曖昧トルマリン

graytourmaline

魂の住処

「まだ傷は痛むか?」
「ううん、全然」
 まだ朝靄が消え去らない中、大きな木の根元にハリーを腰掛けさせ、その隣にも座り込んだ。
 ポケットから取り出した丸い物体を手渡され、それが直に彼の手作りのキャンディだと理解したハリーは喜んで一粒口の中に放り込む。
 ミルクの甘い味が口一杯に広がって、こんなキャンディは何処に行っても食べることなんて出来ないと言うとが嬉しそうに微笑んだ。
「あ、それで……」
「ああ。でも、ちょっと待ってくれ」
「……?」
 傷が痛んだ時の事を話そうとした言葉を遮り、鋭い眼光を壁の向こうにやる。
 初めはよく判らなかったハリーもが睨んだ先から聞き覚えのある声を耳にして思わず立ち上がり、壁の向こうまで走っていった。
 数秒後、先程友人と紹介していたロンとハーマイオニーを連れたハリーが元居た場所までやってきて、少し不機嫌そうに根元に腰掛ける。
「覗き見するくらいならこっちに来てよ!」
「いや、だって……」
 遠慮がちにを見つめる二人の視線には、相変わらず怯えの感情が見て取れた。
 確かに彼の見た目は少々怖い。厳つい訳でも、人相が悪い訳でもない。むしろ顔の造りはかなり美人の部類に入るし、身長はそれなりにあるものの体格は華奢だ。
 しかし人見知りが災いしているのか、どうにも他人の前では本来持っている柔らかさを引っ込めてしまうらしく、ある程度肝が据わった人物でないと彼と打ち解けれない難点があった。
 ハリーの場合は、彼自身の肝が据わっていたという事もあるが、恐らくリーマスとシリウスの馬鹿がつなぎの役割を果たしたのだろう。
「ハリー、いいのか?」
「うん、友達だから。本当はに相談してから話そうと思ってたんだけど」
「そうか」
 加えて、他人に対しての無表情と口数の少なさがその恐ろしさに拍車をかけていた。
 完全に怯えているロンと、それを表には出してはいないがと距離を置こうとするハーマイオニーをハリーは嗜める。
「前話したよね、は怖い人じゃないよ」
「ハリー。悪いが話を進めていいか」
「そうだった。ごめん、ジュニアが待ってるもんね」
「ああ」
 家に置いて来た息子を想って心配する表情も、何も知らない二人には不機嫌が増したように見えているらしく、更に距離を取られた。
 幾らなんでもそんなあからさまに避けたらは傷付くのに、そう呟いたハリーは額の傷を撫でてから黒い瞳に向き直る。
「傷が痛んだのは、確か土曜日だった……夢を見たんだ」
「何ですって!? ハリー、貴方……」
「ああ、もう。ちょっと黙っててよ、今はに話してるんだ」
 ハーマイオニーが捲くし立てる前に釘を刺し、絶句しているロンは放って置いた。
 たった一言でここまで慌しくなるなんてまるでシリウスみたいだと、ハーマイオニーとシリウスの二人に失礼な事を何の疑問もなく感じながら話を続ける。
「ヴォルデモートの夢を見たんだ」
 その名を告げると、今までぽかんとしていたロンは驚いた顔でハリーを見つめた。
 それは魔法界では禁句の固有名詞であり、に取ってはそれと違う意味での、心臓の裏を抉られるような痛みを連れてくる人間の名前だった。
「覚えている事を言ってくれ。文章でなくてもいい」
「……暗い部屋の、暖炉マットに蛇がいた。かなり、大きな蛇だったような気がする。それにワームテールの声と、ヴォルデモートの声がして」
 ワームテールという単語に、ロンとハーマイオニーが反応する。
 その名前が意味する真実を知っている二人は、がハリーの言葉を聞いても平然としている事に更に驚いた。
 思えば、ハリーは彼のことをあまり他人には話していない。
 彼がそういう事を嫌っているのを理解しているのもあるが、自分の余計な一言でお節介な人達まで連れ出してしまったら、それこそ足を引っ張ってしまうという思いがあった。
「ぼくを殺すって。そうも、言ってた」
