曖昧トルマリン

graytourmaline

髑髏と朽縄

 きっかけはヘドウィグが運んできたハリーからの一通の手紙。
 ケーキのお礼とウィーズリー家に行ってからの近況報告、それを微笑ましい内容の次に綴られていたのは「額の傷痕が痛んだ」という一文だった。
 詳しいことは何も書かれていなかったが、だからこそなのかもしれない。
 今すぐ隠れ穴に向かうと言い出したシリウスを何時も通り拳で沈め、今頃はワールドカップ決勝の会場だと気を失っている相手に向かって説教をする。
 実は相当動揺している家主は順序が逆ではないかというリーマスの冷静なツッコミを無視して、明日の昼に隠れ穴に行く事を告げた。それが、約20時間前の出来事。
「モリー。体を冷やす」
「ありがとう、……」
 そして今、はまだ日も昇っていない薄暗い靄の中、ウィーズリー家のモリーと二人きりで路地の向こうから人影が現れるのを祈るようにして待っていた。
 自分の着ていた厚手の上着を玄関の前で座り込んでいるモリーの肩にかける。状況がそうしているのだろうか、彼女の背は酷く小さく見えた。
 モリーの手に握られているのは、魔法界では最もメジャーな新聞。その一面には、ワールドカップで起こった事が過激なあおりを使って表現されている。
 宙に浮かんだ髑髏と蛇の写真。ヴォルデモート卿を支持する人間が打ち上げるそれを見ると、平気なはずであるのに体が軋むような感覚に襲われた。
「モリー、キッチンを借りた。叩き起こして何だが、胃に少し入れておいたほうがいい」
「叩き起こすなんて……が来てくれなかったら、私はきっとこんな事が起こってる何て知らずに暢気に眠っていたかもしれないのに」
 真っ青な顔をして、それでも甘い香りのするスープの入ったカップに口を付けたモリーを見て、気付かれないように安堵する。
 あくまで自身の経験から来たことだが、口に何かを入れても大丈夫ならば精神的にもまだ幾分かの余裕がある証拠だった。
 精神が圧迫され水さえも胃が拒絶をした事のあるから見れば、夫と子供たち、そしてハリーが未だ姿を現さないとはいえ、モリーはまだそこまで追い詰めらてはいない。
 本当のことを言うならば、躊躇したのだ。
 早朝にこれと全く同じ新聞が家に届けられた時、同居人を叩き起こしながら隠れ穴ではなくワールドカップの競技場へ向かうべきなのかと。
 しかし、現場は決勝の翌日。しかも十万の観客が一杯になった試合の翌日だ。どのくらいの人間が未だあの場所にいるのかなんて想像がつかない。
 その中からハリーを、たった一人の少年を探し出す何てことは、いくらが元闇祓いでも少々厳しい。
「無事かしら」
 静寂に落ちたモリーの呟きにはしばらく考え込んだ後で、煙草に手を伸ばしながら未だ薄暗い路地の向こうを見据えた。
「今のところ、死人は確認されていない」
「でも、記事には遺体が森から運び出された噂があるって……」
「噂は所詮噂だ」
 気難しい顔をして紫煙を吐き出すの姿にモリーは表情を翳らせる。
 慰めるという行為を得意としないは、煙草を弄りながら長めのインターバルを取って再び口を開いた。
「モリー、一般的に報道で使用される遺体と死体の違いだが」
「同じでしょう……?」
「基本的に身元が割れている死体は『遺体』と呼ばれ、身元不明の死体は『死体』のまま発表される」
 うっすらと白み始めた東の空に目を僅かに細める姿に、隣でスープを少しずつ飲んでいたモリーは何が言いたいのかと強い視線を向ける。
 肺一杯に煙を満たしてゆっくりを吐き出す仕種を三回繰り返してから、黒い瞳は彼女の手の中にあった新聞に注がれた。
「身元が割れているならば、こういった連中は嬉々としてその身元を記事にする」
「じゃあ、死人は出ていない?」
「経験上、恐らくな」
 単純に「死体」と「遺体」を書き間違えた可能性もあるが、と咽喉まで出掛かった言葉を捩じ伏せ腹の底に収めなおす。
 ここに来て、わざわざそうして訂正する必要もない。
 歳を重ねても未だ失言は多いが、それでも学生時代に比べれば彼の言動は落ち着いてきている。少なくとも、モリーのような他人に対しては。
……ありがとう」
「……?」
「スープ、美味しかったわ」
 シナモンの香りのする湯気が消えた空のカップに頬を緩め、先程よりは血色のいい顔色をしているモリーにはどういった類の言葉を返せばいいのか考え始めた。
