壊れた時計
最近、夏に入ったというのにこんな雨が多い。
「バックビーク」
窓辺から空を見上げているとひらりと姿を表した小さなヒッポグリフに、ハリーは疲れた笑みを浮かべた。
「シリウスたちはずっとあんな感じだよ……三人とも、だから今はぼく以外にエサをせがまない方がいいね」
カチカチと嘴を鳴らして餌をせがむバックビークの頭を撫でて、自分の部屋からダイニングの方へと歩いて行く。
リビングにはシリウスとリーマスが向かい合い、疲れたように会話をしている。スネイプは自室に籠っていて、少なくともこの数日間の内でハリーが彼を見たのは手の指だけで十分に足りる回数だろう。
「ねえ、バックビーク。は、どうなってるんだろうね」
この家に足りない人物の名を口にすると、バックビークも小さく鳴いて気遣うようにハリーに頭をすり寄せた。
「ぼくは平気。確かに、の事は心配だけど……でも、みんなの心配はその比じゃないよ」
三人が三人とも、目の前の子供に心配をかけないように普通に振る舞っているけれど、ハリーから見れば全員が普通とは言い難い状況だった。
「本当に……好き、なんだよね。みんな、の事」
出会って、まだ間もない男性のことを思い浮かべたハリーは軽く首を横に振って、小さく溜め息を吐いた。
好きじゃないわけはない。は、ハリーの感謝している大人の一人だ。
とても素直で優しい人間で、なんだかんだ言ってシリウスやリーマスに居場所を与えたり、自分の世話も必要な程度にしてくれる。構い過ぎることもなくて、親身になってくれる。シリウスやリーマスが父親のような存在ならば、は母親のような存在だった。
「女性っぽく見られるのは……、好きじゃないんだけどね」
そう言うと、バックビークは同意するように小さく鳴いた。
ハリーは冷蔵庫を開けて、なにか餌はないかと探すと小さな肉の塊を見つけそれを取り出してバックビークに与えてやる。
「でも、の育ての親が……ヴォルデモートだなんてね」
憎くはない。彼が憎いわけじゃない。
が自分の両親を殺したわけではない。だから、憎いわけではない。自分だって、育ての親は、自慢ではないがあのダーズリー一家だ。
「……は、本当に戻ってくるのかな?」
そう呟いた瞬間、玄関のベルがなり、誰かが慌てて扉を開けに言った。足音が随分騒がしくて、重い。多分シリウスだとハリーが言うと、バックビークも同意するように低く鳴いた。
しかしすぐに何かに気付いたのか小さな翼が一度羽ばたくと、その体が宙に浮く。その体がハリーの周囲を旋回していると、リビングの方からヘドウィグがやってきて激しく鳴き始める。彼女がそんな行動を起こすなんておかしい、そう直感したハリーはまさかと思い、二羽の動物を連れたまま玄関へと走り出した。
聞こえてきたのは安堵と歓声。玄関に立っているのはダンブルドアと、そして大人三人に抱きつかれているの姿だった。
「! 無事だったの!」
そう叫ぶとリーマスが真っ先に振り返って、駆けてきたハリーを輪の中に入れる。雨に濡れて意識のない男の顔をちらとだけ見ると、すぐに大人達は動き出す。
シリウスがその体を運び、リーマスは二人分のタオルの用意、スネイプは幾つかの場合を想定して作っておいた薬を取りに行き、ダンブルドアは玄関で体中の雫を拭いた。
ハリーはリーマスについて着替えとタオルを用意し、そしてそれをダンブルドアに手渡しながら礼を言う。
やっと戻ってきたのだと皆の表情に安堵の色が滲み、けれど、ダンブルドアの表情に気付き徐々に押し黙っていった。
「に、何かあったんですか?」
シリウスとリーマスが視線を交わしている間にスネイプが口を開き、薬で徐々に顔色が戻りつつあるの異常を確かめる。そう訊ねるという事は、少なくとも肉体的な損傷はないらしいが、逆にそれが不安を煽った。
ダンブルドアは伏せていた視線を上げて、しばらく逡巡した後にやっと口を開く。
「連れ戻す際に抵抗をされた。恐らくは、記憶を改竄されているんじゃろう」
ダンブルドアが祖父という事も知らず、全力で抵抗したきたのだと聞き誰もが視線を交わすだけで何も言えずにいた。誰もが続きの言葉、現状を説明する言葉を待つ。
「気を失っている間に記憶は元通り戻したんじゃが、それはこの子が生きてきた人生そのものの記憶じゃ。じゃから次に起きるとき、の頭の中がどうなっているのかは、わしにも想像がつかん」
ヴォルデモートに育てられた記憶も、シリウスやリーマス、そしてスネイプと共にホグワーツを過ごした記憶も、全て彼が体験した、云わば改竄のない正しい記憶だけが今のの中にあると言われ、四人の視線が未だ気を失っている青年に注がれた。
傍に居なくては、と誰もが思う。きっと混乱するだろう、今まで生きてきた道程は紛い物だったと宣言されるようなものだ。誰もが自分だったら、と想像したに違いない。
沈黙の中、ダンブルドアはその細腕でを抱え上げると、ハリーにの部屋の場所を尋ね音もなく静かに階段を上がっていった。