幽かな黒と紫に
「うん、虎」
「白黒じゃないね、でもカッコいいね?」
「ああ、そうだな」
「こっちは……カピパラ?」
「違うよ、カピバラ」
「かぴぱらー」
「カピ『バ』ラ」
「かぴばら?」
「そう、カピバラ」
「カピパラー」
「カピバラ」
父親の膝の上に乗せられ、広げられた子供用の科学図鑑を見つめる息子。
それは昼過ぎのリビングのほのぼのとした光景だった。
朝食とも昼食ともつかない食事をし終えたジュニアは、一時間にも満たないお昼寝の後での膝の上に座り、指された先の動物の名前を首を傾げながら読み上げている。
向かいで紅茶を飲んでいるリーマスにはカピバラという存在がよく分からなかったが、白黒の虎がどうのこうの言っているので恐らくマーガレットからもらった、あのぬいぐるみがどういった動物なのかを説明しているのだろうと勝手に結論付けた。
恐らくシリウスなら判るのだろうな、とも思ったが、生憎あの黒い大型犬は先程終わった説教の後遺症、大きなたんこぶや痺れる両足と自室で格闘している。
先程の少女の事でに話しておきたいことがあると言っておいたのだが、しばらくすればシリウスも下りてくるはずなのでもう少し待つ事にした。
違う人間から同じような内容を聞かされるというのはでなくても苦痛だろう。特にシリウスは平時そういった気遣いとは余り縁のないタイプだ。
「カピパラさんはネコさんより大きいネズミさんだったんだね」
「……一応世界最大のネズミだからな」
「でもトラさん相手だとみんな食べられちゃうねー?」
この子供の脳内でどんなバトルロイヤルが繰り広げられたかは謎だが、笑顔でさらっと酷な事を発言したジュニアに、は飄々とした表情で確かヒョウ以外は住んでいる地域が違うから大丈夫だろうと言う。
聞き耳を立てていたリーマスはというと、そういう問題ではないし第一君は食われるじゃないか、と一人心の中で突っ込んだ。
口に出すというシリウスのような愚かな真似はしない。そんな事をすればから冷めた言葉が返って来るのが目に見えていた。
「そういえば、ぬいぐるみは?」
丁度今まで話のネタになっていたぬいぐるみがいない事に気付いたリーマスが、ミルクティーが空になったカップ片手にリビング内を見渡す。
確かジュニアが昼寝から起きた時には一人掛けのソファに仲良く置かれていたはずなのだが、いつの間にかどこかに消えていた。
マグルの世界であればちょっとしたホラーになるが、生憎とこの家は魔法使いばかりが住んでいるのでぬいぐるみが勝手に出歩こうとそれ程驚く人間はいない。
それでなくても、彼らは少年の頃にもっと過激なトラブルを幾つも経験しているので、この程度では行き先に疑問は生じるものの、微塵も動じはしないだろう。
「いっちゃんと、ゆーちゃんはお家の中タンケンしに行ったよ?」
「『いっちゃん』と『ゆーちゃん』?」
「カピバラがいっちゃんで、トラがゆーちゃんって名前なの」
「……へえ、そうなんだ」
「うん。そーなの」
二体に刺繍されていた名前と共通性も無ければ、かといって聞き覚えも全くない単語を耳にして、リーマスが一体どうなっているんだとに視線を送る。
膝の上から息子を下ろしたはそれに気付き、しばらく間を置いた後で納得したのか、二人分のカップにお湯を張りながらリビングの入口の方を眺めた。
同時にリビングの扉が開き、ぬいぐるみたちはシリウスの脇に抱えられてリーマスの前に姿を現した。
トラのぬいぐるみは何かを悟ったような雰囲気で大人しくしていたが、カピバラのぬいぐるみは運ばれ方が気に入らないのか、それ自体を嫌がっているのか、短い手足をしきりに動かしては脱出を図っている。
「ジュニア、ニゲルとヴィオラセウスが勝手に出歩いてたぞ」
「違うもん。いっちゃんと、ゆーちゃんだもん」
ぷ、と頬を膨らませるジュニアは、二体のぬいぐるみを受け取るとカピバラの方を父親の膝の上に乗せた。
「いっ……なんだって?」
「パッディもレミィもきらーい!」
突然そう言い放ってどこかに行ってしまったジュニアに、今度はシリウスがに向かって問いかける。
「おれ、何かしたか?」
「ぬいぐるみの呼び方が気に入らなかったみたいだね」
突然のジュニアの行動にどう反応すればいいのか戸惑っている二人に対しは特に気に留めた様子も無く三人分の紅茶を淹れた。
「好きなように呼べばいいし、呼ばせればいい。ニゲルもヴィオラもジュニアが譲り受けたんだろう」
