長い取り引きの合間に
隣近所どころか大抵の人間に対して大きな声で言えないが、大きな黒い犬に見える脱獄犯の為に家の者全員で散歩に出かけていた。
天候の酷い日や、満月の前後の日には家の中で一番年下の少年と鳶色の髪の青年が家に残ったが、家主は本日まで欠かさず日に二回、人がさほど多くない早朝と夕暮れに大きな黒い犬を連れて広い公園を訪れている。今朝も勿論そうだった。
しかし、そのすぐ後、珍しい事が起こるきっかけが起こってしまう。
彼は息子が背中で二度目の眠りについてしまった後に、今日は時間厳守でどうしても外せない用があると言って魔法省まで行ってしまったのだ。
誤解を招く可能性があるので追記をするが、別に二度寝を見計らった訳ではない。
は自分のベッドで両手を上にあげて眠っている息子と別れる際に、可哀想だが起こして伝えた方がいいだろうか、このまま一緒に連れて行った方がいいのではないかという葛藤と、非常に申し訳なさそうな表情を前面に出して置手紙をしていたのを同居人たちは目撃している。
ジュニアは寝つきがいいからきっと大丈夫、昼までには帰ってこれるんだろう、折角眠ったのに起こしたら可哀想、なにかあったらおれたちに任せておけ、という言葉で何とかを言いくるめ見送る二人に、彼は納得の行かない様子で、それも仕方なく時間に追われるようにして家を後にした。
絶対に起こすな、起こしたら殺す。
去り際にそう釘を刺す表現するよりは脅しながら消えた彼に、残された同居人の内の一人であるリーマスは、何故彼が召集もないのに魔法省へ赴いたのか疑問に思い口に出した。
するともう一人の同居人であるシリウスが先日家主であるが辞表を書いているのを知った、理由がわからないのでダンブルドアにも相談したと返した。
あとは想像に難くないが、友人と祖父の仲を理解しているリーマスと、理解はしているがそれ以上に友人が心配だったというシリウスの口論が始まる。が、場所が悪かった。
彼らのすぐ隣には、ついさっき眠ったばかりの幼子がいたのである。そして、当然の如く大人二人分の口調の激しい口論に起きた。
「……パパは?」
眠い目を擦って、自分の父親がどこに居るのか訊ねるジュニアに、二人のいい年した大人が咄嗟の返答に詰まった。
別にやましいことは……あると言えばある。に自分たちの口論で彼の大切な息子の眠りを妨げたと知られた暁には、蹴りか突きのどちらか、あるいは両方に、更に上乗せされた、多分痛みが三日くらい取れない仕打ちが待っている事間違いない。
「パパは?」
もう一度、今度は割とはっきりとした口調でジュニアが問いかけてきた。
「……ええと。はね、出かけたんだよ」
「枕元にジュニアに残したメッセージがあるだろ?」
「パパ……ジュニア置いてった?」
まずい、泣く。やばい、殺される。と二人の考えは一致した。
寝起きで潤んでいた目から大粒の涙が浮かび、ボロボロと零れ始める。
「パパ、ジュニア嫌いになった?」
うろたえる大人たちの言葉に耳を貸さず、完全に自分の思考回路内でのみ状況判断をし始めたジュニアは、どこか父親に似ていたが、今の二人にとってはそんな事は些細なことだった。
起こした挙句泣かせたなんて知られた日には、確実にこの屋敷の床に鉄臭い赤色の水溜りが二つほど出来上がる。
何故があれ程までに苦悩していたのかが、今、ようやく判った。
何もしなくていいと送り出した数十分前の自分たちに考え直せと警告できたならどんなにいいだろう、とタイムターナーを切実に欲した。
「パパー……」
大声で泣く事はなかったが、ぐずぐずと本格的に泣き出してしまったジュニアに、シリウスとリーマスが話しかける。
「あ、あのな、ジュニア。はジュニアが嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、どうしても外せない事があって……」
「ほら、ジュニア。君のお父さんから君に宛てた手紙だよ。日本の言葉で書いてあるからぼくらは読めないんだ。代わりに読んでくれるかい?」
