曖昧トルマリン

graytourmaline

ひとでなしの恋

 初撃が床から生えた壁に当たり粉塵が舞う、二撃目を放つ前に天から溢れた光に紛れた白刃が宙を分断する。刃を持ち瞬きの間に姿を消した右腕は地とほぼ水平の位置で震え、止まっていた。
 右手に握られた刃の切っ先は相手の体に触れる数センチ前で強制停止し、魔法によってあらかじめ作り出されていた見えない盾が火花を散らして役目を全うしている。力任せに押し切る事は不可能だと判断したは瞬時に接近戦に戦法を変更、持っていた刀が空気に溶けないうちから体を回転させ左足の踵で相手の側頭部を捉え部屋の対角線上へ吹き飛ばした。
 相手に触れた体の部位に激痛が走るが幻覚と判断、しかも手ごたえはほとんどない。への対策を施してきたのか、相手は物理攻撃をほぼ無効化にしている。
 暗闇の中で立ち上がったのは白髪の老人が一人。向けられた杖から魔法の軌跡を予測して閃光を避けると、再び間合いを縮め、手にした一人掛け用のソファを片腕で投げ飛ばす。
 赤い閃光をまともに喰らい粉々に砕けるソファの影から銀製食器を強襲させるが、矢張り魔法で作られた壁に阻まれ相手にまで辿り着かないが、それも予測していた事。
 の手が老人の体にかかり、そのまま床に引き倒す。首にかけた左手が焼け爛れるような感覚が襲うが、そのまま五指に力を込めようとした所で肩から先の感覚が消失する。
「やれやれ、相変わらず荒っぽいの」
 下からは暢気としか思えない年老いた男の声。体に何重もの反対魔法を纏った魔法使いが体を起こし、の黒い瞳を見上げた。
「最初から許されざる呪文を使おうとするのはお主くらいじゃよ」
 親しい口調で語りかけてくる老人にの眉が寄る。こんな男は知らない、見た事もない。そう表情が語るが、相手は理解しない。
 再び間合いを取り、老人が起き上がる仕種をじっと眺める。すっと細められた瞳に、何度目かの雷が写り込んだ。
「その様子だと、また記憶を弄られたようじゃの」
「……何者だ」
「わしの事まで、消されたのか」
 可哀想に、と老人は言った。貴方に可哀想扱いされる覚えはないと言うと、それもそうじゃと納得された。警戒して杖先を少しだけ上げると、それに反応するように老人の周囲に防御の為の呪文が一斉に発動した。
 接近戦と魔法を封じられ、はこの屋敷、この部屋を支える柱を壊そうかと次の手を模索し、実行に移そうとした。しかし、老人は皺だらけの手を上下させ杖を下げるように言う。
「わしはアルバス・ダンブルドア。お主を迎えに来たんじゃ」
「近代最高と謳われる魔法使いに迎えられる覚えは微塵もない」
「お主は記憶を弄られておる。お主は元々わしの……」
「おれが記憶喪失だという事を頭から信じろと?」
 闇の魔法使いを破る者。その存在にの心は厚い鎧に覆われた。自分の記憶は全て揃っている。この男の吐く言葉は全て嘘だと、警戒を解く事無くダンブルドアに杖を向け続けた。
 三度、ゆっくりと深呼吸をすると再びダンブルドアが口を開く。
「お主、トム・マールヴォロ・リドルが一体何をやっているのか、知っておるのか?」
「殺人」
 短い言葉で即答すると、ダンブルドアの薄いブルーの瞳が僅かに動く。何故驚かれるのか、そして矢張りリドルと嫌な方向の繋がりを持っているらしい老人にの警戒心が更に強くなっていった。
「殺人者と知っていながら、それでもお主は……」
「おれの記憶違いでなければ、貴方も人殺し。しかも親族殺しのはずだが?」
 疑問符を浮かべ、は試しに武装解除の呪文をダンブルドアの背後から放つよう仕掛けるが、盾の呪文に跳ね返される。杖が空気を切る音に防御の呪文を唱えると、麻痺の魔法が相殺された。
 言葉が効いたのだろうか、先程と雰囲気が違う事を察し、は興が削がれたように振る舞い、溜息を吐く。
「おれが原因でリドルに迷惑はかけたくない、早く魔法を解いて帰ってくれ。おれは貴方と行かない。おれにはリドルしかいらないし、貴方の全てが気に入らない」
「だがリドルはお主だけでは満足していない。人を殺し、魔法界を手に入れようとしている」
「承知の上だ。第一、彼が人を殺したのも、魔法界を手に入れようと画策し始めたのも、おれに出会う前だ。それともう一度言う、おれは行かない、帰ってくれ」
 喋りながら屋敷全体にかかっていた魔法を解き始める。ダンブルドアもすぐにそれに気付いたのか立て続けに麻痺の呪文を唱え始めた。
