白鷺
あの後、すぐに姿を現したダンブルドアの力を借りて、数十分の格闘の末に四人が駆け付けた時にはもヴォルデモートの姿も、その死体も、血の跡すらもなかった。争った形跡は一切無く、そして何故かキッチンにシフォンケーキと温くなったクリームが残っていた。
一体何が起こったのか、この状況では訳が判らない。シリウスとリーマスが同時にそう言い、スネイプは沈黙したままダンブルドアを見た。そのダンブルドアはというと手がかりになるような物がないか一通り調べてから、真っ青な顔をして不安そうな顔をしているハリーの頭を撫でてここで待つようにと告げると何処かに消えてしまった。
残された四人はそれぞれの表情で頷き、重い沈黙のままこの数時間を過ごしてきた。
「校長先生?」
「すまんの、少し時間がかかってしまった」
無言で紅茶を出したシリウスに礼を言い、一人掛けのソファに深く座るダンブルドアに対し真っ先に口を開いたのは普段より一層険しい顔をしているスネイプだった。
「校長、は?」
「駄目じゃ。足取りすら掴めん……掴めんが、一つだけ言える事がある。は死んでおらん」
確信を持ったダンブルドアの物言いに、塞いでいた周囲の空気が少しだけ戻る。けれど当のダンブルドアはというとその事態を喜ばしいものとは考えていないようだった。
その空気を感じ取り誰も口を開かないでいると、髭に覆われた口元から疲労の溜息が吐かれる。
「魔法省は動かん。わしが錯乱の呪文を食らったのではないかとまで言ってきた」
「ではの祖国の機関は?」
「あちらに情報を流せばそれこそ最後じゃ……あの子の屋敷の者達が黙ってはおらん」
ハリーは大人たちの言葉を遠巻きに聞きながら、ダンブルドアをじっと眺める。リーマスが何かに気付いたのか、ハリーの方へ歩いてきた。
「どうしたんだい、ハリー」
「あ。うん、なんでもない……」
感じている違和感は下らない事で、それを言うのは憚られるような状況に、ハリーは無理をして笑ってソファに体重を預ける。
そのハリーの様子に何かを感じたのか、今度はシリウスが口を開く。多分これで正解だろうという声色だった。
「ハリー、ダンブルドアはの祖父なんだ」
「ああ、そうだったんだ」
言いたい事はそうじゃないのだけれど、その心を隠してハリーは焼け付くような胃の痛みを感じないように表面だけ笑ってソファに体重を預ける。
けれど空気は相変わらず重い。誤魔化し損ねた事を理解し、大人たちが自分一人を見る空気に耐えれなくなって、自分の見たものを言葉にしてみた。
「……リドル」
「リドルじゃと?」
「校長先生が来た少し後に、一瞬だけの姿が見えたんです。それで、が……ヴォルデモートの事をリドルって呼んで」
その言葉だけでダンブルドアだけが全てを理解したように、ハリーの肩を叩いた。残りの三人はまだわからないと言った表情でハリーを見ていたが、その疑問を遮り口を開いたのはダンブルドアだった。
「は、あの子はヴォルデモートの事をリドルと呼んだのか」
「先生、は……!」
「ハリー、問題ない。は闇の陣営には組しておらん、わしがそうさせなかった」
「じゃあ、ぼくが見たのは」
「いや、幻覚ではない。恐らくじゃが、本物じゃ」
ダンブルドアの手がハリーの肩を強く叩き、大丈夫だと言葉にせず告げる。
まだ判らないでいるシリウス、リーマス、スネイプを薄い青の瞳が捉え、そして外された。紅茶を口にして少しの間を取った後で、皺だらけの両手が組まれる。
「とリドル……いや、ヴォルデモートの関係について、話をしたおいた方が良さそうじゃの」
シリウスとスネイプがソファに深く座るのを見てから、ダンブルドアがゆっくりと口を開く。
「ハリーの今言ったリドル、トム・マールヴォロ・リドルはヴォルデモートの本来の名前じゃ。訳あってハリーはこの名前を知っておるが、今は必要のない説明じゃな」
一年と少し前の話を振り返らず、白に埋もれた口は動き出した。
「リドルはが生まれる以前からの祖母と親しい仲じゃった。彼女がホグワーツで教鞭を取っていた時期は僅かじゃが、リドルは彼女を師と仰ぎ、卒業後もその交流は続いておったという」
ダンブルドアの視線がハリーに向けられた。
「に出会ったのも、彼女の元を訪れた時じゃろう。の元には両親はおらんかった。そんな時に現れたリドルは、あの子にとって親のような存在になった事は想像に難くない」
「じゃあ、はヴォルデモートに育てられた?」
「そうじゃ、シリウス。しかしは間違いなく闇の陣営側の魔法使いではない。今はまだ……としか言えぬが」
その場にいた全員が、ダンブルドアの言葉に耳を疑う。
辛そうに言葉を吐くダンブルドアを遮る物は、それでも誰もいない。ここで口を開いてはいけないと、全員が感じたからだった。
「ヴォルデモートは、あの子がホグワーツに入学する前に自分に関する一切の記憶を封じた。これもわしの想像じゃが、頃合いを見計らって記憶を戻しスパイとして活動させるつもりだったかもしれん」
やり切れない多くの感情が四人を襲っていた。
ダンブルドアは、大きく息を二三度吐いてまた言葉を紡ぐ。
「しかし、結局あの子はヴォルデモートに関する記憶を取り戻さなかった。今まで何度か危うくなった場面はあったが、その度にわしが封じてきた」
ダンブルドアはがヴォルデモートに育てられた者としてではなく、祖母と暮らしてきた一人の魔法使いとして生きてきた事を強調して、更に続けた。
「しかしあの子が記憶を取り戻してしまったのならば、闇の陣営につく可能性がない訳ではない。いや、闇の陣営自体には加わらないが、ヴォルデモート個人に付く事は考えられる」
「そんな……!」
「でも、はおれたちの仲間だ!」
「リーマス、シリウス。あの二人の絆は君たちが思っているよりもずっと強いんじゃ。アズカバンを満たす死喰い人の忠誠心以上のものが、二人の間には存在する」
ダンブルドアはそれ以上語らなかった。クッションを力の限り殴ったシリウスは、声にならない悔しさを瞳の奥に宿していた。リーマスも、壁にもたれたままずっと黙ったままで、スネイプは奥歯を噛み締めて絨毯を睨み付けている。
ハリーはただ、脚に両肘をついて、自分の額の傷を撫でた。
「校長先生……あの」
「……が万が一闇の陣営についた時は。例えこの老いぼれが死のうとも、そこから連れ戻してみせる」
「……」
「勿論それが、にとって幸福なのかは判らぬ……けれど闇の陣営に組する事は、あの子にとって幸せだとは、わしには思えん。昔からそう思っておったし、今でもそう思っておる。だから何度も、何十度も、あの子からヴォルデモートの記憶を消してきた」
四人は何か言いたそうにダンブルドアを見ていたが、老人は儚げに笑っただけで、リビングのドアに足を向けた。
「網は張っておいた、いつでも行動出来るようにしておいてくれ」
「はい……」
それは誰の返事なのかわからなかった。けれど、ダンブルドアは振り向きもせずに、闇の深くなった外へと歩きだそうとしている。
その背中は、偉大と讃えられる魔法使いのものではなく、孫の安否を気遣う一人の老人のものだった。