曖昧トルマリン

graytourmaline

柔らかい殻

 昼が過ぎ、今や空は薄紫色が支配する夕方になっていた。
 スネイプが朝食を下げに行った時も、リーマスが昼食を運びに行った時も、シリウスが昼食を下げに行った時も、は一言も話さずにベッドに座り込んでただ外を眺めていたという。
 下げられた料理にも一切手が付いておらず、水すらも飲んだ形跡がなかった。
 夕飯も手を付けないようならば何か手を打たなければならないと相談している大人達の会話を聞きながら、ハリーは静かにリビングから退出して階段上にあるの部屋を見上げた。
 確かに、はもともと体付きのいい方ではなかった。今は更に記憶の混乱で気力を消費してしまっているようで、彼の部屋からはまったく生気というものが感じられない。
 時折風が窓を叩く音が聞こえて、白い生き物がそれに紛れて飛んできた。
「……ヘドウィグ?」
 またネズミでも狩りに庭をうろつくのかと思ってハリーが外に出ると、ヘドウィグは低く一度鳴いて空の下をグルグルと飛び回った。
「付いてこいって言うのかい? いいよ、どうせ、暇だから」
 日が沈みかけ白から影へと変わりつつあるヘドウィグを追って歩き出すと、後押しするように風が追い風になる。少しの肌寒さを感じ腕を摩ると、それを心配してかヘドウィグが肩に止まって暖かい体を押し付けてきた。
 リビングから漏れた明かりが猛禽類の瞳に反射されて少し眩しかったが、同時に彼女が傍に居るという事が頼もしくもある。
 ヘドウィグの瞳は一点を見つめているようで、そこへ行くようにと何度か鳴いた。
 一体なにを見つけたというのだろうと躊躇いながらも足を進めれば見知った影が背の低い木に隠れるようにしてしゃがみ込んでいる。
? もう動いて大丈夫なの?」
 声を潜めて呼びかけると、の方は始めからハリーに気付いていたようでゆるりと振り返った後で真っ白な人差し指を唇にそっと当てて静かにするようにとジェスチャーしてきた。
 周囲は暗くなりつつあるのにその生白い肌だけはハリーにもよく見える。少しやつれて見えるのはきっと気の所為ではない。
 ヘドウィグは役目を終えたとばかりに静かに羽ばたき何処かへ行ってしまった。一人になったハリーはそっと近付いて生気の薄い男の隣に座り、緑の瞳を凝らして黒い視線の先を見つめる。何かが夕闇の中で蠢いていた、白い蛇だ。
『怖い、怖い。あれなに、なんだったの?』
「え、どうしたの?」
『いきなり襲われたの、とても怖くて凶暴な生き物に。ああ、無事かしら私の赤ちゃん怖がっていないかしら』
「赤ちゃん?」
 家の中から漏れ出す明かりを頼りに闇の中で目を凝らすと、白い蛇は長い胴の下に卵を抱いる。やや縦長の、瓜のような形をした白い卵だった。
「ハリー、彼女と話が出来るのか?」
 蛇と卵に向かっていた黒い瞳がハリーを見つめる。久し振りに、正面からを見たかもしれないという感想を抱きながら首肯すると、何故だかほっとしたような顔をされた。
「バックビークが彼女を襲ってな」
「バックビークが? それって……」
「いや、すまない。言い方が悪かった、バックビークは単に蛇と卵を食べようとしただけで、彼女も卵を守るために噛み付こうとしただけだ」
「……本当にそれだけ?」
 ハリーの指摘には困ったように笑った。肯定の笑いだった。
 単なる庭の生存競争問題には口出ししない。ヘドウィグが小鳥を食べていた時も、バックビークが別の蛇を食べていた時も、彼は特に何か言う事もなく放置していた。
