曖昧トルマリン

graytourmaline

風切羽

 外に出した四人の気配が一向に遠ざかる様子がない。それどころか、この屋敷の結界を破ろうとしている事に気付きは物陰に身を隠しながら大きな舌打ちをした。
 一人残った仲間を助けると表現すれば耳障りがいいが、やっている事は馬鹿のそれである。誰か一人でもハリーを連れて逃げればいいのに誰もそうしない、あの中で最も理性の働くリーマスですら動く気配はないのだからもう駄目だ。
 この場は危険極まりないのだ。ヴォルデモートも、そして自身の存在も。だから、一刻も早く遠くへ逃げて欲しいのに。
 自覚させられたのだ。脳の欠陥と、積み上げられてきた記憶の損傷を。恐らく自分は闇の陣営に組している。しかも、ヴォルデモートの直下に。
 もっと早くに気付くべきだったのかもしれない。少なくとも不自然な記憶の跡に気付き、ルシウス・マルフォイに憑依したのがヴォルデモート卿だと確信を持って見抜けた所で手を打つべきだった。はヴォルデモートと直接対峙した事はない、少なくとも自分ではないと思っていた。
 けれど肉体の取った行動とヴォルデモートのあの口振りはどうだ、この胸の内から溢れ出る感情は何だ。縋るべきなのだと、慈しむべきなのだと、己の全てを彼に捧げろと、そして愛されろと囁き続けるこれは一体何なのか。
、ここに居るのか?」
 薄ぼんやりした声がリビングに響き、家具の陰に身を潜めていたの筋肉が強張る。ぴんと張った静かな空気を穏やかな笑みが揺らし、足音のない存在が近付いて、顔を覗き込んだ。咽喉が引き攣り、腕はまた動かない。
「もう隠れ鬼をする年齢でもないだろう」
 融けてしまいそうな、場違いなほど優しい手付きで髪を撫で、額にはキスを落とされる。細められた紅色の瞳は可愛らしい悪戯をした子供を見るそれと似ていた。
 殺気は塵ほどもない。与えられるのはただただ心地いい愛情で、少しだけ躊躇うようにして触れてくる指先は温かかった。
「結界に手を加えたんだな、以前のつもりで飛ぼうとしたら何度か弾かれて驚いた」
 大きな手の平が差し出される。一緒に行こうと瞳が語っていた。
 首を左右に振って拒絶をすると美しい青年の顔が曇る。心臓を裏側から握り締められるような痛みに囚われている間に、半透明の指先が眼球の上を滑り、唇がプリーズと囁いた。
「リドル。トム・マールヴォロ・リドル」
「……?」
「私の名だ、呼んでご覧?」
「リ、ドル」
「もう一度」
「……リドル」
 幼子に言葉を教えるような柔らかさで告げられた言葉を素直に繰り返すと、これ以上ないくらいの笑顔で青年が微笑む。もう一度と再び促されると今度は言いよどむ事無く名前を紡いだ。また、嬉しそうな表情をされる。
 この青年がヴォルデモートだとは思えないくらい朗らかな表情に、自然との緊張が緩んだ。今度は促される事無くリドル、と名を呼ぶと、なんだいと返されながら抱き締められる。
 背中を撫でるこの腕を知っていた。顔を埋めた肩口も、手を置いた胸も、全てが懐かしい。低く囁かれる声と吐息、緩んだ紅の視線、そして血の匂いに脳がドロドロに溶ける。
 初めて出会ったときもこうやって血の匂いをさせていた。そうやって思い出せた最初の風景から、今までの記憶が徐々に蘇ってくる。自分が歩んできた本当の道が見えてきた。どうしようもなく歪な、穴だらけの道だった。
 一体何度、リドルの事を思い出し、何度忘れさせられたのだろう。何度失う直前の絶望を味わっただろう。何度あの男に、ダンブルドアに邪魔されたのだろう。腕を焼かれ、脳に負荷を掛けられ、肉体がボロボロになっても尚、記憶を取り戻させまいと忘却術を浴びせられ続けただろう。
 ぐちゃぐちゃに混ざり合う記憶を一つずつ確かめていけば、ああ確かにと納得できる部分が沢山あった。
「……そうだ」
?」
「父さんも、母さんも、お祖母様も教えてくれなかったのに、入学前から魔法が使えた事を疑問に思うべきだったんだ。誰から得た知識なのかを、最初に考えるべきだったんだ」
「思い出したのか?」