 眼前の戦闘を交わしつつはほんの数瞬、塔のある方角へ視線を走らせる。リドルの気配はまだ愛しい者を失って彷徨っていた。
 もう一度目の前の戦闘に意識を戻し、どうやって拉致から逃れるか思考する。屋敷の魔法を解くにはあと十分程度かかってしまい、そんな事をするのであればこの老人を殺した方が手っ取り早い。しかし、相手にはの魔法は全て効かず、物理攻撃も封じられていた。
 左肩の麻痺がようやく回復し始める。幾つもの呪文を並列して展開して脳が煮えそうだったがそうも言ってはいられない。ダンブルドアの方を見て、ふと背筋に怖気が走った。
 距離を取ろうとしていた両脚に力を込め、窓を破り庭へと脱す。数秒後、一部屋の半分を覆う巨大な麻痺の魔法が展開され、粉々になった家具が宙を舞った。
「勘は信じるものだな……」
 あんなものが直撃したら流石に耐え切れない、冷や汗を拭ったは重くなった芝生の上を跳ねて赤い閃光を避ける。相手の息は上がりつつある、体力の差が出てきたかと半ば納得すると風上に立ち、ダンブルドアの方へ向けて毒性のあるガスを発生させた。しかし、経験値が上の相手はそれすぐに見切り反対魔法を唱える。
 実力と経験はダンブルドアにあり、体力の面でのみ勝っているは明らかに不利な状況にある。得意とする白兵戦を綺麗に封じられてしまえば、ただの体力があるだけの魔法使いと成り下がってしまった。それでも、一般的な魔法使いよりは遥かに強くはあったが。
 試しに実家で習った異国の魔法を唱えるが、これも相殺される。呼び出した毒蜘蛛もダンブルドアの体に触れた途端焼け死に、どれだけ複雑な呪文を纏っているかのかだけはよく判った。
 そう考えながら次の呪文を唱えているの体の回りでも時折小さなスパークが発生し、麻痺性の高い毒を持った羽虫が蒸発する。何も反撃性を持った防衛呪文を習得しているのはダンブルドアだけではない。
 黒い視線が庭を這い、雨に濡れた芝生を睨み付ける。雷鳴が遠ざかり始め、息の上がり始めたダンブルドアが力に物を言わせ畳み掛けるが、閃光がの体が貫く事はなかった。
 作り出された二種類の毒水が地を焼き、上の方の空間から視線を感じ顔を上げると、庭の異変に気付いたリドルが文字通り飛んで来ていた。相変わらずと、そしてダンブルドアも認識出来ない状態だったが、何が起こっているかくらいはすぐに理解して遠くへ避難していたナギニを呼び寄せる。
「流石にお主ら二人とまともにやりあうのは無謀じゃよ」
 呟いて、ダンブルドアは強力な麻痺呪文を繰り出しの反対呪文を打ち消して、右腕の自由を奪った。もしも一連の様子を見てしまえば、リドルの唯でさえ透明度の高い顔色が青くなったに違いない。今だけは少しだけ相手に自分の姿が見えないことを感謝し、また、目の前の光景に安堵する。
 焦げた芝生と森の入り口の傍でダンブルドアが激しく咳き込んでいた。先程の毒水が混ざり合い、発生させたガスを吸い込んだ老体に先程の威勢はない。
「……殺さないと、今の内に」
 ダンブルドアに握られた杖からは既に毒を和らげる魔法が作り出されていた。左腕で杖を拾い、咳き込む老人に向かい許されざる呪文を唱えようと口を開く。同時に、先程の雷とは違う光が森や湖から溢れ、屋敷全てを覆った。
 それが常識を逸脱したほど広範囲な麻痺の魔法だと気付いたのは、肉体を持たない身のリドルだけだった。人の形に表れた芝生のへこみに気付きの存在を認識すると、触れることも出来ない体で名前だけを必死に呼ぶ。
 その声を聞き黒の瞳がうっすらと開かれた。起き上がって戦わなければならないのに、その四肢も、舌すらも痺れてしまい返事すらままならなくなってしまっている。
「本来なら、こんな大掛かりな呪文は使いたくなかったんじゃ」
 姿を見る事も、声を聞くことも出来ないダンブルドアに対し殺してやると叫ぶリドルには辛うじて自由な目だけで静かに謝った。老人の手が自由を奪われた体に触れてそこから溢れた光の帯が巻き付き、輝く文字の羅列が謝罪に絶望の彩りを添える。
 目を閉じて意識を保つ事を放置しかけた脳が莫大な力が側で動く気配を感じ取った。屋敷にかけた魔法の解除でもしたのだろうかと予想していると、次いで強力な力で体を引き摺られた。姿晦ましでもしたのだろう、そこまで感じ取っては思考を放棄する。
 ただ、リドルが自身を呼ぶ叫び声だけが、いつまでも耳に残った。