毀れた弓
至る部分が包帯で覆われ、首から下を動かそうとすれば激しい痛みが脳に伝わってくる。辛うじて動いている首から上の部分でいま自分の居る場所を眺める。
フローリングの床に、淡い壁紙の張られた四角い部屋。真っ白なベッドと、一組の机と椅子と、使い古されたクローゼット。それしかない。
片付けられた、というよりは、本当になにもない部屋。イギリスにある家の、自分の部屋。
「……いっ」
無理矢理体を動かして天井まで届きそうな幅の広い窓を見ると、外には薄紫に光る空を二分するように一筋の雲が落ちるように線を引いていた。
風に触れたくて、まだ血の滲む体を動かしその窓を開く。
白い窓枠が高い音を立てて外に開き軽く湿気を帯びた風が頬に触れる。
「冷たい」
「なに、午後には暑くなる」
「!?」
ドアの方からした声に思わず身を捻ると、激痛が体を駆け巡りじとっとした汗が額に浮かんで無様に片膝を床に付いていた。
馴れない体で長距離を走り続けたような動悸と、膝が壊れそうな感覚が急激に走り抜け血が冷たく感じる。
長い黒髪が血のようにフローリングに広がった。
「、そんな体で急に動くと傷口が開いてしまう」
「お前が……!」
上から差し出された皺だらけの手を撥ね除け、冷えていく体を引きずってベッドの上に身を投げるように座る。
スプリングがギリギリと悲鳴を上げ、速く細い呼吸で脳の中を落ち着かせていく。鋭い眼光は己の祖父を見据えていた。
「今はまだ、休養が必要じゃ。ゆっくりするといい」
「その後アズカバンにでも投げ入れるのか?」
冷え切ったの表情を眺めながら、ダンブルドアは僅かに首を横に振って杖を取り出した。
暖かい食事を魔法で出し、トレイに乗ったそれを机の上に置くとその杖をローブのポケットへと滑り込ませる。
「可愛い孫をあんなところに入れはさせん」
「嘘の上手い口だ」
吐き捨てるように呟いたは、傷口から血を滲ませながら唇を噛んだ。
「……記憶を戻したのは、お前か」
「それが、お主の為じゃ」
「おれの為だと?」
「そうじゃ。このままでは、お主が壊れてしまう」
「は、はははは……ははははははっ!」
臨界点を通り越した痛みはただの麻痺に変わり、憎しみだけで一杯になった心が笑みという形で表に現れた。
驚いた形相で扉から見知った影が現れて、制止する声と共にゆるく体を押さえ付ける。シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、セブルス・スネイプ。
こんな姿を晒したくないと思った、けれど、いまはそれよりも目の前の祖父という男が憎くて仕方なく、自制がきかない。
痛みと怒りで両腕が千切れ、言葉の見つからない悲しみで喉が張り裂けそうだった。
濁流のように感情が襲い、目尻からは涙が伝っている。吐き捨てる言葉は余りにも多すぎて、憎すぎて、声には表せれない事が逆流しそうだった。
「とんだ茶番だ」
「?」
「おれは逃げたのに。あの時、リドルと対峙した時に、壊れたくないから逃げたのに!」
爪が手の平に食い込み、シーツに真紅の染みを作る。
歯を食いしばり、感覚のない体を押さえ込まれ、抵抗する術などなにもなかった。
怒りがおさまったわけではない、憎くないわけはない、吐き出さなければ体を傷つけてもその痛みを押さえ付けてしまいそうで、その捌け口が欲しかった。
「あの時に一度、おれは記憶を取り戻した。歪で、穴だらけで、修復の仕様がない、他人の、貴様の手で好き勝手弄られた過去を思い出した」
扉の向こうに、その影を見つけた。
あの学友によく似た、少年の影を見つけた。
途端にその激流のような感情が鎮まり、純粋な何かが奥底から静かにわき出てくるような感覚だけが残る。
「彼への愛を思い出しても、エバンズを、ポッターを殺したヴォルデモートが憎かった。けれど、おれに初めて愛を教えてくれたのはその血塗れの手で、その手以上に今のおれの手は汚れていた。だからおれは逃げる為に、自分自身を偽った」
「自分で、記憶を改竄したと言うのか」
何故立ち向かえなかったと零すダンブルドアに、は何故立ち向かわなければならないのかと問いかける。
「壊れると判っているのに何故そうしなければならない。現に逃げ場がなく立ち向かわされている今、苦しくて苦しくて仕方がない」
狂気を纏いながらも慈母のような笑みと涙を浮かべ、元々その逃げ場を作ったのはお前だとダンブルドアに嗤いかける。
「お前は自分の都合が悪くなると、その度に人の頭の中を勝手に弄ってきた。何度も、何十度だって、記憶を作り変えてきた」
「そうしなければ、お主は闇の陣営に。いや、ヴォルデモート個人について行ったじゃろう」
「ヴォルデモートにだと? 馬鹿を言え、あの男は今でも殺したいほど憎んでいる。記憶を封じられる直前に、そうリドルと約束した」
「……どういう事じゃ?」
「貴様はおれを、おれの言葉を信じない。だから喋らないし、心も覗かせない。記憶も、思い出も、蹂躙させない」
失せろ、と眼力だけで語りかけ、ダンブルドアの背を見送ったは、体の力を抜き部屋に集まった人間を眺めた。
「まだ、少し、休ませてくれ」
「、でも……」
「記憶の整理が、したいんだ。まだ、混乱している」
誰に向けられたのか判断できない虚ろな笑みを浮かべたは、ああ、でも、と呟いて窓の外を見上げた。
「今持っているこれが、本当に、正しい記憶なのか?」
滲みのように広がった言葉に返される言葉はない。彼等が肯定できるのはが過ごした30年以上の人生の、ほんの一部分だけだと誰もが判ってしまったからだった。
彼のこの問に答えられるのは誰だろうか、様々な色の瞳が交錯し視線で会話がなされる。しかしこれも、答えは決まりきっていた。
この世界でたった一人、が選んだ人間がいる。けれど、その男はこの場にいない、居てはならない。
誰も何も言えない中で、暗く澱んだ幼い声が助けてという叫んだような気がしたが、その場に居る誰もが何も言えずにいた。
全てを最初から予想していたは、血だらけの包帯のままベッドに横になり、狂った楽器ように嗤い始める。彼を救える人間は、何処にも居なかった。