生と名を享けて
まだ涼しい風がカーテンを揺らして入ってくる時間帯で、昼寝の時間には随分早いのもあり、本を読んでいたジュニアはパッチリとした目を父親に向ける。
その視線に気付いたのか、は作業していた手を止めてソファに寝転んでいる息子の方へ顔を向けた。
「ねえ、ねえ、パパ。パパのママのママのお名前って何だっけ?」
「母方のお祖母様の名前?」
「うん」
「色々省くとフローレンス・ミュラーになるが、一体何を読んでいるんだ?」
「これー」
小さな体に対してかなり大きな本を見せたジュニアに、は複雑な顔をして、恐らく息子が欲しがっている回答を先に教えてやる。
「そこに載っているのはお祖父様の家系だけで、お祖母様の家系は載っていないぞ」
「そうなの?」
「その隣に似たような本があっただろう、そっちに載っている」
蚊帳の外だった二人の大人も一体何を読んでいるのかと興味が沸いたのか、ジュニアの持っていた本の表紙に目をやった。
意外にかなり分厚いその本の題名はシリウスとリーマスの位置からは読み取り辛く、それに気付いたジュニアがよく見えるようにと、ソファから起き上がって二人に向かって表紙を突き出す。
突き出された、ようやく見ることの出来た表紙には「生粋の貴族―魔法界家系図」と綴られていた。
それを確認すると、今度はチェスをしていたシリウスが立ち上がった勢いで駒をばら撒きながら素っ頓狂な声を上げる。
「その本! 、お前純血だったのか?!」
「え、そうなの!?」
「母親が一応そう言えるが、知らなかったのか?」
「初耳だ!」
チェスの対戦も、ワールドカップの予想もそっちのけで食って掛かってきた居候たちに、は面倒くさそうな顔をして手元のビーズを片付け始めた。
彼の父親が日本の名家出身だという事は昔から知っている事だったが、まさか母親もそうだったとは知らなかった二人は口々に何か言っている。
そんな言葉は聞く耳持たずテンションの高いシリウスとリーマスを一瞥すると、煙草を銜えて紫煙と溜息を吐き出した。
「言う必要もないだろう」
「何でだ! 純血って事は何処かでおれと血が繋がっているって事じゃないか!」
「あ、ごめん。、判ったよ。何で今まで言わなかったのか……」
いきなりテンションを分けた大人たちを、茶色の瞳は無邪気に眺め、やがてヴィオラセウスと共に何処かへ消えてしまう。
「でも、その割に君の母親の資料って本当に少ないよね……元の名前すら辿れなかったし」
「そう言えばそうだな。純血なら普通は早い段階で引っかかるもんなんだが」
「多分おれの名から母親筋を辿るのは無理だ、きっと何にも載っていない。記録の上では祖父母の先の名は存在しない事になっているし」
「どういう事だ?」
「色々とな、読めば大体は判る。ダンブルドアに引き取られたのが一番大きな要因だが……没落の原因が原因だという事もあるらしい、それに、両親は恋愛結婚したんだ」
ニゲルを抱きしめながら言ったの言葉にリーマスは首を傾げ、逆にシリウスは納得した様子で頷いた。
足元に転がった黒いキングを拾い上げながら、つまり、と代わりの言葉を続ける。
「家や血族にとって望まれた結婚じゃないって事だ。埃っぽくて陰気臭い慣習はうんざりする」
しかし、そこまで言って何かに気がついたのか、杖を一振りして本を手元に呼び寄せると持っていた駒を盤上に置いて素早くページを捲りだした。
幼い頃に読まされたその本の内容は、否が応でも覚えてしまっている。そして、彼のその記憶が、ある一つの疑問を突きつけてきた。
「、ここで見る限り、お前の先祖ってフローレンス・ミュラーとルドルフ・モランだよな……?」
「ああ、それが祖父母だ」
「亡くなったのが100年以上前に見えるのはおれの気のせいなのか?」
「いや、間違いはない」
即答したの顔はどこか不思議そうで、シリウスは逆に渋い顔をする。隣のリーマスは親友の言いたいことに気付いたのか、少し引きつった笑みを浮かべた。
