曖昧トルマリン

graytourmaline

形見草

 表面上は穏やかに、そのまま何日かが過ぎ去った。は食事に口を付けるようになったし、真っ青だった顔色も徐々に元に戻り始め少しずつ誰かと一緒に過ごす時間を持つようになっていた。
 未だヴォルデモートやダンブルドアと何があったのかは語ろうとしなかったが、幸い同居人達は待つという姿勢を選んだ。約一名、そういった事に対してデリカシーの欠ける男が居たが、他の二人に事前に釘を刺されていた事もあっての心が乱されるという事はなかった。
 あまりにも日常的な、まるであの日からの数日が嘘だったような雰囲気に呑まれていたのかもしれない。
 が、また消えた。しかも今度は堂々と、皆の目の前で。
 油断していたのだ。いつも通り朝食の準備を終えたが出かけてくると言ってふらりと家を出た時に、誰か一人でも一緒に付いて行くと言えばよかったのに。一人になりたいからと言った彼を強引にでも止めればよかったのに。
「ごめんなさい、今、何て言いました?」
『リーマス・ルーピン。同じ事を言わせないでくれるかな』
「ふざけるな! が帰って来ないとはどういう意味だ!」
「どけスネイプ! 居場所を吐かせる!」
『一世紀前ならいざ知らず、まさかこの時代に毛唐人とやり合う羽目になるとは思わなかったよ。ひとまず武器をしまってくれないかな、私は他と違い人に好意的だが人の持つ武器は余り好きではいんだ』
 シリウスの魔法を上半身を捻るようにして避け、焦げた壁紙を眺めながら、野蛮だねえと今し方屋敷に来たばかりの男がハリーに同意を求めた。黒髪黒目を持った無国籍風で中性的な、浮世離れした美貌を持った男だ。頭の中に直接響くような声が男を一層不思議な存在に仕立て上げている。
 スーツという格好と声の低ささえなければ女と見間違えていたかもしれないその男は、この家を訪れて我が物顔でリビングまで上がりこんでソファに座ると唐突にこう言った。はもうここに来ないよと。
 その一言に呆然とするリーマスと、激高するスネイプ、実力行使に出たシリウスを男は溜息一つで片付けた。唯一、どう反応すればよかったのか判らないハリーに話しかける表情は口元こそ微笑みを浮かべていたが目の中の感情が完全に死んでいる。
『子供の方が大人しいなんて字面にしたら可笑しな事じゃないか。君達三人は立派な大人なのだから子供よりは大人しく振舞いなさい、話が進まないよ。それと君はそんな所に立っていては疲れるだろう。ここに座りなさい』
 いつもはが座っている一人掛けのソファを指した男に、それぞれの感情を宿した四つの視線が集まる。再び魔法を放とうとするシリウスの腕をリーマスが掴み、まずは話を聞くべきだと説得する横でスネイプが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 ハリーは指定された場所とは別のソファに掛け、目の前にいつの間にか現れていたケーキと飲み物を見て僅かに身を引く。それを見て男が笑った、相変わらず目が死んでいたがそれ以外はによく似た笑い方だった。
『緑茶は嫌いかな? このお茶請けによく合うのだけれど』
「いえ……はい」
『どうぞ召し上がれ。しかしといい座敷童子といい……確か、ハリー・ポッターと言ったかな。君といい、どうしてこうも遠慮深いのかな。君達のような子供はもっと我儘でいいのだよ? でなければ大人はとても寂しいんだ』
「あの、お話の続きを」
 一人感傷に耽っていた男に、シリウスを抑えるようにしてリーマスが急かした。普段からあまり良いと言えない顔色が、より一層悪くなっている。
 ふむ、と顎を摘むようにして僅かに考えた男は、鳶色の瞳を見つめながら言った。
『可哀想に、の心はもう限界を越してしまったんだ。これ以上この国に居たくない、もう嫌だ、逃げたいと言っていた。相当切羽詰まっていてこのまま行くと自害しそうだったからね、本来居るべき場所に帰したんだよ』
「居るべき場所? あいつの居場所はここだろう!?」
『違うよ』
 激高したシリウスを、凍てついた男の瞳が射抜いた。殺気と侮蔑が織り交ぜられたそれが予想以上に堪えたのか、シリウスの舌が一瞬静止する。