「こういう時は、素直に『どういたしまして』でいいのよ?」
 という人間をそれなりに理解していのか、それもと未だ彼を見る目が出会った当初と変わっていないのか、モリーが何も知らない子供に言い聞かせる母親のように言い、言われた大の大人も教えられた言葉を素直に返す。
 形は大人なのに、精神的に未発達な様子を見せる男を見て、モリーの表情に硬いながらも笑顔が戻った。
 しかしその視線が交わされることはなく、朝露が反射し始めた路地に視線を固定していた黒い瞳は待ち侘びた気配を察し優しげな光を灯す。
「モリー」
「どうしたの?」
「帰ってきたようだ」
「……でも、姿は」
「まだ路地の向こうにいる」
 煙草を消して長時間立ちっ放しだった両脚を動かし、ズボンの裾を朝露に濡らしながら歩き始めたをモリーが追う。
 朝日が長い影を作り始め、路地の向こうに複数の人間が居る事が判るとそれまで不安そうな顔をしていたモリーが駆け出し、同時に、その向こうから疲れた表情をした見知った顔が現れた。
「アーサー!」
 夫に抱きついているモリーを眺めながら変わらない歩調でいると、視線の先の幾人かが声を上げての名前を呼ぶ。
、何かあったの!?」
「……ハリー、それはおれの台詞なんだが」
 その中の黒髪の少年が澄んだ緑の目を見開いて駆けてきたと思ったら、そんな言葉を吐かれた。
 無事を確認した途端に寝不足の頭が鳴り出し、額を手で覆ってしまう。
「あ、そっか」
「まあいい。怪我はないか?」
「うん、大丈夫」
 寝癖の取れていない黒い髪を梳くと、泣きそうな顔をして照れていた。
 何かを求めるように伸ばされた右手はの服を掴んで、力いっぱい握り締める。
 モリーに抱きしめられている双子を見て自分もハリーを抱きしめた方がいいのだろうかと考えるが、それを実行に移す前にまだ幼さを残す体が寄り添ってきた。
「無事でよかった」
「うん」
 やんわりと癖毛の頭を抱き締めるていと、自分たちを不思議そうに眺めている視線に気付き、気まずい思いをしながらハリーの肩を叩いてやる。
 見上げた先にあった表情から全てを読み取ったのか、ハリーは先程よりも顔を紅潮させての体から離れ、視線の主たちに元へ彼を引っ張っていく。
「友達のロンとハーマイオニー・グレンジャー、それにロンの一つ下の妹のジニー。ええと、他の人は知ってるんだよね?」
「ああ。初めまして、だ」
 子供相手でも無愛想な自己紹介に、三人は引きつった笑みを顔に貼り付けて会釈を返した。ジニーなどそれだけでを怖がってしまい近くにいたビルの背に隠れてしまう。
 少し話せば彼は人と少しずれているだけの、笑えばとても綺麗な人なのに、そう言いたげなハリーの表情を読んだアーサーがモリーを息子たちから剥がしながら家に入るように促した。
、モリーを支えてくれてありがとう。朝食でも食べていきなさい」
「気持ちだけ受け取っておこう」
「そうか……それは残念だ」
「ああ、すまない。用が済んだらすぐに帰る」
 本当に心から残念そうに言ったアーサーに、は申し訳なさそうな顔をする。
 しかし、それが理解できたのは彼をよく知る人間たちだけで、ロンやハーマイオニーには彼が眉を顰めたようにしか見えないらしい。
 その証拠に、まだ表情は硬く、怯えた様子が見て取れる。
「モリー、キッチンにさっきのスープと軽い食事を用意しておいた」
「ごめんなさい、何から何まで……」
「気にするな。ハリー、すまないが少し時間をくれないか」
 モリーが羽織っていた上着を受け取ったはハリーの肩に手を置いて、それ以上何も言わずに瞳を黙って見つめた。
 最初はワールドカップの騒動の事で彼が自分に会いに来たものだと思っていたハリーも、直に手紙の件で出向いてくれた事を理解して頷く。
「ごめん、先に行ってて」
 心配そうな顔をする友人たちにそう言うと、ハリーは元来た道を歩き出した。
 が自分すぐ傍に居てくれる、その事でやっと安心出来た体が震えている事に気付き、ハリーは汗ばんだ右手で隣を歩いていた彼の手のひらを恐る恐る握る。
 驚いた様子もなくその手を握り返したは、あそこに居た誰にも向けない優しい顔をして隣の少年のしたいようにさせた。
 その顔はハリーの知る限り、自分と、そして彼の息子にしか向けられない、とても貴重で特別な表情の一つだった。