「うー」
頬と目を真っ赤にして手紙を受け取ったジュニアは、もそもそと二人には聞き取れない小さな声で手紙を読み上げると、自分の隣にあった大きなうさぎのぬいぐるみを抱えてベッドから抜け出した。
背後から付いて来るシリウスとリーマスの声を無視して、階段を下り、玄関に直行し、そしてそのまま外に出ようとする。
「ちょっ……駄目だよジュニア。の許可なく勝手に外に出たら、って、シリウス! 君はそれこそ本当に駄目だろう!」
「これならいいだろう」
玄関の扉が開く直前、シリウスは大きな黒い犬の姿になってジュニアの後について行った。
しかし、ジュニアは遠くには行こうとせず、家の門付近にある段差に腰を下ろすと、ぬいぐるみを抱えたまま涙を堪えるようにして人の少ない通りをじっと眺めて始める。
「ジュニア?」
「パパにおかえりなさいって言うの。待ってるの」
「それなら今回は家の中で待たないと」
「ココがいいの。お家の中は嫌なの。パパ待ってるの」
普段、移動魔法を使う必要のない生活をしていた所為で、父親が魔法使いと知っていながら帰ってくるのは必ず門をくぐって玄関から、と脳内に刷り込みをされているジュニアに、リーマスは一体どう説明しようかと戸惑う。
人影はまばらなものの、こんな所で姿あらわしがどうのこうのと説明するのは危険すぎる。かと言って、ジュニアはこの場から一歩も動こうとしない。
「ねえ、ジュニア、起きたばっかりだから咽喉渇いてない? ちょっと家の中で休んでから」
「ないの」
「お腹は」
「すいてない。パパがいい」
「は食べ物じゃないよ?」
「パパがいいの」
「……わかったよ、ジュニア。ここでパパの帰りを待ってようか」
「待ってるの」
冗談も通じず、梃子でも動きそうもない事を察したリーマスは、後で家主に半殺される覚悟をしながら、ジュニアの頭を何度か撫でた。
「ジュニア、ぼくは今から上着と飲み物を取ってくるけど、パッドフットが勝手にふらふらしないように見張っててね。最悪保健所に連れて行かれるかもしれないからね」
「うん」
普段からは想像もつかないような無愛想な顔つきで頷いたジュニアと、どちらが保護者なのか判断を付けることができないシリウスを置いて、リーマスは一度家の中に戻る。
背後で玄関のドアが閉まる音がすると、シリウスは落ち着かない様子でジュニアと家の前を通り過ぎる人影を見比べて、そして一人の少女と目が合った。
顔立ちは可愛らしいが、それ以外は何ら変哲もない少女がジュニアと犬の姿のシリウスを見つめたまま立ち止まっている。
時間にしたらほんの数秒の事だったが、シリウスはなんとなく居心地が悪くなり視線を逸らすと、少女は短く切った黒い髪を揺らして笑いながら一人と一匹に近付いて話しかけてきた。
「こんにちは、どうしたの?」
「パパ待ってるの」
「パパ? ここで?」
「ここで待ってるの」
「……お仕事かしら?」
「よく、わかんない」
またぐずり始めたジュニアにシリウスは困ったように辺りを見回すが、少女は相変らず笑みを浮かべながらジュニアに目線を合わせるようにして話しかけていく。
「じゃあ、わたしが、パパが帰ってくるまで一緒にいてもいいかな?」
「……いっしょ?」
「実はね、この近くの公園で待ち合わせをしているんだけど、早く来すぎたみたいなの」
「公園? あの噴水のあるところ?」
「そう、丁度その噴水の前で待ち合わせしてるの。みんなであそこの公園によく行くの?」
「みんなで、お散歩……しに行くよ?」
「お散歩、ああこの子の為かしら」
外見に反して流暢な日本語でジュニアに話しかけていく少女は、聞きなれない言語に難しい表情をするシリウスを見て楽しそうに笑う。
ジュニアも少女の事を気に入ったのか、まだ少し泣きそうな表情をしていたが、それでも大分機嫌よさそうに単調な会話をしていった。
「この子随分ハンサムなのね、名前を聞いてもいい?」