 今回、バックビークを止め雌蛇に肩入れした事には何か理由があるはずだと短い経験の中から導き出したハリーは、次の言葉が紡がれるのをゆっくりと待つ。
 闇に沈みかけたの横顔は、ゆるやかな死を待つ病人のようにも見えた。
「……昔。まだ、ホグワーツに入学する前、確か今のような時期だった。この庭で身重の白蛇を見た。おれと、もう一人で」
 もう一人、その言葉にハリーの肩が自然に跳ねる。曖昧な言い方をしたが、そのもう一人というのは間違いなくヴォルデモート卿、にとってはトム・リドルその男に違いない。
「それを思い出して、記憶が本当にあったものかどうか、確かめたかったのかもしれない……ただ、それだけだ」
 こんな事をしても確かめる事なんて出来ないと理解しているが、それでも行動してしまったのだろう。白い掌が蛇へ向かい、自らを癒すように撫で上げる。
 の気質がそうさせているのか、蛇は嫌がる様子を見せずちろりと舌を見せてそれを受け入れた。ふと、その赤い目がハリーへ向く。
『ねえ、もう大丈夫かしら。怖いものはいなくなったかしら、この人間が追い払ってくれたのだけど、また襲いに来ないかしら』
「え、ええと」
『貴方、私の言葉が判るのよね。そこの人間とも話せるのよね、だったら聞いて。お願い、怖いのは嫌なの、赤ちゃんが心配なの』
 ハリーが蛇と話している事に気付いたは手を止めて、彼女は何と言っているのかと訊ねて来た。ハリーの反応から、自分の事が話題になっている事をなんとなく掴んだらしい。
「バックビークはもう来ないかって訊いてる。卵が心配なんだって」
「白蛇だけは襲わないように、おれの方から言っておこう。彼は頭がいいから、判ってくれるだろう。ただ、卵が孵ったら、この庭から出て行ったほうがいいと、伝えてくれ……バックビーク以外にも、蛇を狙った動物が来るかもしれない」
「うん、判った」
 素直に通訳に徹するハリーを黒い瞳が見下ろす。その黒い瞳を持つ男の横顔を、赤い瞳が見上げる。
『ねえ、どうしてそんな事を言うの。出て行くのは嫌よ、だってここが一番安全だって祖母から聞いたの。白い蛇はこの家で大切にされるから安全だって言っていたの』
「でも……」
『祖母は人間と約束したの。貴方みたいに、私と話が出来る人間が通訳してこの家の持ち主と約束してくれたの。名前だって言えるわ、確か……そう、リドルと、って名前の雄よ』
 息を飲んだ音が、伝わってしまったのだろう。ハリーの異変に気付き戸惑いに揺れた緑色の瞳を覗き込んだは、数秒の沈黙の後悲しそうな表情で笑い、ゆっくりと立ち上がった。
 何も言わず、ただハリーに手を差し伸べて立ち上がる事を促すと、蛇もまた諦めたように卵の上でとぐろを巻きそれっきり沈黙を通す。
「帰ろうか、そろそろ目が利かなくなってきた」
 家から漏れる逆光の中で、相変わらずは無理をして笑っていた。寒くないかとハリーを気遣う手の平は冷たく、顔はいつもより青白く見える彼の方が余程寒そうだった。
 下唇を噛んで空いている方の手を何度か握ってから、ハリーは決心して短く言った。
「蛇は居たって」
「うん?」
「蛇は、居たよ。彼女の……お祖母さん」
「……そうか。居たのか」
 握られていた手の力が緩んだのを感じ、ハリーは慌てて冷たい手の平を強く握り返す。驚いた顔をしたは、すぐに先程と同じ種類の笑みを浮かべハリーの手を引いて歩き出した。
 家の中に入り電話の受話器を取っても尚、手を離そうとしないハリーに対しては何も言わず、ただ好きなようにさせている。それが、余計にハリーの不安を煽った。
 この手を離してしまえば消えてしまう。ハリーには、そう思えてならなかった。