魔女や魔法使いは普通の人間よりもかなり長生きする、が、決して不老ではない。下世話な話になるが、生殖能力にも限界は存在する。
「嫌なら答えなくてもいい……ただ気になるだけなんだが、の母親って、今幾つなんだ?」
「父方のお祖母様より年上だと聞いたな……確か、おれを産んだのが70歳くらいだと思ったから、存命なら1世紀くらいは生きているんじゃないか?」
「70歳で子供産むとか……」
「それはそれで、凄い女性だね」
引き攣った笑みの取れない同居人たちに、家主は更に追加の爆弾を落としていった。
「母は若作りだったらしいからな……ああ、あと、当時父親は10代前半だったらしい」
「……」
「……」
犯罪で片付けれるレベルじゃない。そんな単語が二人の脳裏に高速で駆けたが、口に出すような愚かな真似は決してしない。
法的に問題が残るが、の両親は恋愛結婚をして、望んで彼を産んだのである。その結果がどうであれ、実子は両親の事を、少なくとも義理の祖父に対してのように、恨んでも憎んでもいなかった。
「なんか……」
「何だ?」
「いや、何でもない」
「……?」
ダンブルドアが、の父親を目の敵にしている理由がようやく理解できた気がする。
そう出かけた言葉を飲み込んで、リーマスはチェスの駒を盤上に戻らせた。
何やら真剣に唸っているシリウスから本を引ったくりページを辿っていくと、確かに先程とジュニアの言った通り、彼の祖母方の血筋が一切見当たらない。
「パパー、ご本あったよー」
「あったか?」
「うん、今から探すの」
小さな体に対して大きな本を抱えてやってきたジュニアは、リーマスが読めない文字で綴られたページを何の苦もなく読んでいるように見える。
「……、あれって何語で書かれてるの?」
「ドイツ語」
さらりと答えたに、リーマスの思考が一瞬止まった。
そのドイツ語を君とジュニアは読めるのかとか、実はドイツ人のクオーターだったのかとか、再び訊きたい事が頭の中に溢れ出てきたが、それより早く二つ目の疑問に対する訂正が入ってきた。
「祖母はドイツ系スイス人の純血一族の出だ」
「何か頭が痛くなってきた……」
「そう難しいものでもない。こっちの祖父母の結婚は『至って普通』だったからな」
「……政略結婚?」
「ああ。祖母のミュラー家は事業に失敗して、祖父の家に、モランに嫁いだ。よくある話だ」
灰皿に煙草を押し付けながら、何かを懐かしむ目をしながらはそれ以上何も言わなかった。
彼が彼自身の事をここまで話すのは珍しい、何か心境の変化でもあったのだろうか。そんな事を考えながら鳶色の瞳は手元にあったページを眺め、目を丸くした。
「シリウス!」
「何だ、今ちょっと……」
「この間の『マーガレット・モラン』、確かぼくを見て父親が『そう』だって、人狼だって、言ってたよね」
「ああ、確か……ちょっと待てよ、確か、モラン家が没落した原因は」
「当主の、おれの祖父の人狼化だ」
皆まで言わせず、はそう言って、新しい煙草を吸い始める。
三人の間に嫌な沈黙が降りると、ジュニアがようやくその心地悪い気配に気がついたのか大人たちを見比べて、リーマスの膝に抱きついた。
「あのね、レミィ。パパはね」
「大丈夫だよ、ジュニア。判ってる……はそういう理由でぼくの手を取ってくれた訳じゃない事くらい。ぼくらが言いたいのは……」
「おれたちですら全く掴めなかったの母親『マーガレット・モラン』のここまで調べ上げて、おれたちの前に現れたあの不可解な少女の事だ」
「……マーちゃん、悪い人じゃないもん」
「そうかもしれないで。でも、良い人でもないかもしれない」
「悪い人じゃないもんっ!」
シリウスとリーマスから発せられたものが気に入らなかったのか、ジュニアは掴んでいたリーマスの膝から離れて急いで父親の胸に飛び込んで顔を隠した。
