曖昧トルマリン

graytourmaline

砂嵐が過ぎ去って

 戸の閉まったリビングから小さな音と僅かな光が漏れていた。
 足音を殺してゆっくりと近付き、音を立てないようにドアを開く。見えたのは、ソファに座って何か考え事をしている家主と、電源が入ったまま砂嵐しか移されていないテレビ。
「……ブラックか」
「あ、バレた?」
「当たり前だ。どうした、こんな夜中に」
 水の入ったコップを持ったまま近付くと、の脚を枕にして眠っている、毛布に包まれて毛玉のように見える子供が目に入った。
「おれはただ単にのどが渇いて……は?」
「ジュニアが寝付けなくてな」
 単純な答えに、シリウスは思わず苦笑して今は眠ってしまったジュニアから目を離す。
 体格としては十歳とは行かないが、それでも七歳か八歳くらいには十分見える少年。しかし、精神面はせいぜい五歳児に届けばいい方だろう。
 思ってみればシリウスやリーマスはが預かってきたという事以外、ジュニアについての知識はない。が何も言わないという事は、きっと訳有りの少年なのだろうが。
「……
「なんだ?」
「コーヒーでも淹れようか」
「ああ……いや、コーヒーは止めて欲しい」
「じゃあ濃い目の紅茶か?」
「昨夜から寝ていない。今の状態でカフェインを摂取したら寝不足で昼前に死ぬ」
 話しかけてきたシリウスとは目を合わさず、いつもより少し低い声で息子の眠りを妨げないように会話をするは、黒い革表紙の手帳と上物の羊皮紙を片付けた。
 シリウスがソファに座りながら杖を一振りすると、その場所に湯気の立ったマグカップが現れ、中には膜の張ったミルクがゆらゆらと揺れている。
「蜂蜜入りのホットミルクでいいか?」
「……ありがとう」
 ようやく顔を上げて視線を合わせると、は思っていた以上に疲れた表情をしていた。しかし、視線はすぐに外され、その疲れを隠すように優しい笑みで自分の息子を眺める。
「なあ、。ジュニアってさ……」
「ジュニアが?」
「……やっぱり、いい」
 冷たい水を一気に煽ると、先程テーブルの隅に寄せられた羊皮紙の束に気を止め、その中の一枚を摘み上げた。
 文字の羅列を追って視線が左から右へと完全に移動する前に、形のいい眉が僅かに動く。
 マグカップから立ち上る湯気の向こうからシリウスの様子を伺っていたは、僅かに口許を歪めるようにして笑い、甘い香りのするミルクにゆっくりと口をつけた。
「どうしたんだ、これ」
「辞表。さっき書いた」
「いや、そういう事を聞いてるんじゃなくて……いいのか?」
「金のことなら心配要らない。お前の事も報告書には偽の情報を書いておいたし、まあ、その辺りはあの髭も適当に誤魔化すだろ」
「そういう意味でもなくて……その、大丈夫なのか。家の事とか、確か向こうとこっちの魔法省がそれぞれ監視してるんだろ?」
「調べたのか?」
 カップをテーブルの上に置き、空いた腕の中に丸まった羊皮紙の束が現れる。
 憮然としたシリウスを見ないようにしながら、当時の出来事を判りやすくまとめてある資料に目を通し始めた。
「……ハリーに、その、おれたちの事色々話したろ。その後で……気になって、リーマスと一緒に何でが闇祓いになったのかとか、昔からこの職業嫌ってたみたいだし」
 バツの悪そうな表情をするシリウスには「別に責めている訳じゃないが」と濁った言い方をして、少し汚れたガラス製の灰皿に視線を落とす。
「しかし、情報が古いな」
「……?」
「屋敷や魔法生物たちなら問題ないという事だ。魔法省には既に手を引かせた」
「え、ど……どうやって? いつの間に?」
 一介の魔法使いがそう易々と出来ない事をさらっと発言したは、羊皮紙の束をシリウスに返しながら皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ジュニアを迎えに行く前にな、祖父さんに会いに行って脅迫した。元々家を盾に取るという案はあの男が出したものだからな。後はダンブルドアとファッジの力関係を考えろ」
「脅迫って……」
「おれが何かしでかす前に、先日おれにかけた呪いと屋敷の監視を解け。後悔する事になるぞ、と言って杖を突きつけた」
「……確かにそれは脅迫だな。らしいって言えばそれまでなんだけど」
 控えめに笑う声に反応したのか、の膝の上に頭を乗せていたジュニアがよく聞き取れない寝言を呟き、父親の服を小さな手の平で握り締める。
 起こしてしまったかと息を呑むシリウスだったが、しばらくして聞こえ始めた規則的な寝息にほっと胸を撫で下ろした。
「尤も、呪いの方は相変らずかかったままだがな……正直、性質の違う複数の呪いに掛けられるという状況は洒落にならないんだが」
「確かに、小さな呪い同士でも一緒にかかると変な効果を生むって事も結構あるけど。でも、ダンブルドアならそういう事もないだろうし、大丈夫だろ。それに……」
「……ああ、判っている」
 恐らく、ヴォルデモートの事を言っているシリウスに、はどこか翳りのある表情で頷き返そうとする。
 すると、先程大人しくなったはずのジュニアが今度はぐずり始め、単語にすらなっていない言葉を呟きながら父親の胸に縋ってきた。
「……おれの所為?」
「そうだな」
「悪い、折角寝てたのに」
「いいからもう行け。ジュニアが落ち着いたらおれも寝る」
 再度謝ろうとするシリウスを追い出し、毛布ごとジュニアを抱きかかえたは柔らかい耳元で大丈夫と優しく呟いた。
 それでも泣き止まないジュニアに優しく笑いかけると、いつの間にか早朝のニュース番組が放送され始めていたテレビの電源を落とした。
「大丈夫だから、な?」
 シンと静まったリビングの明かりを消し窓際に立って、うっすらと白み始めた空を見上げる。
 縋るように必死にしがみ付いている息子に、は同じ言葉を何度も繰り返しながら、一層強く小さな体を抱き締めた。