 今にも泣きそうな顔をしているリドルが伸ばした手に、表情がないままそっと触れる。自身の手を引いて愛してくれていたこの手が、ジェームズやリリーを殺したのだと思うと不思議な感覚に陥った。
 今まで奪った命を返せと喚き立てる自我と、例え血に染まっていてもその手を欲する自我、そして握ったこの手以上に自分が奪ってきた命を数えてみろと嗤っている自我が同時に脳内に出現するのだ。
 どれが正しい自分なのか判らない。どれも正しいでは個を失ってしまい、どれも間違いでは虚ろになってしまう。
 けれど、リドルの全てを肯定する幼い自分とヴォルデモートの全てを否定する若き日の自分、己の無力を嘆く自分、そして彼以上に多くの命を奪い道具のように生きてきた自分が一緒に居る事など不可能だった。
 脳が逃げ場を探し始める。分断され上書きされた記憶の量だけその自分が居て、血の流れない殺し合いが始まる。孤独に耐えられず助けを求めていた頃の自分は真っ先に八つ裂きにされた、孤独を好んでいた頃の人格達はそうではない人格達に押し潰されて消えていく。
、どうしたんだ?」
 手を取ったまま動かなくなったを心配したのか、リドルは沈み込んだ黒い瞳を覗き込んだ。その瞳は光を宿さないまま、ゆるりと虚ろな笑みを浮かべている。
 やがて、微かな光が宿ったかと思うと、は何かに呼ばれるようにリビングを出てキッチンへと向かった。おもむろにシフォンケーキを手にすると、付いてきたリドルを振り返ってふわりと笑う。
「ねえ、リドル。シフォンケーキ好き? この間食べたジンジャーケーキが美味しくて、真似したら作り過ぎたんだ。あれ、でもリドルも一緒に食べたよね、だっておれが作ってみるって言ったら楽しみにしてるって……」
!」
「どうしたの、そんな顔で大きな声なんか出して」
 はリドルの様子を笑いながら切り分けたケーキを皿に盛り付けてフォークと共に差し出す。差し出された方はクリームとミントが添えられたそれを静かに受け取って、離れようとした体を抱き寄せた。
 黒い瞳がきょとんとした風でリドルを見つめた。そして困ったように首を傾げ、どうしたのかと自分の異常を棚に上げて手の平で額の体温を測る。
「熱はないみたいだね、もしかして恐い夢でも見た?」
 今見ている最中だと言おうとした口を噤み、持っていた皿をテーブルの上に置いて細過ぎる体を強く抱き締めた。苦しいと無邪気に笑うその声が壊れてしまった人間のものだと、一体誰が思うだろうか。
 脳が、心が耐えられなかったのだ。それが情報量からなのか、過去の記憶からなのか、もっと別の要因まではリドルには判らなかったが、は壊れてしまった。リドルと共に居る為に現実に背を向けてしまった。
「ねえ、リドル。顔が真っ青だよ、何があったの?」
「……済まない。済まない、まさかこんな事になるなんて」
「どうしたの?」
 リドルが何故謝っているのか見当が付かないでいるは、残りのシフォンケーキとクリームをテーブルに置くと椅子を引いてひとまず座ったらと提案する。
 しかしすぐに困った顔をして、視線を窓の外にやった。数秒の間そうしていると、不自然な沈黙に嫌な予感を覚えたのかリドルがどうかしたのかと青い顔のまま尋ねた。
「よく判らないんだけど、力任せに家の結界破ろうとしてる人が居る。凄く力が強い人、物取りって感じじゃないんだけど」
 誰だろうね、と暢気な感想を述べている横で、リドルは誰が来たのかをすぐに理解してリビングに落ちていたの杖を呼び寄せる。
 昂ぶった脳裏に一瞬だけ景色が走る。結界に向かい杖を突きつけるダンブルドアの姿が見え、数人の男の声に混ざって魔法を放つ声が聞こえた。
「リドル、どうしよう。追い払いに行く?」
、ここを離れるぞ!」
「離れるの? それはいいけど、何処に行けばいい?」
「私が連れて行く!」
 リドルはそれだけ叫ぶと、無く屋敷の機能を停止させながら落ち着いた様子で追跡を困難にさせる魔法をばら撒いているの体を抱き寄せて姿を晦ませた。
 無人のキッチンに激しい音が奔り、後に残された静寂とケーキの上にゆっくりと塵が積もる。無人の屋敷のテーブルに放置されたクリームは、やがて夏の暑さに温く溶けていった。