「いや実はね、今日はシリウスが君に愛の告白を」
「ジェームズ吊すぞ」
ブラックの言葉を無視して榛色の瞳が笑った。多分、愉快そうに。
「はいはい、実はね。君さ、猫かなにか拾ったでしょ?」
「それがどうした」
袖で口を拭いながら言うと二人が顔を見合わせる。
何なんだ、一体。
「ううん、それだけ」
食えない、笑顔。
その隣の不快そうな…表現し難い表情。
この二人は……二人でいる時が一番嫌だ。ポッターとブラックは二人でいる事で、人間臭くなる。
それでも、普通の人間よりは余程、おれが平気でいられる部類だが。
「くだらない事でおれに近付くな」
「君にとってはくだらないコトでも、ぼくらにとっては大事なコトなのさ」
「お前たちの、ではなく、ブラックの、ではないのか?」
「鋭いね。ぼくの心を読んだのかな? それともシリウス?」
読んだわけでも、判ったわけでもない。元々、おれにそんな能力はない。
ただ、今までずっとポッターはブラックに便乗をしながら、どこかストッパーの代わりをしていたから、今回もそうなのだろうと。嫌な気配は、ブラックの方からしたから、ただ、それだけだった。
「……」
「うーん、だんまりか」
「ジェームズ、そんな奴放っておいてさっさと行こうぜ」
「そう急かすなってシリウス。ぼくはもう少しと喋っていたいんだから」
ポッターの言葉に、ブラックは舌打ちをする。
「おれは先に部屋に帰ってる」
「了解」
怒気のような、嫉妬のような、不快な気分をぶつけてブラックはポッターから離れた。
「ブラック、人にものを尋ねたい事がある時は他人の口を使わず自分の口を使え」
「……!」
怒気が、膨れ上がる。
ルーピンやスネイプにいつも一言多いと叱られるのは、多分これだ。
感じた事を口に出すつもりはない。ただ意識せず自然と出てしまうだけで、そちらの方が始末に負えないとは判っているんだが。
矢張り、少しは努力すべき事なのだろうか。おれのことでルーピンとスネイプにいつまでも迷惑をかけるのは気が引ける。
「シリウス、ストップ。さすがにトイレで杖はまずいと思う」
「ジェームズ!」
「いや、ね。ぼくはトイレの床に伸びた君を担ぎたくないって言ってるんだけど、衛生的にお断りしたい気分にさせてくれるから」
「……」
ブラックが杖を下ろすと、おれもポケットの中の杖を手放す。
乱暴な音で扉が閉まり、ブラックを見送ったポッターは肩を竦めてまだ笑っていた。この男が曖昧に笑うと、どこか人間味が薄れる気がした。
「も相変わらず口が悪いねえ」
「……」
いや、人間でないわけではない。
ただポッターがそう笑うと嫌な人間味が少しだけ薄くなる。
ブラックも、おれが目前にいなければ屈託なく笑っている。ただポッターと違い、それが不快な事には変わりない。
結局、人間という存在そのものが生理的に駄目なんだろう、おれは。
社会不適応者と罵られ当然だろう。
「そんなのじゃ、いつまで経っても誰も優しくしてくれないよ?」
「優しくされたいなら優しくしろ、と?」
「うん、そう。」
ポッターの言葉に、おれは久し振りに笑った。心から、笑った。
「おれは優しさが欲しいと言ったのか?」
「……」
おれの嘲笑に、予想外にもポッターは怪訝そうに俯く。
もっと、何か言い返してくるものだと思っていた。
「……は優しくされたくない、って?」
「優しさとは何だ」
「君が優しいって感じれば全部優しさになるよ。あ、って事は全部そうじゃないんだ」
一人で納得して、ポッターは最後にこう言った。
「つまんない人間だね、ってさ」
「今更だろう」
用意しておいた言葉を返し、それ以上の言葉がないと判るとおれはそこから立ち去った。
不快な気分は消えた、代わりに心と感情が麻痺したくらいで。このくらい、すぐに収まる。収まったら、また、不快な気分に晒されるのだろう。
闇色の闇と、雪色の雪を窓から見上げて、かじかんだ指を組み吐息で暖めた。
雪と風が窓ガラスをせわしなく叩き、視線をそこに持って行くと一人で手を暖めているおれの横顔が目に映った。
他人の目には、きっと同じようには映っていない。
「ただ、おれは……」
優しさなんて要らない。誰かに、誰でもいいから。人間に愛して欲しいだけだった。
人間は嫌いなのに愛して欲しい、愛し方を教えて欲しいと思うのは、矛盾と滑稽に満ちていると判っている。それでも、おれは人間だ。人間として生まれた以上、生きている間は人間以外の存在にはなれない。
そう思うと、孤独に堪えられなくなってしまう。屋敷はともかく、こんな、同族ばかりが存在する中では、特に。
同族から愛されなかったから、愛し方を知らない。なにが人間としての愛なのかも解らない。だから人間の愛し方を、人間からの愛の受け止め方を、教えて欲しいだけ。
けれど結局、人間の愛が何なのか理解できない限り、きっとおれはそこにすら辿り着けずに弱って、少しずつ、確実に死んで行くのだろう。