 がり、と音がしてハリーの口の中にあった飴玉が砕かれる。
 それでもは眉一つ動かさない。
「あと、ヴォルデモートに男の人が殺された……結構歳の、おじいさんって呼べるくらいの人が」
「ハリー、頼むから『例の……っ」
 ヴォルデモートの名を聞くことが辛くなってきたロンが口を挟もうとするが、ハリーの隣で黙って話を聞いていたが無言で睨みつけると直に黙ってしまう。
 眉根を寄せるハーマイオニーも無視して、真っ青な顔をしているハリーの体に腕を回すと、その体を軽々と抱き上げて自分の胸の中に閉じ込めてしまった。
……」
 呟いた言葉に、返事はない。
 握り締めていた白い手を何処に持っていけばいいのか戸惑っていると、触れ合ったの体の脈が異常な速さで打っている事を知った。
 動揺している。当たり前だ、あんな事があってから、孤独を選んでしまうほど追い詰められてから、まだそれ程時間は経ってない。平静を装う事だって本当は辛いはずだ。
「大丈夫。大丈夫だ、ハリー。続けてくれ」
 縋ったのは一体どちらなのか、心の震えを一切感じさせない声を出した男の服を掴んでハリーは覚えている限りの事を言葉にする。
「その人の前に、女の人を殺したって……名前は、思い出せない。覚えているのは、これくらい」
「……判った。ありがとう」
「その夢を見たら、傷が痛んだ」
「そうか……」
 の語彙が少ない事を知っているハリーは、その平坦な言葉よりも背中を撫でてくれているてのひらから彼の心情を察した。
 心音はまだ少し速い。自分の事で手一杯のはずの彼にこんな事を相談するなんて、そんな罪悪感もあった。
 けれど、言わなければもっと傷付けていただろう。言わなければ察する事の出来ない事でも、何故知ることが出来なかったのかと自分を傷つける、はそんな人間だった。
 捉えようによっては彼はとても勝手な人間だ。けれど、ハリーはそれが嫌いではなかったし、彼なりの優しさを表現したものだと思っている。
 他人なんか知ったことではない。少なくとも、自分は彼を、のその性格を慕っていた。
「ハリー、話してくれてありがとう」
 小さな呟きがハリーの耳だけに入ると、それまで震えていた指先からふっと力が抜け、固まっていた表情が解けていく。
 彼は身勝手な人間だ。
 こうして自分の気持ちを汲んでくれるような、ハリーにとっては優しい勝手さを持つ人間だ。
 彼自身の考えている事は傍に寄らないと理解出来ないのに、彼は、少なくともハリーに対しては非常に鋭いものを発揮していた。
 離れたくないとか、申し訳ないとか、そういった感情は中々読まないくせに、寂しいとか、悲しいとか、そういった類の感情はこうやっていとも容易く読んで欲しい言葉を与える。
、これって……ただの夢じゃないよね?」
「でも、夢は夢だろ。ただの悪い夢さ」
 ようやくの眼光を解くことが出来たロンが横から口を挟むと、ハリーはむっと眉を顰めた。
 きっとロンなりの励ましだと理解したので、嫌な顔も見せずそれ以上の事も言わないでいたが、その感情を汲み取った手がぽん、ぽん、と背中を叩く。
「だって、夢を見たとき『例のあの人』はいなかったんだろ? 前に傷が痛んだときは『あの人』はホグワーツに居た―――」
「でも、傷跡が痛んだ三日後に『死喰い人』の行進と、ヴォルデモートの印が空に上がった」
「あいつの―――名前を―――言っちゃ―――ダメ!」
「それに、トレローニー先生の言った事、覚えてるだろ?」
「あんなインチキさんの言うことを真に受けてるんじゃないでしょうね?」
「君はあの場にいなかったから、先生の声を聞いちゃいないんだ」
「……ハリー」
 自分の膝の上で言い合いを始めたハリーに、は相変わらず感情が読み取れない声色で名前を呼んだ。
「あ……ごめん。
「咎めている訳じゃない」
 膝の上から遠慮がちに降りていくハリーは、友人の前でに甘えていた先程までの状況を思い出し顔を赤くした。
