迷宮の入口
短い髪に大きな瞳。美少女と銘打っても異論は出ないだろうが、その仕草や笑い方はひどく子供っぽく見え、とてもそうには見えない。
よく言えば無邪気なのだろうが、彼女の隣には無邪気の権化のような幼児が親友と手を繋いで仲良く歩いているのでより中途半端な存在に見える。
彼女はシリウスの事を気に入ったのか、時折歩きながらその頭を撫でては感触を楽しんでいるようだった。シリウスも自分の事を手放しで褒められ、悪い気はしなかったので好きにさせておく。
「ここはあまり人が通らないのね」
「うん、パパがね、人がたくさん居るの苦手だから」
「そうなの?」
「うん、そーなんだって。あ、マーちゃん、マーちゃん! この前ね、ここのお池にね、おっきいチョウチョさんがいたんだよ」
「へえ、どんなチョウチョさんだったの?」
「んとね、パパが教えてくれたけどわすれちゃった。なんか羽がね『ジミ』だったの」
こんな会話のどこに笑いどころがあるのかは不明だが、マーガレットは池を眺めて鈴のようにコロコロと笑い、一々シリウスに訳のわからない同意を求めていた。
首を傾げるような仕草をして少女から離れると、今までずっとだんまりだったリーマスが少し疲れたような表情でシリウスに向かって休もうかと提案する。
ジュニアに遠くに行かないように注意をして空いていたベンチに腰をかけると、お腹空いたね、と呟きが聞こえる。そういえば、よくよく考えてみると朝食もまだだという事実を思い出した。
途端に鳴った腹の虫は果たしてどちらのものだったのか。
「子供は元気だね」
妙におじさん臭い台詞をしみじみと言うと、リーマスは考え事をするような仕草で口許に手を当てるようにして、自分の唇を他人の視界から覆う。
二人の子供が楽しそうに談笑する後姿を視界に捉えながら、目元だけを笑わせて静かに溜息を付いた。
「ねえ、パッドフット」
顔を二人に向けたまま、視線だけを親友に向け、その僅かに引き攣ったようにも見える目元をじっと見つめる。鳶色の瞳が瞬くと、彼の視線はシリウスが顔を向けている二人へと向かった。
「いや、この話は帰ってからにしようか……」
また溜息のようなものと混じって届いた言葉に、シリウスは左右に揺らしていた尻尾をぴたりと停止させ、そして妙な間を開けて再び動かし始めた。
それ以上その親友が何か話すことは無く、シリウスは暇そうに彼の足元に座り込んで楽しげに談笑している二人の後姿を観察する。
「それでね、昔あの近くに住んでたことがあるの」
「どれくらい昔?」
「もう忘れちゃったわ……ずっと前の事だから」
幸せだったんだけどね、と溜息にすら隠れてしまいそうな、とても小さな呟きを拾ってしまった。
表情は先程と然程変化していないのでリーマスは恐らく気がついていないだろう。しかし、犬になったシリウスの可聴周波数には、その言葉が入り込んできた。
ジュニアは聞こえたのだろうか、そう思って少年の表情を伺ってみるが、生憎犬の視力は聴覚や嗅覚ほどには優れていない。動体視力は向上するのだが、その分人間でいるときよりも近視になってしまう。
「そういえば、ジュニアちゃんって日本人なの?」
「んー。パパはね、日本人だけど、イギリスの人の血も入ってるんだって。でも、ジュニアはよくわかんない。多分日本人だと思うってパパは言ってた」
なんで?と首を傾げて笑う少年に、少女は返答をせず、笑いながらジュニアを抱き上げた。
「じゃあねー、しつもん変えるね。えっと、マーちゃんはイギリスとどこの国の人?」
「あら、よく分かったわね」
「ジュニアそういうの分かるみたいなのー」
そんなの初耳だ、とシリウスは一人で突っ込むが、よく考えてみれば自分たちはこの少年の事を何も知らないのではないだろうか、という考えに至った。
しかし更に考えれば、ジュニアはがわざわざ日本から連れてきた少年だ。
家主が自分の子供だという事に対し、あれこれ訊くのは気が引けるではないか。第一、外見よりも明らかに幼い精神年齢と、彼自身が仲が悪いと言い切っている本家から連れてきたという時点で、どう考えたってジュニアは訳ありの子供だ。
シリウスもそういった、家系的な面倒くささは理解しているつもりだし、ハリーやリーマスも悟ることが出来る類の人間だ。そして腹が立つ事に、あのセブルス・スネイプも。
だからこそ、はジュニアを家に連れて来たんだろうな、と結論付けた所で、どこからか空気を震わせるような音がしてすぐに止んだ。
「あら、イオちゃんの用事が済んだみたい」
抱えていたジュニアを下ろし、ポケットから取り出した黒い携帯電話を指先でいじりながらマーガレットが嬉しそうに言う。