日に焼けて健康そうな色をした腕がシリウスの頭を撫で、少女の黒い目が細められた。
「……パッディ」
「パッディくんって言うのね、はじめまして」
どこまでも日本語で攻めてくる少女にシリウスは非常に複雑な表情、と言っても犬なので詳細は判断しかねるが、なんとも表現し難い顔で首を傾げて見せる。
そんなシリウスの様子を、少女は面白い生き物を見るような目つきで眺め、時折鼻先や耳の裏側をひっかくようにして撫でては笑みを深くしていった。
「パッディくん随分大きいけど、犬種はなにかしら。雑種かな?」
「多分……でも、パパなら分かるかも。レミィはわかんないって」
「レミィ?」
「いっしょに住んでる人。えっと、あの人」
「ジュニア、いい子にしてたみたいだね。……おや、お客さんかな? こんにちは」
丁度玄関から薄手の上着を持って現れたリーマスを指差すと、少女はすこし驚いたような様子で鳶色の髪の青年を見上げ、今度は英語で話しかけた。
「こんにちは。すいません勝手に話し込んでしまって」
「ねえ、レミィ。パパが帰ってくるまで一緒にいてもいーよね?」
「一緒って、この子とかい?」
それ自体に問題はないのだが、恐らくマグルであろう少女と話し込んでいる途中でが家の中に帰ってきては言い訳のしようがない。
渋い表情をするリーマスをジュニアと、彼が抱いているうさぎのぬいぐるみが無言で見つめる。
シリウスもどこか落ち着かない様子でその様子を見ていたが、やがて自分にはどうしようもないと悟ったのか大人しく門の傍に座り込んだ。
そんな事態を丸投げした黒犬に、リーマスの目つきが一瞬鋭くなったがジュニアが困った顔をするのですぐにはっとして何か具体的な言い訳をするために頭を高速回転させる。
「あの、そんなに悩まなくても大丈夫ですよ。わたしもですから」
「……え?」
「リーマス・ルーピンさん、ですよね。確か昨年度にホグワーツで教授をなさっていた……あ、そんなに警戒しないで下さい」
目を細めたリーマスと低い唸り声を上げたシリウスに対して、少女は慌てた様子も無く「わたしの父も『そう』でしたから」とやんわりと付け足した。
「ねえ、みんなで何のお話してるの?」
「とっても詰まらないお話よ。ジュニアちゃん」
「……? なんでジュニアの名前知ってるの?」
「だってさっきレミィさんが呼んだもの」
「そっか、そー言えばそうだったね」
うさぎを抱き締めながら花が開くように笑ったジュニアは、少女の黒い瞳をじっと見つめ、やがて何を思いついたのか勢いよく立ち上がって二人と一匹に告げる。
「この人と、公園行く」
「……え?」
「そうだ、心配されないようにパパに書置きしないといけないね」
「ちょっ、ジュニア!? 勝手に決めたら……」
「わたしはいいですよ。暇ですから」
慌てるリーマスの袖を軽く引いて少女はそう言うと、すぐ傍で大人しく座っているシリウスに同意を求めるように「ね?」と話しかけた。
話かけられたシリウスは低く、一度だけ吠えて、どちらでも構わないとでも言うように尾を揺らして地に伏してしまう。
「パッドフット……」
「あはは、面白い子ですね。あ……ジュニアちゃんが呼んでいるみたいですよ」
少し癖の付いた髪を揺らしながら、幼い声がしてくる方を見つめ、少女の指が今まで掴んでいたリーマスの袖をゆっくりと離した。
「待ってます。ここで」
不自然なまでにはっきりと聞こえる声でそう告げると、もう一度、シリウスに向かって同意を求めるような仕草をする。
黒い巨大な犬に再度それをかわされ、面白そうに口許を押さえる少女に、リーマスは一度家の方に足を向け、そしてゆっくりと振り返った。
「そう言えば、君の名前を聞いてなかったね」
窓から顔を出して手を振っているジュニアに返事を返しながら訊ねられ、そう言えばそうでしたねと呟きながら、少女は自分よりも背の高い鳶色を見つめて酷く大人びた笑顔で右手を差し出す。
「名前ですか? マーガレットです。マーガレット・モラン」
黒い髪と瞳を揺らして、少女は自分の名を名乗った。