 男は畳み掛けた。
『君が何を如何勘違いしているのかは大体想像は付く、その上で訂正しよう。あの子の居場所は私達の元だ。否、私達が身を寄せているあの子の為の場所だ。決して君達やリドルの元ではない……ああ、君達にはリドルではなくヴォルデモートと言った方が通じるのだったか、まあ、個人の名前などという記号は何でも良い。あの男は屋敷の皆で八度殺した後に、彷徨う魂を末代まで祟ってやりたいのだけれど、それはリドルを慕っているが許さないからねえ。それでも、こんな事になると知っていれば、私が殺しておけばよかった』
 最後の方は物騒な独白になっていたが、それでも口を挟めるものは居なかった。
 やっと言葉が切れた所で、今度はスネイプが口を開く。短いが、その場にいる者全ての気持ちを代弁する言葉だった。
「貴様は、何者だ」
『それは私の本来の姿は何か、という問いでは勿論ないだろうね、私の正体という情報は君達にとって価値がない。寧ろ私が何に所属し、そしてにとっての何かという問いで、しかも大方予想はついたけれど本人の口から出る言葉で最終的な結論を付けたい、という所かな』
「そうだ」
『セブルス・スネイプ。君は言葉が短いね、昔の君は、さてどうだったか』
 緑茶で口唇を濡らした男は体重をソファに預けるようにして座り、殺気に塗れた空気の中で一人ゆっくりと思案する。
『君達が想像している通り、私は人間ではなく日本に棲まう妖怪だ。この国ではなんと言ったかな……そう魔法生物、それに該当する存在で、一応種族名を名乗っておくと人間には八咫烏という分類に区分けされている。そして、の元庇護者だ』
「元? 今は違うのか」
『自主的に返上したんだ、だから元が付く。あの子も成人してしまったし、何より、人質がそう名乗るのも可笑しな話しだからね』
「人質?」
 四人が声を揃えて尋ねた事が余程面白かったのか、男は無言の笑みをかき消して声を上げて笑い出した。しかし、瞳からは怒気が見え隠れしている。それは目の前に居る異国の人間に、そして自分自身に向けられていた。
 一頻り笑った後、男は美しい笑顔を貼りつけたまま言った。
『君達は疑問に思わなかったのかい。何故嫌悪しているアルバス・ダンブルドアの命に従って闇祓いになったのか、何故日本国でも犯罪者を殺し続けなければならなかったのか。尋ねなかったのか、答えなかったのか、はぐらかされたのか、忘れていたのか、知らなかったのか。否、しかしどの道、にとって君達はその程度の存在であって、君達にとってとはその程度の存在であっただけか。ああ、こんな事なら外になど出さず屋敷を異界に沈めて繋ぎ止めておくべきだったか。矢張りあの子に同族の知人等必要ない、私達だけが居れば十二分だ』
 男の黒い目が虫でも見るかのように四人を見つめる。
 等に臨界点を超えているシリウスを、それでも抑えているリーマスがスネイプを見た。何か知っていたかと尋ねる視線は、横に振られた首によって逸らされる。
 闇祓いを、そして人殺しをしていた事すら知らなかったハリーは呆然と男を見つめ、それは本当なのかと掠れるような声で訊いた。
『私だけではない。屋敷の全ての神や妖怪が人質に取られ、名義の土地とそこに眠る先祖の骸すら盾にされた。君達はアルバス・ダンブルドアを慕っているようだが、私達にとってはリドルと同じように祟り殺してやりたい相手だよ。国際問題になりそうだから、やりたくてもやれないけれどね』
「ダンブルドアは人殺しまで容認はしていなかった、それは日本側の独断だったかもしれないとも言っている」
『ふむ、その点についてはあの子もそう言っていた事だ、素直に認めよう。けれどもね、そこは私達にとって然程重要ではないんだ。私達にとって重要なのはアルバス・ダンブルドアがから全てを奪い、今も傷付け続けているという現在進行形の事実だ』
 が傷付かずに生きていければそれ以外の誰が何人、何百人、何千人苦しみ死のうが殺されようがどうでもいい、男はそう続けた。