シリウスはゆっくりと立ち上がり、また泣きそうな顔をしている頬に鼻を寄せると、小さな両の手の平が黒い毛をぎゅっと掴んだ。
「イオちゃん、って……いーちゃん?」
「そう、イーちゃんよ」
ジュニアの言葉に相槌を打ちながら簡単なメールを返信したマーガレットは、こちらをじっと見ていたリーマスに「携帯使う魔女って珍しいですか?」と苦笑しながら訊ねる。
「待ち合わせの約束をしてた子からなんです。今からこっちに向かうって」
「学校の友達?」
「いえ友達って呼ぶよりは……強いて言えばパートナーです」
どこか遠い目をして微笑むと、リーマスは軽い口調で「そう」とだけ呟くように言って、それ以上何かを訊ねるという事はしなかった。
「……マーちゃんとは、もうお別れなの?」
マーガレットが行ってしまうという事を理解したのか、捨てられた子犬の目で少女を見上げるジュニアに、もうちょっとだけ一緒に居れるわ、と朗らかに告げるとどこからか取り出したぬいぐるみを手渡す。
割と強い力で捕まれていた毛をぱっと離し、それを受け取ったジュニアの顔は驚きの形を作った後、すぐ笑顔になった。
一体なんだろうと横からシリウスが、上からはリーマスが覗き込むと、そこには小さいシルクハットをかぶった薄茶色の毛玉と、紫色のスカーフをした白黒のぬいぐるみがそれぞれ抱えられている。
よく見てみると、毛玉の方はどことなくネズミか、もしくは毛の生えたカバに似ていて、もう片方のぬいぐるみは配色こそ違えどその姿は間違いなくトラだった。
それぞれシルクハットとスカーフに銀色の糸で『ニゲル』と『ヴィオラセウス』と読める刺繍が施されていて、恐らくそれがこのぬいぐるみたちの名前なのだろうな、と大人二人は考えが至る。
「よかったらジュニアちゃんが貰ってくれないかな」
「……ジュニアもらっていーの?」
「うん」
マーガレットが頷くと笑顔が戻り、ジュニアは深く頭を下げながら元気な声で礼を言い、ぬいぐるみの代わりにとポケットの中からミルク色の飴玉を三つ手渡した。
「くれるの?」
「うん、ありがとうのしるし。パパとジュニアが作ったの」
「あの、マーガレット……本当にいいのかい?」
「え? ああ、全然構いませんよ。それに二人も、わたしよりジュニアちゃんと一緒にいた方がいいと思うんです。ジュニアちゃんぬいぐるみが大好きみたいだし」
さっきもぬいぐるみ抱き締めてましたし、と出会った時の事を振り返るマーガレットに、シリウスとリーマスは心の中でだけ「あれはが作ったものだから」と呟く。
「あ、そろそろ行きますね。迎えも来たみたいだし」
「迎え?」
首を傾げようとしたリーマスの横を白いボールのようなものがすっと通り過ぎ、高い声で鳴きながら忙しそうにマーガレットの頭上を飛び回った。羽と嘴が付いているので鳥らしいが、遠目に見るとむしろその姿は野球の球に似ている。
ちょっと変な子で落ち着きがないんです、と肩を竦める仕草をすると、心外だとばかりに頭の上から抗議の鳴き声が上がり、仕方がなさそうに「頭はいいんですけど」付け足した。
「それじゃあ、ジュニアちゃん。またいつか会えるといいわね」
「うん、マーちゃんまたね!」
「ルーピンさんも……パッディくんも。短い時間だったけどありがとうございました。楽しかったです」
ジュニアとリーマスに握手を求めシリウスの頭を撫でたマーガレットは、満足そうに笑って踵を返し、来た道と反対の方向に小走りで去って行った。
「……マーちゃん、行っちゃったね」
「そうだね」
「……帰る?」
「そうしようか……あ、ジュニア。が迎えに来てくれたみたいだよ」
「ホントだ! パパー、おかえりなさーいっ!」
しゅんとした表情から一転笑顔になり、二体のぬいぐるみを抱えたまま来た道を走り出したジュニアは、そのまま減速する事なくに思い切り抱きつく。
びっくりして硬直する父親に抱きつく笑顔の息子。そんな光景にシリウスとリーマスは視線を交わして、それぞれの表情で微笑んだ。
「あ……ただいま、ジュニア。寂しくなかったか?」
「んとね、パパがいなかった時は泣いちゃったけどね、マーちゃんがいたから大丈夫だったの!」
「マーちゃん……って、もしかして、そのぬいぐるみをくれた人か?」
「うん! でもいーちゃん来るからってついさっき行っちゃった」
「いーちゃん……」
ジュニアが抱えている二体のぬいぐるみと、その言葉に何事か考えさせられている様子のだったが、笑顔で近寄ってくるシリウスとリーマスに気付いたのか一度顔を上げて息子を抱えなおす。
そして、リーマスが何かを喋る前に一人と一匹に向かって「で?」とだけ言い放った。
「……え、えと?」
