月に棲む
その声はホームに入ってすぐの、少しだけ遠くの方で聞こえた。
「!」
ハリーはぱっと顔を輝かせ、この場に似つかわしくないスポーツバッグをぶら下げて相変わらずマグルの服装を好んで着ている男に走り寄った。
彼の傍らには誰もいない。シリウスは当然連れて来れないし、リーマスも先学期の事があって顔は出し辛いのだろう。
ジュニアが居ない事が少し気になったが、それでも人嫌い、人混み嫌いの彼が自分の為にこんな山のように人間が居る場所へと足を運んでくれたのがハリーは嬉しかった。
「本当に来てくれたんだ!」
「言ったろう、見送りに行くって」
少しだけ煙草の香りがする手にくしゃ、と髪を撫でられると今までの疲労が嘘のように吹き飛ぶ。
ウィーズリー家からマグルのタクシーの移動は散々で、しかも外は大雨に見舞われている所為でズブ濡れ。うんざりする状況だというのに、に声を掛けられて頭を撫でられただけで機嫌が良くなってしまった自身の安直さに笑う。
「何を笑っているんだ」
「ううん、何でもない」
頭の上に降ってきたのはいつものぶっきらぼうな声と、洗いたての柔らかくて温かいタオルだった。
「タオル?」
「おれの知らない所で風邪をひかれたら困る」
「じゃあ、が傍に居てくれるときは風邪ひいてもいい?」
「……それも困る」
無地のスポーツタオルで髪の水滴を拭いながら放たれた言葉に、は本当に困った顔をしてそう返す。
その反応に思わず吹き出してしまったハリーの頭を緩く握られた拳がコツンと叩いた。
「濡れてるのはハリーだけじゃないだろう」
「いつも思うけど、って本当用意がいいよね」
「別に、普通だろう」
「の感覚が普通だったらホームの中はタオルを被った人間で一杯になるよ」
防水加工が施されているスポーツバッグの中には洗濯され綺麗に畳まれたスポーツタオルが沢山あった。
きっとウィーズリー家やハーマイオニーの分なんだろうな、と考えはしたが口に出さずにいると、案の定から友人の分もあると告げられる。
「本当、用意が良過ぎるよね」
遠巻きに二人を眺めていた友人と、その兄妹に渡す間に、もビルとチャーリー、そしてモリーにタオルを手渡していた。
かなり意外な顔をしているロン、ハーマイオニー、ジニーに比べ、フレッドとジョージはみたいな人間が保護者だったらどんなに幸せだっただろうと嘆く演技をしている。
散々ハリーを羨みながらコンパートメントを探しに姿を消した双子に倣い、四人も幾らか温かくなった体で空いたコンパートメントを探し、荷物を放り込んだ。
そのまま回れ右をして急いで来た道を戻るハリーを、他の三人は呆気に取られた顔で見送り、互いの顔を見つめ合う。
「ああ、もう。やっぱり!」
途中、汽車の窓から見えたのはビルとチャーリー。そして一足先にコンパートメントを見つけた双子に囲まれただった。
彼の事を何もしらない人間には判らないがハリーは瞬時に判断した。彼の表情に困惑は見えても、嫌悪の類は見受けられない。
のプライベートスペースは常人よりも広範囲だ。その証拠にシリウスとリーマスがあの距離で話を始めようものなら距離を取れと容赦ない鉄拳が飛んでくる。
逆にハリーやジュニアならば、たとえ膝の上だろうがベッドの中だろうが笑って迎えてくれた。あんな困ったような表情だってしない。
何が言いたいのかというと、ハリーは面白くなかったのだ。
今になって親を他人に取られる気持ちが判るなんて、そう呟くとホームに飛び降りて真っ赤な頭に囲まれている黒髪の青年と視線が絡む。
「ハリー、速いな」
「走って来たから」
「床が濡れているだろう。危ないからもう走るなよ」
「うん。判った、が言うならもうしない」
水分を含んで重くなったタオルを返すと、真っ先に自分に気付いてくれた事に笑顔を浮かべた。