『先にも言ったけれど、はここから、魔法界から逃げたいんだよ。都合がいいようにと他人に好き勝手頭の中を弄られて、何もかもを蹂躙されて、心も体も限界なんだ。だから、は魔法界と繋がるここに二度と来ない。ああそうだ、卑怯者と、臆病者と、軟弱者と、お前はあの時に死ぬべきだったと罵られても構わないと言っていたよ。正直そんな暴言を吐く類の人間と付き合って欲しくはなかっただんだけれど、君達は何か言いたいことでもあるかな?』
 笑顔を貼り付けたまま、男は一人一人を見つめて言葉を待った。
 特にシリウスに対しては思う所があるのか、他の三人よりも長い時間見つめている。恐らくは伝いに、叫びの屋敷でピーターに言った内容を聞いて知っているのだろう。
 シリウスが、リーマスが、スネイプが沈黙する中で、やがてハリーが口を開いた。男は子供好きなのか、それともにそう言われているだけなのか、ハリーにだけは甘い顔をする。
「今までの話を聞いて思ったんですけれど」
『うん、何かな』
「貴方は、の記憶が改竄されていたのを知っていて、放置したんですか?」
『そうだよ』
「何故ですか。の事が大切なら、記憶が改竄されている事に気付いてたなら……」
『元の木阿弥だからだよ。判らないかな』
 男は今まで放置されていたケーキにフォークを突き刺し、小さく切り崩しながら言った。
『初めは、リドルとの記憶は過程はともかく結局は双方が合意の上で記憶を封じたから私達がどうこう言える立場になかった。二度目以降は、それこそ鼬ごっこだろう。思い出しては消され、また思い出しては消され。私達が介入した所でその回数が増え、あの子の脳に負担をかけるだけだ、だから今ここで、思い出した時点で魔法界とアルバス・ダンブルドアから、否、この世から隔離しなければならない』
「でも、今度はダンブルドアが……」
『今はその方が都合がいいからに過ぎないよ、記憶を一本化する事で罪悪感から逃れられる、と思っている。あの外道はまた都合が悪くなれば記憶を改竄するだろう、幸か不幸かこの事を知っている人間は君達四人くらいだから全員の記憶を改竄した所で然程負担ではない』
「ダンブルドアはそんな事をしない」
『坊や、それを本気で言っているのならば君は相当御目出度い頭だよ。血が繋がらないとは言え自分の孫の記憶すら操る男が、他人の記憶を改竄する事に躊躇するとでも思っているのかい? 大体君達だってよく……忘却術だったかな、魔法を使えない人間に対して罪悪感無くそれを使うのだろう』
「あれは、魔法界を守る為だから」
『アルバス・ダンブルドアもそう言うだろう。可愛い可愛い孫のを邪悪な闇の魔法使いから守る為に記憶を改竄したと。その結果がこれだ。可愛い孫を大切な同志にでも差し替えれば君達になる』
 あれを信頼してはいけないよ、あれの所為での家は不幸になっているんだ、と男は言い、ふと表情を変えた。
『と、まあ、ここまでは最もそれらしい言い訳を連々と並べただけだ。本音を言うとね、私達は君達に礼を言いに来たんだ』
「礼、だと?」
『そう、御礼参りだ。だってそうだろう、君達人間がを好き勝手傷付けてくれたおかげで、あの子は人間を信用しなくなったんだ。もうあの子は外界に降りない。私達にだけ縋り、私達にだけ甘え、私達だけを慕い、私達と一緒に人の手の届かない場所に来てくれる』
「そんな……!」
『惨いとでも言うのかな、私達の方は既にの了承は取っているのだけれどね。それに最初に、否、最初から最後まで傷付け続けたのは君達人間だろう。それとも被害者が許してくれなくなった状況に耐えられず加害者共が傍観者を罵る気かな。素晴らしい、とても私達には真似出来ない根性だ、私は人間のそういう所が実に気に入らない』
 細切れを通り越してペースト状にまでなったケーキの上にフォークを放り出し、男はソファから立ち上がった。腕時計と部屋の時計の二つを確認してもういいかなと呟き、では最後にと四人を見下ろしながら言う。
が何処に居るか、答えは空の上だよ』
 白い指が天井を、その上をさして下ろされる。同時に四人が理解した。
はまだイギリスに居た。飛行機に乗せるための時間稼ぎ、だったんですね」
『そう、出国を邪魔されない為のね。けれど私達は君達と違い嘘は吐かない、君達に話した内容に嘘偽りはないよ』
 は二度とここに戻らない、三度そう言った男に四人は目を配らせ合い、そして誰でもなく頷いた。