「貴様等……おれが行く間際に言った事をもう忘れているようだな」
そして、数秒の間。
「「…………っ!」」
絶対に起こすな、起こしたら殺す。
そうだ、どうして忘れていたのだろう。つい数時間前まではその恐怖で頭が一杯だったはずなのに。
謝れ、取り合えず謝れ。何を差し置いてでも謝った方がいい。そう脳が体に警告を発し、慌てて頭を下げようとした一人と一匹に、は「まあ」と言葉を続けた。
「元々はスケジュール調整をしておかなかったおれに原因があるからな。次からはこっちで気をつける」
「なっ、、君何か悪いものでも食べた!? どこかで頭打った!?」
「……ルーピン、貴様は人を何だと思っている。おい、ブラック、その目は何だ。今回の件は大本の原因がおれにあるからそう言っているだけだろう」
「いや、でも何かちょっとおかしいよ! だってジュニアが起きた原因はぼく、ら……だ し」
そこまで言い切ってしまって、リーマスは後悔した。
数秒前とは打って変わり、の眼力が物理的にこの空間の気温を下げている。
「ほう? おれはてっきりジュニアが一人で起きてしまったと思ったんだが……そうか、起こした挙句泣かせたなら話は別だな。正直に話したその姿勢だけは褒めておこう、そこだけな」
「あ、いや……その」
「パパ、パパ。レミィもパッディも叱らないで?」
「ジュニア?」
長い黒髪をくいくいと引っ張り、ジュニアは短い腕でぬいぐるみごと煙の匂いのする父親を抱き締めた。
「あのね、ジュニア泣いちゃったけどね、パパの事好きだから泣いちゃったの。それに、パパまってたからマーちゃんに会えたの。だからレミィもパッディも叱らないで?」
「……そうだな。ジュニアがそれでいいと言うなら」
ジュニアに甘いは、そう納得すると、ふと何かを思い出したように足元のシリウスを笑顔で見下ろす。
「ああ、そうだブラック、貴様辞職の事をあの男に伝えたらしいな。おかげで職場で待ち伏せされて茶まで勧められたぞ、しかも二人きりの密室で」
貴様だけは矢張り後で蹴り殺す。そう瞳で語った父親を、息子は今度は止めようとしなかった。
恐らくそれがなければ父親はもっと早く帰ってこれたというのを理解しての事だろう。なんだかんだ言って、この二人の思考回路はよく似ている。
「パパー、ジュニアおなか空いた」
「……もしかして何も食べてないのか?」
「だってマーちゃんと遊びたかったんだもん」
少し膨れっ面になったジュニアに怒るでもなく優しく頭を撫でて地面に下ろすと、繋ぐための手を目の前に差し出した。
「なら、早くご飯にしないとな」
「……うん!」
二体のぬいぐるみを片腕に抱え父親の手を取った子供は、立ち止まって背後を振り返る。しかし、すぐにシリウスに急かされて、前を向いて歩き出した。
二人の青年に挟まれた少年、そして大きな犬の揺れる尾が緩くカーブを描いた道の向こうに消え、辺りは小鳥の囀りや木が風にざわつく音、そして会話をすることがない人間の足音だけになる。
その景色を丁度池の反対側から眺めていた青年に、先程まで対岸を散歩していた少女、マーガレットが白い鳥を肩に止まらせて何気なく話しかけた。
「久し振りのロンドンはどうだった。イオちゃん?」
「んー……事務的な手続きしかして来なかったからなんとも言い難いなあ。あ、でも今度メグと一緒にデート出来たらこの感想変わるかも」
そう言って少年のように笑う青年に、少女は「出来たらね」と悪戯っぽく微笑み返して、先程ジュニアに貰った飴を投げて寄越す。
「これは?」
「ジュニアちゃんに二つ貰ったの。『パパ』と作ったんですって」
「ジュニアちゃんに、パパ……ね」
含んだ言い方をする青年に、マーガレットは何も言わず微笑んだまま、肩の鳥にキャンディを与えた。
手作り感の溢れる包装紙から取り出されたミルクキャンディを丸呑みするその白い鳥を可笑しそうに眺めた後、青年は再び池に視線を向けて手の中のキャンディを手の平の上で転がす。
「イオちゃんはこれからどうしたいの?」
「勿論メグ、君と一緒に居たいに決まってるだろ」
「あら、嬉しいわ。でもだったら何のためにイギリスまで来たのかしら」
飴を口に含んだ所為で頬が片方丸く盛り上がった顔で言われると、楽しそうな声で答えを返した。
「そうだねえ。じゃあ、当面は様子見で『ニゲル』と『ヴィオラセウス』に任せようか」
「イオちゃんってば、またそんな嘘吐いて」
間髪入れずに返って来た突込みに今度は何も返答をせず、これ以上は黙秘しますとばかりに真っ白な飴玉を口の中に放り込む。
「お、美味いじゃん」
「そうね」
肩の鳥が羽を軽く震わせ飛び立つと、二人はつられるように少しだけ晴れ間の覗いた空を見上げた。