曖昧トルマリン

graytourmaline

誘蛾灯

「あれ、。出かけるの?」
「ああ、夕刻までには帰る」
 友人の残した遺児が心配そうにの顔色を窺った。
、ダイアゴン横町に出かけてから変だよ? 顔色も優れないし……あそこで何かあったの?」
 ハリーの言葉に、は苦笑しながら大丈夫だと答える。彼の頭を撫でている手の平と、胸の奥が何故か酷く痛んだ。
「丁度その後に闇祓いの仕事が来て……少し滅入っていただけだから、安心しろ」
がどんな仕事しているのか判らないけど……そんなになるまで」
「そうも言ってられないんだ。あいつ等の事、宜しく頼むな」
 さすがにハリーも簡単に辞めればとは言えず、無理に笑いを浮かべるの背中を見ながら小さく行ってらっしゃいと呟くことしかできなかった。
 姿を晦ませたは一枚の羊皮紙を握り締め、小さな村を見下ろす小高い丘の上に姿を現す。
 袖も裾もすり切れた濃紺のローブは黒い髪と共に風にはためき、まるで死神が眼下の墓地から這い出て、丘の上の屋敷へと誘われているようだった。今にも降りそうで、降り出さない天気の下では、余計に気味悪さを増長させた。
 あの日から三日、考えた。何故自分はヴォルデモートに杖を向けることが出来なかったのか。シリウスにすら簡単に刃を向けたというのに、人を殺す事にはもう慣れているはずなのに、あの男と対峙した時には杖を向けるなんて考えすら浮かばなかったのだ。
 自分の中に知らない何かがあるような感覚があった。記憶の扉を探せとヴォルデモートは囁いた、そしてその言葉通り、自分の記憶の中に明らかにおかしい箇所が幾つも存在していたのである。例えばそれは、折角描いた絵の上に白いペンキを撒かれたような。そんな不自然な跡。
「……この屋敷か」
 違和感と不安定な心を抱えたまま、は自分の家より相当大きな屋敷を見上げ、震える手で杖を掴んだ。
 紙上に指定されたその屋敷はもう随分前に建てられたのか、手入れのされていない古さを感じさせた。奥の庭の方で老いた男が一人、庭の手入れをしてるようだったが男はを気にも留めていない様子で庭の手入れを続けている。
「よく気付かないものだな」
 皮肉と、哀みと、安堵を織り交ぜたような台詞を残し、は屋敷の中へと入り込んだ。
 埃っぽい室内は、窓すら開けられない状態で気管支へと侵入してくる埃を追い出すには何度も咳をしなくてはいけなかった。
 それを合図にするように、一匹の、巨大な蛇がどこからともなく現れ鎌首をもたげてこちらをじっと見つめ始める。ほんの数秒の出来事だろう、蛇はすぐにその巨大な体をくねらせてどこかへと消えて行った。奥の部屋、彼女はそう語った。
 はその蛇を律義に見送ってから、コツコツと靴を鳴らして廊下の一番奥の部屋まで急ぎ足で歩いて行く。ドアノブに手を掛けた時、初めて背後から声が聞こえる。
「来たか、
「……ヴォルデモート」
 うっすらと背後に佇んでいたのは、儚げに揺めいている男のゴーストの姿だった。いや、ゴーストと呼ぶよりは、祖国の幽霊と呼んだ方がいいのかもしれない。その存在はぼんやりとした蝋燭のような存在で、とても自己主張の強いゴーストとは違っていた。
「ナギニも使えない。ここには招かぬように言ったというのに……」
「ナギニ、さっきの蛇か」
 ノブから手を放すと、はいきなり現れた男にゆっくりと注意した。
「パーセルマウスでもない魔法使いを蛇に案内させる方にも問題はあるとは思うが?」
「……」
 告げられた注意に、ヴォルデモートは笑いを殺して宙を漂いながら別の部屋へを案内した。椅子を勧められても、は首を横に振り、板が打ち付けられている窓に体を寄せる。
「杖を、構えないのだな。相変わらず」
「……っ!」
 穏やか過ぎる指摘に、は杖を握り締め、ヴォルデモートの喉元に向ける。しかしそれも長くは続かず、すぐに腕が下りてしまった。
 この男に杖を向けてはいけないと、真っ白に塗り潰された部分が主張するのだ。傷付けてはいけないと、それは絶対に駄目だと。
 呼吸を乱し、自分自身の躊躇いを表情に出してまで困惑しているを見下ろす赤い視線は後悔と慈しみが均等に混ざられ、透けた唇が耳元に寄せられる。
「あの時、お前を連れて行けば良かった。そうすれば、あんな事にはならなかったのに……こんな目に遭わせる事なんて、なかったのに」
「なに、それ……知らない。おれは知らない」
「側にいると、守ると、言ったのにな。私ばかりお前を裏切って、何も出来なかった」
 青白い焔のような指が額の汗を払い、唇を重ね合わせるだけのキスをする。透き通っていた輪郭が次第にはっきりし始め、から血の気が引いている事に気付いたヴォルデモートが慌てて唇を離す。
、何て事を……!」
「お、れ?」
「お前に触れる為の力なんてどうにでもなる。私はただ、思い出して欲しいだけなんだ!」
 泣きそうな顔で、一人の青年の顔でそう訴えかけられると、胸の奥が激しく痛んだ。彼にこんな表情をさせてしまった自分に後悔の念が押し寄せる。
 ヴォルデモートは思い出せと、記憶の扉を探れと言った。その扉の、僅かに空いた隙間からそれが押し寄せて来ている。けれど、扉を開けるのは恐い。
「怯えているのか?」
 差し出された手から逃げるように遠ざかり、顔を左右に振る。この手に縋りたいという衝動は、扉を開ける恐怖と友人の仇という事実に打ち勝つ事が出来なかった。
 カタン、と、ほんの少しの物音が近くで鳴り、はっとしたように目を見開いたは、全ての感情を振り切って姿晦ます。
 部屋に、静寂が訪れた。
「……ワームテールめ」
 口端を歪めて、静かに怒っていたリドルは、それよりも早急に行わなければならない事があると、自身に言い聞かせるように言葉を声に出す。
「迎えに行かなければ、あの男に……ダンブルドアに感付かれる前に」
 幸い、無意識に分け与えられた力があった。これがだけ力があればどうにか出来るだろうと、昔よく訪れたあの優しい家の間取りを頭の中に描き、扉の向こうにいるはずの召使を冷たく見下した。
「早く、早く私の元に戻ってきてくれ」
 抱き締めてキスをして、他愛のない事を本当に嬉しそうに語り合ったあの日に戻ろうと、リドルは自らの唇をゆっくりとなぞった。