曖昧トルマリン

graytourmaline

臆病な狼少年

「なんで」
「なんだ?」
「なんで、が泣いてるんだよ」
 頬を伝っていた滴を袖で拭いながらがリーマスに言う。
「おれが涙を流してはいけないか?」
「……生まれてきた時以外は泣いたことのない人間だと思ってた」
「おれも人間だ。泣くことくらいあるし、頻度は少ないが謝りもする」
 重ねていた手を離しながらはゆっくりと息を吐いて立ち上がった。
 正面から見て始めて知ったが、この少年は、リーマスが思っていたよりもずっと小さく、ずっとひ弱に見えた。
「でも、なんで泣くんだよ」
「伝染った」
「誰から。ぼくは泣いてない」
「そうは見えない」
 そう言って薬や包帯を片付け始めたがなにを言ったのか、リーマスは理解出来ずにいる。
 大体、なんで急にと会話をする気になったのか、彼にはよく判らない。ただ、話してみると、意外に楽だったとは思った。
「ぼくは泣かない」
「そうでないと、両親が心配するから?」
「……」
「いいな、そういうの」
 返された言葉が、微かだが憂いを帯びていた。
?」
「戯言だ、気にするな」
 少しだけ赤くなった目を擦りながら、小さな箱を戻しに奥の方へと歩いて行く。
 彼は自分が人狼だということを知っているようだった。だから、泣かない自分の代わりに彼が泣いたというのだろうか。それは、リーマスには愚かに思えた。
 ただ、ポツリと漏らした、の言葉が気になる。
「もういいだろう、寮に戻れ」
 そう言って戻ってきたの表情と口調はいつもに戻っているはずだった。
 けれど、どこか違和感がある。いや、本当のを見てしまったから、普段の、例えば虚勢を張るに違和感を覚えてしまったというのが、正しいのかもしれない。
「なんで、ぼくを助けたんだ?」
「あいつは口が軽い。迷惑が飛び火するのは面倒だ」
「君はぼくが……人狼だと言うことを?」
「同室になってすぐ。判らないはずないだろう。それに人狼特有の現象が大体一月前にも起こった。翌朝の怪我を見て、それで確信するなと言うのが無理だ」
 少しだけ戸惑いながら答えたは「もういいだろう」と言うように視線を投げ掛けるようにして、すぐに外した。
 それでも、リーマスは言葉を続ける。それは、最大の疑問だった。
「何で誰にもその事を言わなかったんだ?」
「……何故だと?」
 驚きの後、小さな体から発せられるその殺気に二人の間の空気がが震えた。
「お前が懸命に、そうなってまでここに居続けたいと願っているのに、どうしておれがその願いをたった一言で破壊する権利があると思えるんだ」
「……」
「そんな姑息な手段で人間を傷つけるほど、落ちぶれていない」
「でも、ぼくは人狼だ」
「だから何だ。この国の差別的な慣習など知ったことか。人の形を取る狼も、狼の姿に成る存在も、国に戻ればいくらでもいる。第一、人狼化は先進国内では明確な病気だと位置づけられているはずだろう。空気感染も飛沫感染もしない、血液感染する病気だ。お前のように月に一度進んで隔離されるような人間ならば危険も少ない」
 静かに、そして饒舌に激昂したその少年に、リーマスは返す言葉を失う。
 彼は、リーマスや周囲の人間が考えていたよりもずっと理性的で、優しい人間だった。ただ、うまく心や感情を伝える手段を知らなかっただけで。
 は、不器用なだけだった。
「なんなんだこの国は。嘘に塗れた偽善者共が多すぎる。自由だ差別撤廃だと謳いながらどいつもこいつも古臭い価値観に同意しなければ暴力と数で排除しようとする! なぜ放置してくれない、だから人間は嫌いなんだ!」
 目尻に、先程とは別の涙が浮かんでいる。
 言い過ぎた、と後悔をした。
「……ごめん、君の事、何も知らなかった」
 周囲の人間に忌み嫌われていたのは、彼もきっと自覚しているのだろう。むしろ、自分からそうなるように仕向けた感じもある。
 けれど、それはきっと人間に対する恐怖から。リーマスも、同じではないけれどその気持ちは分かるつもりだった。だから彼は怯え、ただ笑うことに努める、はそれが出来ないだけで。
「君は、不器用なだけなんだね」
 そう言って、手を伸ばせば届くの頬に触れようとする。
 伸びてきた包帯だらけの腕に、彼は過敏に反応して数歩後ずさると、瞳に警戒の信号を点し、威嚇をしたきた。
 腹立たしかったその行動も、今では愛しく思えてしまうから、言葉と涙というものは不思議なものだ。
「君にとってぼくは、ただの人間?」
「……ああ」
 急に視線が優しくなった目の前の男に、は戸惑いがちに頷く。
 長い間、極力人間を避けて生活してきた彼にとって、肉親の祖母以外でこれほどまでに会話をすること事態が信じられないもので、どう返せばいいのか困惑していた。
 なぜこんなにも言葉が柔らかく優しくなったのかも、わからない。
「ぼくが人狼だと知っても?」
「だからと言って何か変わるのか」
 言い聞かせるようにではなく、純粋な疑問としてはリーマスに言った。
 今まで会ってきた人間とは全くと言っていい程、価値観も考え方も違う少年が目の前にいる。思わず、問い返したくなった。
「人狼が怖くはない?」
「人狼としてのお前に恐怖を抱いたことはない。これからも、抱くことはない。人間としてのお前は……」
 溜め息のようなものを吐きだして、は目の前の人間と話すのを止めようとする。
 窓の外を眺めると外は随分と明るくなっていて、もう1時間もすれば大広間も騒がしくなる頃だろう。
「……もう行け、あいつらもそろそろ起き始める」
「うん」
「それと」
 俯いたまま、視線を合わせずにはリーマスに話しかけた。
「傷の、治りが遅いようだったら言え。治してやる」
「……ありがと」
 ツンと走った痛みを堪えて、リーマスは目を合わそうとしない少年に笑いかける。
 それ以上何も言わずに廊下に出ると、それほど寒くもないのに震えて吐き出した息が白かった。