はそんなジュニアを庇ように二人を睨み付け、そして目を伏せた後に大きな溜息を吐く。
口を開き、何か言いかけようとした瞬間を見計らったかのように、窓から一羽の白い梟が音もなくやってきて部屋の中を旋回した。
「ヘドウィグ?」
琥珀色の瞳を持つ彼女の名を初めに呼んだのは、座ったまま宙に腕を差し出した家主だった。
それに応えるようにヘドウィグはその腕を白い翼を休める場所にする。水を欲するよりも先に脚に括られた手紙を外すような仕種をする所が仕事熱心な彼女らしい。
「ご苦労様、今水を用意する」
吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、外した手紙をシリウスに手渡す。
「……え?」
「何だ」
「いや、こういうのって普通。が真っ先に見るべきじゃないか?」
「……ブラック、お前一度死ぬか」
決して疑問系で締められなかったその言葉。
黒い瞳の奥に鬼火を灯し、先程とはまた種類の違う剣呑な空気を纏ったに、シリウスは手紙を受け取ったままの格好で冷や汗を流し始めた。
一体何が彼の気に障ったのだろう。
彼はこの家の家主である。こういった物は真っ先に彼が目を通すべきではないのだろうか。
暗にそう言っている同居人に、その家主は怒気とも殺気ともつかないものを放ちながら拳を硬く握った。
「ハリーの後見人は貴様だろう!」
「ああ!」
「……『ああ』だと? 貴様、今思い出したような台詞を吐いたな?」
ソファから立ち上がり、代わりにニゲルを抱かせたジュニアを座らせ、ヘドウィグを肩に移し、何処からか取り出した日本刀を躊躇いなく抜く。
本気で目の前の男の首を胴から刎ねようと構えるに、流石にまずいと思ったリーマスが慌てて止めに入った。
「止めるなルーピン。こいつは一度ここで死んだ方がハリーの為だ」
「待ってちょっと落ち着こう。が怒るのは当然だけど、ちょっとだけ時間を取って考えよう? こんな救いようのない馬鹿でも死んだらハリーは悲しむよ?」
ヘドウィグを肩に殺気立っている父親と、せめてボッコボコに殴る程度に譲歩するよう説得するリーマスと、その場から一歩も動くことが出来ないシリウス。
ジュニアの茶色い瞳が三人をそれぞれ見つめ、やがて自分なりの結論に達したのか、小さな手のひらはぬいぐるみを放し父親の服の裾を掴んだ。
「……ジュニア?」
真下から覗き込まれる視線に一瞬にして殺気を消したに、ジュニアは小首を傾げながらその見上げた先の肩に止まっている梟を指す。
「ヘドウィグのお水、用意しよう?」
「……ジュニアがこの中で一番気が利くな」
「ジュニア偉い?」
「うん、とっても偉いな」
自分の行動に自嘲し、刀を鞘に納めた家主に、二人は肺に溜まっていた空気を深く吐き出した。
息子に引っ張られるままリビングを出て行く後姿を眺めながら、残されたシリウスとリーマスは息子様様だと天井を仰ぐ。
「……パパ、イライラだったでしょ」
二人と一羽っきりのキッチンで、息子が父にそう告げた。
ヘドウィグ用の皿に水と、少しの餌を用意していたは言葉には出さず笑ってその指摘を肯定する。
「焦ったらダメなんだよ」
「ああ」
「大丈夫だよパパ」
相変わらず自分からは距離を取って食事をするヘドウィグを眺めながら、ジュニアは普段同居人の前では絶対に見せないような大人びた表情を浮かべた。
「ぼくらは何時でも貴方の傍に居る。絶対に何処にも行かない」
強い光を宿した瞳を正面から受け、それに耐えられないとでも言うように小さな体を抱き上げると、耳元でジュニアが声を立てずに笑う。
幼い腕が首に回され、慰めるように黒い髪を梳くようにして撫でた。
「だって、貴方を置いて何処かに行くなんて。そんな事、ありえない」
の肩越しに、キッチンの窓から見えた花が咲き乱れる裏庭。
その先に佇む青々とした葉を茂らせた一本の木を捉え、ジュニアは口元に薄い笑みを貼り付けた。