ハリーが何故笑っているのか理解できないのか、は首を傾げながらもまたその髪を撫で始める。その手付きから、彼も別れるのが名残惜しいのだと気付いたハリーは目の前の体に抱きつきたくなった。
流石にタオルで拭ったとはいえずぶ濡れの服でそんな事は出来なかったが、した所では怒る事はないのだろう。
「おれたちだって急いで会いに来たというのに」
「荷物投げて走ってきたというのに」
「姫はずるい!」
「ハリーだけずるい!」
「「貴方と別れるのが辛いのはハリーだけではないのに!」」
自分たちもそうやって優しく注意してくれと暗に言い放った双子の言葉は、当然彼らの母親の耳に入ってしまい優しいとは表現し難い怒鳴り声が響く。
ハリーはその様子をちらりと見て、こういった事にうっかりしているの所はロンと兄弟なんだな、と思った。勿論、口になんて出さない。
それに比べてこちらの兄は、とビルとチャーリーを眺める。
流石に年長者だけあって、二人の物腰は落ち着いていた。ハリーの後見人は年齢の割にアレだが、彼はこの際都合よくカウントしないことにする。
「ああ、そうだ。ハリーに渡すものがあったんだ」
冷たいハリーの手を握っていたはおもむろにそう言うと、どこからか手のひらに乗る位の小さくて黒い巾着を取り出して手渡した。
分厚くて柔らかい、高そうな生地を使用したそれの中には何か硬い物質が入っている。
「開けてもいいの?」
「ああ」
親指と人差し指だけで開くことのできる小さな口を開けて、指に触れた紐を掴んで引っ張り上げた。
巾着の紐と全く同じ複雑に編まれた白い紐の先には、透明度の高い黒い雫型の石がくっついている。表面には凹凸があって、よく見てみると耳が上に伸びた動物が小さく彫られていた。
「お守り?」
「お守り。ハリーはよくトラブルに巻き込まれるみたいだから」
疑問で口に出した言葉と同じ言葉で肯定され、続いた言葉に違和感を覚えた。
「だって相当トラブル体質だと思うけど」
「それでも、ハリーほどじゃない」
「えー……」
絶対にの巻き込まれるトラブルの方が大事になると言いたげなハリーに、双子を叱り終わったモリーがロンやハーマイオニーと一緒にやってくる。
何を話しているのだろうと気にしているらしく、チャーリーが今の状況を説明すると、彼の母親がクスクスと笑いながらハリーに向かって告げた。
「仕方ないわ、彼は闇祓いだもの」
「それなら辞めたぞ」
そういった重要な事も相変わらず平坦な口調でそう返したものだから、周囲に一瞬の間ができる。 その間を置いて一番速く反応を返したのは、彼のそういった言動にある程度慣れているハリーだった。
「あ。そうなんだ」
「ああ。言ってなかったか」
「うん、聞いてないけど、そんなに驚くような事でもないし」
むしろ納得した、と言うハリーとその髪を撫で続けている。
口をぽかんと開けて事の重大さを言葉にしようとしている周囲とは違い、この二人はもう既に次の話題へ移ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って。ハリー!」
「なに。ハーマイオニー」
「何って、驚くような事でしょう?! そこは驚くところよ!」
「……なんで?」
が好んでその職に就いていた訳ではないことを知っているハリーは、ハーマイオニーやウィーズリー家の人々が慌てている理由のほうが理解できないらしく、不愉快そうな顔をする。
「なんでって……貴方闇祓いがどういう存在なのか知らないの?」
「ハリー、いいか。闇祓いっていうのはそう簡単に就ける職じゃないんだ。ごく一部の魔法使いにしかなれない、難易度の高い最高の職の一つなんだぞ?」
「、そうなの?」
「さあ、おれに振られても」
「っては言ってるけど」
特例で就いた誇りも愛着のない職業に、質問されたはかなりそっけない返事をした。
第一、はその職を与えられただけで、イギリスで行った任務らしい任務はシリウス・ブラックの追跡くらいしかない。
