とても凡庸でありきたりな、
ふとは立ち止まり、ゆっくりと今来た階段を見上げその先を睨んだ。
どうかしたのかとハリーが尋ねると、なんでもないように軽く返事をして何気なく視線を逸らそうとする。その刹那だった、何か鈍い音と、ガラスのような物が割れる音。
「……!?」
突然の出来事に息が詰まった。
ばしゃん、と床を汚した黒い液体。匂いで、それがインクだと理解できた。ガラスで出来たインク瓶の破片が足下に飛び散り、危なげに光っている。
「何が!」
けれど、それよりもだった。
ハリーは急いで彼の正面に回り込んで顔半分がインクで真っ黒になりシャツもローブも使い物にならない程汚れてしまった姿を見下ろす。
何気なく頬を拭った小さな手の平にはインク以外になにか赤い液体が混ざっているのを黒い瞳は確認して、細い溜め息をついた。
「、怪我……」
「支障ない」
そう言って彼はぼたぼたとインクを零す髪を欝陶しそうにかき上げ、割れてしまったインク瓶をしばらくじっと見下ろす。
しんと静まっていたはずの周囲から、クスクスという笑い声がハリーの耳に届いた。
ダドリー軍団にいじめられていた過去や、2年の時「スリザリンの継承者」として同じような、それ以上に嫌な感じのする反応を経験した事のあるハリーには、それが何なのかすぐにわかった。同時に、吐きだしたくなるような不快なモノが体の奥から滲み出てくる。
耳を澄ましたくもない、周囲の人間が何を言っているのかも聞きたくない。
「ポッター! ブラック!」
階下から普段学校で聞いていた声よりも高い声をした少年が憤怒の表情で上がって来るのが見えた。スリザリンカラーのネクタイをきっちりと締めた、セブルス・スネイプ。
その怒鳴り声を聞き付けたのか、更に下の方から鳶色の髪をした少年が急いで駆け上がって来た。
「! なんて格好を」
「ハリー、怪我はないな?」
心配する二人を余所に何事もなかったように言うに、ハリーは言葉を返す事もできず頷いてしまう。
「そうか」
「そうかじゃないだろう! 医務室に行くぞ」
ぐっと腕を引こうとするセブルスを振り払い、黒い瞳が怒ったように彼を威嚇した。同じように手を伸ばしたリーマスも獣のように体を離して視線を逸す。
ひやりとした物が、ハリーの背筋を伝った。
「一人で、行ける」
「頭を打っているんだぞ! 途中で倒れたら……おい、人の話を」
乾いた音をたててセブルスの手の平が弾かれる。背を這うような冷たいもの周囲から一点に集められているのが理解出来た。
周囲の人間の視線だ。敵意や悪意がに向かって集中している。
も、それに気付いていない訳はないだろう。
「なんだこの騒ぎは」
「いつもの事です、迷惑かけてすいません。フィルチさん」
いつの間に現れたのだろうか。ハリーの背後に立っているホグワーツの管理人に向かって小さな少年が頭を下げると、男は些か納得したようにして「早く医務室に行きなさい」とだけ言ってガラスを片付け始める。
それを合図にしたように、周囲の人間は何事もなかったように、いや、何人も口許に笑みを浮かべてその場を去ったり通り過ぎたりして行った。
擦れ違う生徒の中で、グリフィンドール生はリーマスに、スリザリン生はセブルスに「あんな奴心配する事ない」などと言われて不快な表情を浮かべているのをハリーは見た。
「ねえ、セブルス」
ゆっくりと階段を下りながら最初に口を開いたのはリーマスだった。
「にあんな事したの、例の馬鹿共?」
「後ろ姿しか見ていないが、ぼくが見間違えるはずない」
「そう」
背後で戸惑っているハリーに気付いたのか、リーマスは少し疲れた表情をして彼を手招きして再び階段を下り始める。
左にリーマス、右にセブルスが歩き不思議な感覚に囚われたハリーは二人に挟まれたままその会話をただ静かに聞いていた。
「ハリー、はあの二人に気付いてたみたいだった?」
「……うん、気付いていたと思う。一回立ち止まってあそこら辺見てたから」
ハリーの指差した方を見てリーマスは「ふーん」と冷たく頷く。
「わかった。でもハリーに怪我がなくてよかった、かすり傷でもあったら今ごろ二人の半死体がここら辺に転がっていて、は今度こそ退学処分食らっていただろうね」
「……え?」
「の事だから下手に動いてハリーに当たる危険を避けたんだよ、彼が甘んじてあの二人の悪戯を受けるなんてそれ以外考えれないし」
を信頼しきっているリーマスの言葉にセブルスは軽く頷いて手の甲を擦った。音の割にはそれ程ひどく赤くなってはいない。
大広間へと続く階段に出た三人はもう人も疎らの廊下をゆっくりを歩いている。
「セブルス。手、大丈夫?」
「ああ、音が派手だっただけだ。痛くも何ともない」
「リーマス、何では」
「彼は、ぼくらと親しいと思われたくないんだろうね」
参ったように肩を竦めたリーマスはハリーの目を見ずに言葉を続けた。
「巻き込みたくないらしいんだ。わざと人前で冷たく振る舞ってる」
「じゃあ、今までずっと? あんな風に怪我して」
「それはなかったよ。が攻撃を甘んじて受けるって事が稀なんだ」
そう言うとリーマスはようやく顔をあげて、口端が上に吊っているだけの一切笑みの含んでいない表情で誰かに向かって言う。
「は臆病なだけで、手を出さなければ何もしてこないのに、あんな事するから。そのうちぼくが我慢できなくなってキレるかもね」
「ルーピン」
「セブルスだって人の事言えないでしょ?」
の事心配して大声出したくせに、とリーマスに言われてセブルスは黙る。ハリーはただ二人の話を聞くだけで俯き加減で歩いているとそれに気付いた鳶色の髪の少年は「助けられないんだよ」と笑いかけた。
「頼ってくれない、助けられないんだ。ぼくたちの事ばかり考えて、いつだっては自分を盾にする……なのに、止められない。彼はいつも、怖がって逃げてしまう。ぼくも、あいつらも、きっと本当は一緒なんだ」
「リーマス、そんな事は」
「あるよ。あるんだ……朝食、行こうか」
小さな溜息のようなものをついたリーマスは二人を促して階段を下りる。
ふと外を眺めると抜けるような青空があった。鬱陶しいほど晴れていて、今日も一日、何かが起こりそうな予感がした。