「いや、ぼくとシリウスだけが嫌いって言われて逃げられたんだけど……」
「と言うか、その『いっちゃん』や『ゆーちゃん』は何処から来たんだ? おい、リーマス。勝手に人の紅茶にミルクと砂糖を入れようとするな!」
「人の親切は貰っておくべきだよ」
「明らかな嫌がらせじゃねえか!」
淹れられたばかりの紅茶を慌てて死守するシリウスと、笑顔で砂糖とミルクを持つリーマス。その様子を興味深げに眺めるカピバラのぬいぐるみ。
いつもと少しだけ違う光景をしばらく無言で眺めながら、はカピバラのぬいぐるみを何度も抱えなおした。
テーブルの上に開かれたままの図鑑には、膝の上のぬいぐるみの元となった動物の写真が小さく隅の方に載っていたが、改めて見比べてみるとあまり似ていない気がする。
むしろこのデフォルメのされ方は、直立したカピバラと呼ぶよりも二足歩行できる尻尾のない毛の生えたカバ、もしくは巨大化したモルモットと表現した方が判りやすい。
「でも何でカピバラ……」
ぬいぐるみとしてはマイナーな動物には首を傾げた。
それにつられようとしたカピバラがやっとの事で首を傾けるが、頭のバランスが悪いのかそのまま床まで転がり落ちそうになる。
が寸での所でそれを受け止めると、カピバラはソファに隙間に何かを見つけたのか、頭を突っ込んで格闘し始めた。
取り残されたはというと、もう一つ用意していたミルクを紅茶に注ぎ、いつまでも紅茶について口論している同居人に声をかける。
「何か話があるんじゃなかったのか。下らん事なら行くぞ」
自分自身が説教したからこそシリウスを待っていたにも関わらず、こんな下らない事で更に時間を食うのだったらもっと有効なことに使いたい。
そんな雰囲気が発せられ、大の大人二人は顔を見合わせ沈黙すると、そして神妙な顔でそれぞれいつもの定位置に座った。
「そのぬいぐるみをくれた女の子の事なんだけど」
「何かあったのか?」
「いや、そうじゃないんだ。でも正直に言うと、あまり良い印象を受ける子じゃなかったから」
「そうだな。まるで道化師みたいな子、かな。外見も割りと綺麗で他人に取り入りやすいタイプだと思ったんだけど、何故か態と違和感を持たせてるみたいだった。まるで『マーガレット・モラン』という人物を大袈裟に演じてるみたいで……」
少女の名前がシリウスの口から出ると、の一連の動作が止まり、そしてまた緩やかに再会される。
二人は無言で続きを促されて、今日の午前中にあった出来事を時折自分の感想を交えながら話していった。
は人間の姿であったリーマスと、犬の姿だったシリウスから見たマーガレットの像を聞かされ、それが終わった頃にすっかり冷めたミルクティーにやっと口を付ける。
溜息のようなものを吐き出し、ぬるい紅茶をテーブルに戻して、二人が発した言葉を思考にまとめた。
「どこまでが真実かは判らないけどね。彼女が自分で言ったことだから」
「薬か魔法で化けている可能性があるけど、おれは魔法省の人間じゃないと思う。何かの組織に所属しているかもしれないけど……パートナーっていうのが引っかかるし」
「名前からして『イオ』って言うのは少し怪しいし、もしかして他の国の魔法使いかもしれないよね。でも目当ては多分ぼく等じゃないと……」
「一つだけ訊くが、その少女は本当に『マーガレット・モラン』と名乗ったんだな」
相変らず頭をソファの隙間に突っ込んでいるカピバラを視線で追い、シリウスとリーマスの意見交換を遮って訊ねると、二人は顔を見合わせた後で同時に頷く。
それを視界の端で確認したのか、はゆっくりと顔を俯かせ、瞳を閉じた。
「人種、年齢、性別その他性格等はブラックの言った通り一切当てにならない。使用言語、家族構成、過去の経歴も同様で、パートナーと呼んだ相手も幾らでも偽称できる上、最初からパートナーが存在しなかった可能性も決して低くはない。つまり単独で行動しているのか、組織的なものの下で動いているのかも不明、出来ることならただの一般人という見方をしたいんだが……」
そこで一度言葉を切ると、カピバラのぬいぐるみが戻ってきて腰の辺りに抱きついた。
の表情は少しだけ和らぎ、カピバラが持っている白い小さな箱ごと、再び膝の上に招き入れる。
「現時点で確証が持てるのは以下の6点。イギリスの魔法界の存在を知っている、訛りのない英語を話すことが出来る、リーマス・J・ルーピンの事を人狼と知っている、白い小鳥が来た、ぬいぐるみを二体渡した。そしてジュニアが懐いている」
