曖昧トルマリン

graytourmaline

抉られた脳髄

 音を立てて本の山が崩れた。
 ぶつけた肘がじんと痛む。
 無言で席を立って仕方無く片付けようとしゃがむと、その上にまた本の雪崩が降り注ぐ。
「……今日は厄日か?」
 全身の至る箇所が鈍く痛んで、涙が出そうだった。
 嫌なことばかりが頭の中をぐるぐると回ってまた吐きそうになる。早く全部忘れればいいのにと、くだらないことばかり考えてしまった。
 溜め息と重なるように軽い扉の開く音がして、

 息を切らして入ってきたのは緑の瞳をした、少年だった。
 合い言葉がないと通れないはずの扉は開いていて、一体誰がいつのまに解除をしたのだろうとどうでもいいことばかり考えてしまう。
「何しに来た?」
 本に埋もれたまま感情のない声でそう問い掛けると、杖を一振りして本を片付け何事もなかったように椅子に座り直した。
「帰る前に、に、聞きたいことがあるんだ。どうしても知りたいことが」
「……何を?」
にとってのダンブルドアを」
 はっきりとした、意志の強い口調。
 それを嘲笑うようには深く椅子に腰掛け、縦積みされた本を一冊取った。
「さっきとは随分言い草が違うじゃないか」
「それは」
「おれを許さないんじゃなかったのか?」
 祖父に会いに行かない自分を棚に上げて相手を憎んでいるおれを、そう言うの表情が自虐的に見える。
「会いに行かなかった、なら……でも、は、本当はダンブルドアに会いに行けなかったんじゃないの?」
 理由を知りたいのか、そうに訊かれた時に違和感を感じた。
 会いに行かない理由ではなく、会いに行けない理由があったのではないかと。
「だったらどうする」
「なん、でそうやって! 誤解させるような事ばかり言うの!? なんで、そうやって嫌われようとするんだよ!」
「理由があるから」
 分厚い紙の束が閉じる音。
「ハリーの知りたい事がその理由の一つだからだ」
「……ダンブルドアと何があったの」
 その理由は、きっと今のに繋がるものだろう。
 今のも少なからずダンブルドアを憎んでいるのだから。
「それを知ってどうするんだ?」
と、未来のと一緒に暮らしていきたいから。でも、知らないままだときっと暮らしていけないと思うから」
「未来の、おれか」
 呟いた言葉とともに殺気じみた気配が消えて、警戒を解いたが不器用に笑って椅子を勧めた。
「おれにとってのアルバス・ダンブルドアは、特別な人間だった」
「今は、憎んでいるのに?」
「特別な感情を抱いていた人間に失望させられると、反動が大きい」
 埃っぽい指がテーブルの上で組まれて、言葉がその上に零れる。
「自分でも気付かないくらい強く望んでいた。あの男なら、おれと家族になってくれるんじゃないかって。ホグワーツに向かう汽車の中で」
 そこで初めて、の境遇を思い出した。
 彼は、この当時のは記憶を改竄されている。
「おれは両親の顔も知らない」
 目の前のの言葉にはっとした。
 彼の言葉は、記憶は全て偽りだとは、今はまだ、或いはもう、言う事が出来ない。
「祖母がおれを育ててくれてはいるが、愛してはくれない」
「……」
「家には、人間は祖母とおれしか住んでいなくて、その外に出る事は絶対に許されなかった。誰からも愛されない、隔離された空間をその時は惨めだとは思わなかったし祖母の事を家族だと思えた」
 虚空を見つめる瞳に、そうじゃないと伝えたかった。
 思い出したくもないけれど、彼はハリーの両親を、ジェームズとリリーを殺した人間から愛されている。それを忘れているへ、誰かに愛されている事を全て失ってしまったへ。
 それでも、ハリーは伝える事が出来なかった。例え、この記憶が失われようと。
「外の世界に初めて出て、祖母以外の人間を見て……自分に本当の家族がいるのかどうか疑問に思った。駅のホームで別れを惜しんでいる家族を見て、人間はあんな表情をするのかとその時初めて知って」
、君は」
「……なんだ?」
「ごめん。なんでも、ないから……続けて」
 今ここであの男の事を話したら、歴史は変わってしまうのだろうか。
 もっと別の、の行動しだいで英雄が存在しなくなる歴史が作られるのだろうかと、考えてはいけない事を考えてしまう。
「あの家が箱庭では無く牢獄なのだろうかと疑問に思って……けれど、もしかして、祖父なら、おれを家族として認めてくれるんじゃないかと」
 ギュっと拳を握ったに、ハリーは真実を話すべきか戸惑った。
 話しても何も変わらないかもしれない、けれど話すべきなのだろうかと、迷う。
「どう……だったの?」
「期待しただけ無駄だった。あいつにとっておれは……いらない人間だった」
「いらない?」
「工作員を見るような目で、何かに警戒されていた。それでも一応は、一生徒としては見られていたが、家族として接してはくれなかった」
 今世紀最高と呼ばれた魔法使いが会いに来れないはずはないのだから、そこで気付くべきだったのかもしれないとは自嘲した。
 下手な希望を持ってしまったから、憎むしかなかった。
「手を、伸ばしたんだ」
「……?」
「何度も……何度も、手を伸ばして家族になれないのかと縋った。その度に拒絶されて、どれだけ繰り返しても無駄だと諦めて、今度はこちらが拒絶を始めたら、このザマだ」
 握った拳が震え、瞳に壮烈な光が疾る。
 それなのに表情は今にも泣きそうで、ハリーはその小さな体を抱き締めた。
「人間なんて、大嫌いだ。好きになんかなれない」
……もう、いいよ。十分、納得出来た」
 きっと、の望んでいたのは本当の自分を愛してくれる誰かなのだろう。記憶をなくしても、彼は欠落を埋めるためにトム・リドルの代わりを探している。
 自分がもし、すべての記憶をあのダーズリー一家の家にずっといた記憶に書き替えられたら、きっと同じようにロンやハーマイオニー、シリウスやリーマス、ダンブルドアそれにのような存在を探してしまうだろうとハリーは考える。
 それだけ彼にとって、トム・リドルは必要な存在。
 それが、嫌だ。けれど、
「だから、強がらないで」
 幸せになって欲しいと願う。
「……ハリー。一つだけ、教えてくれ」
「なに?」
「ハリーの知っているおれは……今、幸せか?」
「うん、幸せだよ」
 それは残酷な嘘だった。
 今のはとても平和だけれど、きっと彼の望む幸せではないとハリーは思う。それでも、今は嘘をつくべきだと判断した。
「……よかった」
 耳元で囁かれたその言葉が、どうしても聞きたかったから。