しかも、その任務は途中で放棄して、無実ではあるが犯人を自分の家に匿っている。バレれば一転して犯罪者の仲間入りだが、そういった危機感も特に抱いている様子がない。
「こんな人が闇祓いだなんて……」
「言っておくけどの能力が高い事は確かだからね」
「ハリー、そう下らない事で怒るな」
「下らなくない」
ハーマイオニーの言い草に険しい顔をしたハリーに、当事者のはというと困惑したままその肩をぽんと叩くに留まった。
「だってぼくを馬鹿にされたら怒るでしょ」
「……まあ、否定はしないが。しかし別に馬鹿にされた訳じゃないだろう」
「されてるの! は本当にどこか抜けてるよね!?」
「いや、そうは言ってもな」
本人たちにそのつもりはないのだろうが、まるで漫才のような会話をしながら額を傷跡を覆うように手のひらを滑らせると、エメラルドの瞳が不満のサインを示す。
言葉を探しているのか中々視線を合わせなかったがやっと口を開くことには、ハリーの機嫌は底辺のスレスレにまで落ち込んでいた。
それでも一切口を挟まなかったのは、その相手がだったからであろう。
「おれはしばらくハリーに会えない。だから、別れ際に見るのがハリーの怒った顔だと不安になる」
「……」
「こういう理由でハリーが怒ってくれるのは嬉しいんだが、今は怒るより笑って欲しい」
「……はワガママだ」
「知ってるだろう」
「知ってるけど」
そんな会話をしていると笑顔になってしまうのは、仕方のないことだった。
こんな言葉を彼に言わせることができるのは自分だけという優越感がそうさせている事には気付いたいる。が、ハリーはそれに浸ってもいいのだろうと判断した。
「そう言えば、は今年ホグワーツで何をやるか知ってる?」
「いや。第一、知ってたらハリーに言ってるだろう?」
固まっていた空気を解す為にまったく別の話題を振るが、はそれを疑問形で返す。
「何だ、は知らないんだ」
「知らない。が、もしも緘口令が敷かれているなら、ホグワーツ主催で他人の迷惑極まりない馬鹿騒ぎか、品性の欠片も存在しない催しでもやるのだろう。あるいはその両方かもな」
「随分酷い言い草だね」
ビルが振り、が返し、チャーリーがツッコミを入れる様子に、ハリーは何となく嫌な予感がした。
の勘はあまり外れたためしがない。特に嫌な予感はよく当たると本人が忌々しげに口にしたのを聞いたこともある。
「ぼく、今年はゆっくり過ごしたいな」
「あの様子だと難しいかも知れん」
何が行われるのか問い詰めている双子とロンを眺めながら、とハリーはそれぞれの心境で溜息を吐き出した。
そんな中でいよいよ汽笛がホームに響き、ホームに居た子供たちが次々と汽車へ乗り込んでいく。
それはハリーたちも例外ではなく、デッキへと追い立てられた。そこから顔を覗かせてモリーにお礼を言うと、すぎにに向き直る。
「ホグワーツに着いたら手紙出すよ」
「楽しみにしている」
「それと、クリスマス休暇はちゃんと帰ってくるからね」
「ああ」
「その時はの作ったクリスマスケーキが食べたい」
「判った、作っておく」
その二人のやり取りを見て、モリーとビルとチャーリーは苦笑に似た笑いを浮かべて目配りをし合ったが、それ以上は何かを言う暇もなくなった。
ゆっくりと動き出した汽車へ手を振るウィーズリー家とは対照的に、はスポーツバッグを下げたまま微動だにしていない。
やがて汽車はスピードを上げ始め、カーブを差しかかる頃には赤い髪の大人たちはホームから姿をくらませていた。ハリーの隣に居たはずの友人たちも、既にコンパートメントに移動している。
ただ一人、何をするでもなくホームに突っ立って、それでも自分の視界から駅が見えなくなるまで、ずっとそうして居たに、ハリーは窓に張り付いたまま彼に手渡されたお守りを握り締めた。