「うん……そうだね」
「なんか冷静に考えると、おれたちの言った事って全然参考になってないな」
「出来る事なら衛星の名前かと考えたかったがな」
「え?」
「は?」
さりげなく発せられる独り言のような物言いに、思わずシリウスとリーマスの動きが止まった。
「『マーガレット』と『イオ』は二つとも太陽系内に存在する衛星の名前だ」
「確かにイオはガリレオ衛星って認識されてるくらい有名な木星第1衛星だけど……」
「マーガレットは天王星第23衛星だ」
「23って、そんなに多かったか?」
「現在確認されている天王星の衛星の数は全部で27ある。だからといってどうという事はないがな」
細かな説明が面倒なのか、それともそこまで説明できる程詳しくないのか、は先程まで眺めていた図鑑の宇宙のページを開いたままシリウスに差し出す。
逆にリーマスは天文学は全く得意えはないので、話には入らず、図鑑を手渡した後で違う質問をした。
「、それよりも今君が言った『衛星の名前と考えたかった』ってどういう事?」
「ルーピンがそれを訊ねるという事は、一般の魔法使いでは名前を知ることも困難だという事か」
「……?」
「マーガレットというファーストネーム、モランというファミリーネーム、両方とも国内ではそれ程珍しいものではない。そう思うか?」
「え、ああ……うん、そうだね。特別珍しいとは思わないよ」
だから余計に偽名っぽいんだけど、と言うリーマスには「確かにそうだな」と同意して、カピバラのぬいぐるみの頭を撫でる。
「おれの母の今の姓は、その前はダンブルドア家に引き取られていたが……」
完全に冷め切ったミルクティーに映る自分の姿を眺めながら、なんでもないような素振りで言葉を続けた。
「更にその前、つまり母の生家の名はモランという。そして、彼女のファーストネームはマーガレット」
その言葉は、少なからず二人にも動揺を与え、シリウスは持っていた図鑑を床に取り落としてしまう。
短い沈黙の後、先に言葉を発したのはシリウスだった。
「あり得ない確率じゃないけど、偶然で片付けるにはちょっと出来すぎてるよな」
「なら偶然ではないのだろう。疑うことを前提に話したからな」
「いや、。だからってそんなあっさりするのもどうかと思うよ……?」
「確証はない、が、偶然にしてはあまりにも出来すぎている。かといって現状ではこちらから動きようがないし、ニゲルとヴィオラからは悪いものなんて感じられない」
実害は受けていないし盗聴盗撮の類ならすぐ判る、当分は様子見だ。と態度で物を言っているに、二人は仕方なさそうに頷いた。
確かに今の手がかりでは動きようがない。しかしマーガレットから譲り受けたぬいぐるみは今現在手元にある。これは危険なのではないのだろうか。
「ジュニアが懐いているという点が気になる。ニゲルにもヴィオラにも手を出すな」
そう言うと、はカピバラのぬいぐるみを抱え、冷めた紅茶を残したままリビングを出て行った。
背後から二人の同居人が何かを相談するような声が聞こえたが、大体の想像は付くので足を止める事も、踵を返す必要もない。
キッチンから裏庭に出て、石を積んだ花壇の上に腰掛けると、カピバラがシルクハットの中から煙草の箱を取り出してに差し出した。
「……さっきソファの隙間で見つけたのはこれか」
この家に来た当初吸っていた賞味期限切れの煙草。
ポケットの中にはもうないあのジッポとはまた違う銘柄は、結局一度も封を開ける事無く新品同様のまま引き出しの肥しにでもなるだろう。
「今はもう、そういうものは吸ってない」
何の膨らみもない胸のポケットから新品の紙煙草を一本だけ取り出して、それを吸い始める。
火の付いたそれと、フィルムに包装されたままの煙草をビーズの瞳が何度か見比べ、やがていそいそとシルクハットの中にしまいこんだ。
割と無理矢理突っ込んだのか、微妙に変形している黒い帽子を見て緩んだ唇から紫煙が吐き出される。
家の中から聞こえる息子の声は、あのトラのぬいぐるみとかくれんぼをしているのか、結局どこにぬいぐるみが隠れているのか発見できなくて父親に助けを求めていた。
「ぬいぐるみと子供で隠れ鬼か、いい勝負だな」
手の平を翻し、火の付いたままの煙草をどこかに消すと、はもう片方のぬいぐるみを持ったまま、息子の声のする家の中へと再び戻っていった。