 逆に、の機嫌を損ねたと思ったロンとハーマイオニーは、顔色を少し青くしている。
はどう思う? がただの夢だって言うなら、ぼく信じるよ」
 彼に全面的な信頼を置いていると雰囲気で語ってるハリーの態度に、二人の友人は顔を見合わせその返答を静かに待った。
「屋敷というのは、近くに墓地のある。蔦に覆われた……手入れがされていない屋敷だったか?」
「汚くて古そうな感じの屋敷だったけど。墓地や蔦に覆われていたかは……」
 夢の中には屋敷の外観までは出てこなかったと告げると、今度はリビングからキッチンから、まるでその屋敷を知っているような口調で述べ始めたに、ハリーは朧になっている記憶をどうにかして引っ張り出して宙を見つめる。
「ドアの両側にある大きな格子窓、階段を踊り場を右に曲がった先……」
「その廊下の一番奥……そうだ、そこでヴォルデモートを見た」
 はっとした顔をしているハリーとは対照的に、は苦しそうな表情をしていた。
 何故彼が自分の夢に見た屋敷の内部を知っているのだろうか、その答えは、どれだけ探しても自分の中では一つしか思い浮かばない。
は、そこを知ってるの?」
「恐らくな」
 ロンやハーマイオニーからは見えない位置で白い手が震えを止めるように拳を作っていた。
 実際には自身もその屋敷が一体誰のものなのかはよく知らないでいる。ただ、そこは彼にとって忘れられない場所だった。
 全ての記憶を取り戻した自分に、ヴォルデモートが、リドルが、だけが知っている優しい声で手を差し伸べて「守ってやろう」と告げた場所。
 自分なしでは生きられないんだという現実を突きつけて、心の天秤を動かした場所。
 彼自身の持つ記憶の歯車を壊すことに、半ば同意した場所。
「……、行っちゃ駄目だ。絶対に、絶対にそこに行ったら駄目だ」
「おいおい、ハリー。何言ってるんだよ」
「この人は闇祓いなんでしょ、なら……」
「それでもだけは駄目なんだ!」
「……ハリー」
 珍しく感情の波を激しくさせた少年には暗い瞳を伏せて、爪が食い込むほど強く掴まれた腕を見る。
 この腕を振り解けるかと、自分の頭の隅に居た何かが囁いた気がした。
「大丈夫だ、ハリー」
「……なら、ちゃんと言って。は絶対に嘘を吐かないから、行かないって言ってくれたら信じる」
 絶対に嘘を吐かない、その言葉にロンとハーマイオニーたちは顔を見合わせるがは静かに頷いて、もしかしたら泣いているかもしれないハリーの頭を撫でる。
「判った。絶対に行かないし、独りで無茶もしない」
「約束してくれる?」
「ハリーと、おれの息子に誓おう」
 そこまで言うと、ハリーは掴んでいた腕を放して「絶対だよ」と念を押して立ち上がった。
「ぼく、そろそろ行くよ。も家に帰らなきゃいけないだろうし」
「……ハリー」
 結局何もいえなかったロンとハーマイオニーを連れて隠れ穴へ戻ろうとするハリーを引き止め、は「まだ結論付けられる段階ではないが」と前置きをして額の傷に視線を注いだ。
「その傷は、ヴォルデモートがハリーに近付いた時に痛むものだろう……きっと、それが肉体的なものであれ、精神的なものであれ」
「そう、なのかな」
「当然前例はないんだが……おれも、似たような呪いには、かけられているからな」
「……うん」
 そうだ、ダンブルドアにその呪いをかけられたんだ。
 切なそうに細められた目は、それ以上何も語らず伏せられる。
「じゃあね、
「ああ。九月一日に」
「……見送りに来てくれるの?」
「当然だ」
 何を当たり前のことを訊くんだと言いたげな表情に、ハリーはこれ以上ないくらい綺麗に笑った。
「ありがとう!」
 ハリーはそう叫ぶと、友人と一緒に隠れ穴へ走り出す。
 遠ざかっていく三つの背中を静かに眺め、心の傷を隠そうと二三度深呼吸をした。
「……帰るか」
 ハリーの安否と朝食を待ち侘びているであろう同居人たちと、自分を待ち侘びている息子のためには消えかけている朝靄を巻き込んで姿を眩ませた。