曖昧トルマリン

graytourmaline

 ハリーがホグワーツから叔父の家に帰り、数日が過ぎた。夏休みはまだ始まったばかりで、それが余計にハリーを憂鬱にさせている。
 そんなある日、いつものようにその叔父に呼びつけられリビングに顔を出すと、そこには呼びつけた当人と、叔母、そして紙の束を片付けている見知らぬ東洋人の男性がテーブルを囲んでいた。
 そのテーブルの上には書類が散乱していて、幾つかには既にサインがしてある。叔父の会社の関係者だろうか、けれどそんな事で自分を呼びつけるだろうか、あのデブの従兄弟ならまだしも。
 考えが思い切り顔に出て、胡散臭い物を見るような目付きで書類を整理していた男に視線をやると、予想に外れてとても綺麗な顔をした青年だったので驚いた。
 叔父が持っている一番高い服なんて目ではないくらい仕立てのいいスーツに身を包み、ベルトの細い時計に紋章の入った銀製のカフス、そして使い古された万年筆がちらとだけ確認できる。この容姿で裕福な暮らしをしているなんて、天は二物与えるのだなとしみじみ思う。
 叔父がしつこく呼ぶので近くに立つと、青年は手元の書類を数枚残し、他は全て鞄に詰めてから顔を上げてハリーの顔をじっと見つめた。その目を何処かで見たことがある気がしたけれど、何処で見たかまで思い出せない。
「あー……ミスター・モラン。この子がわしの甥のハリーです」
 モラン、それがこの人の名前なのかと漠然と記憶して、続いた言葉に言葉をなくした。
「ハリー、この方はミスター・モラン。セント・ブルータス更生不能非行少年院の教官をなさっていて、この夏からお前を施設に引き取って下さるそうだ」
「なっ!?」
 絶句して叔父と叔母、そして青年の順で顔を見る。内二人は憎たらしいまでに清々しく笑っていて、ハリーの瞳に鬼火が灯る。
 その表情を見て一年ほど前の出来事を思い出したのだろう。今度は二人の顔色がみるみる青くなっていく、一年前は叔母が風船のように膨れ上がったが、まさかこの青年まで、そう叫びそうになった言葉を咽喉で押さえ、辺りを見渡すが、特に何か起こった様子もない。
 この数年はこういった事があると必ず力が暴走して、挙句制限事項に引っかかって公式警告がやってきたりしたが、それもない。
「どうかなさいましたか」
 ここで初めて青年が口を開き、挙動不審とも思える三人を見据える。けれど相手を射抜くようなその視線は今の状況に疑問を感じているようには、少なくともハリーにはとても思えない。
 叔父と叔母は愛想笑いを浮かべ何でもないと強調し、矯正メニューの確認を行おうと言い張る。ハリーを無理矢理椅子に座らせ、その前には書類が差し出された。同意のサインをしろと叔父が命令し、三人分の視線に晒される。
 この場でこの書類を破り捨てて去年のように逃げてやろうか、お金もない訳ではないし、また漏れ鍋に泊まればいい。そう思案して実行に移そうと視線を下にやると、びっしりと文字の並んだ書類が鎮座している。
 青年の腕が伸びて、下の空白欄に名前を書くようにと黒い線の上を指す。しかしハリーの目は示された先よりもその腕に留められていたカフスに釘付けになった。
 銀製のそれに刻まれていたのはHの文字と、その周囲に彫られた幻獣はハリーが今通っている学校の紋章と寸分違わない。見間違いかと思って目を擦ってみるが、矢張りカフスに彫られているのはホグワーツの紋章だった。
 暴走しなかった魔法の原因とカフス、この二点を問い正したい衝動を耐えて、ハリーは平静を装った。今取り乱しては彼が、恐らくだが、魔法使いだという事が露見してしまう。サインを書くのを躊躇う演技をして黒い瞳を見上げると、何故か青年が笑ったように思えた。
「何か質問でも」
「ええと、はい……あの」
 ハリーの視線が右へ左へと動き、次の言葉を探す。どうやったら叔父と叔母に気付かれず、青年を魔法使いだと確認できるのだろうか。
 あまり時間をかけては叔父に疑われる、そう自分を急かして真っ先に思いついた言葉を青年に投げ、後は全部フォローしてと強い思念と視線を送った。
「どんな施設で、ぼく以外にどんな人が居るんですか」
 短時間で考えた割にはいい質問だと思う。ハリーは思ったが、青年はというと眉一つ動かさない。けれど、さっきと同じように目だけが笑った気がした。
 青年は腕を引き、サインを早く書くように文句を言おうと口を開きかけた叔父を遮るようにして言葉を返す。
「施設自体は普通だ。入所者はそう沢山居ないが、あまり良くない連中ばかりだ。新参は君以外に、去年の今頃に他所の懲罰房から逃げ出した奴と、昔そいつとつるんでいた厄介な持病を持った奴が居る」
「とんでもない悪だ。そうだろう、ミスター・モラン」
「ええ、特に懲罰房から逃げ出した方は一部の世間を騒がした程なので。施設に入れた時もバックビークという名のヒッポグリフを連れて来た厄介な奴です」
 バックビーク、そしてヒッポグリフという単語を聞いて勢い良く顔を上げたハリーを不審に思ったのか、叔父と叔母の眉が寄る。しかし、それ以上誰かが何かを喋る前に、ごく自然に青年は言葉を続けた。
「ヒッポグリフです、ミスター・ダーズリー。個体自体は世間一般に出回る事が少ないのです知名度は低いですが、知識人の間ではルドヴィーコ・アリオストの著書が最も有名で……失礼。会社社長であらせられる氏にとって、このような説明は不要ですね」
「あ、ああ! そうだとも! まったく、あんな凶暴な動物を連れ込むなんて、本当に酷い奴が入所するんですな!」
 脂肪に覆われた胸と腹を張る叔父を見て、ハリーは隠れて笑いを零した。そして同時に、この青年が何者で、着いて行くに値する所か此方から頼み込んでも連れて行って欲しい人物だと知る。
 出来るだけ嫌そうな演技をして、それでも書類にサインすると、大人たちがまた会話を始める。来年の夏までの長期になるという言葉だけ聞いて、ハリーは荷物を纏める為に階段を上り自分の部屋である物置の扉を開けた。
「ヘドウィグ、出掛けるよ!」
 思わず声が弾んでしまうのも仕方ない、もうすぐこの家を出てシリウスと、そして恐らくリーマスと会えるのだ。嬉しくないほうがおかしい。
 少ない荷物を全部トランクに詰め込んで階段を駆け下りると、青年が玄関で叔父と叔母に見送られている。ハリーが姿を現したのを見つけると早くしろと急かした。これでも随分早く用意したのだと文句を言いたかったが、それを堪えて青年の隣に並ぶ。
「では、また一年後に」
「一年と言わず、性根が直るまで徹底的にやって下さい」
「残念ながら、入所者は十二ヶ月に一度、ご自宅の方へ戻るのが規則になっておりますので」
「そうですか……」
 残念そうな顔に叔父に、こっちも残念だよと青年の背に隠れて呟き、お世話になりましたと形式上の挨拶をして青年より先に玄関から出る。追って来た青年が車のトランクを開けてハリーの荷物を受け取り、助手席のドアを開ける。
 乗り込んだ助手席から見た叔父と叔母は輝かんばかりの笑顔で、最後にもう一度、くれぐれも宜しくといった事を告げてハリーの乗る車を見送った。
 動き出した車は何度か角を曲がり叔父の家が何処からも見えなくなってから、ハリーは改めて隣で運転する青年を見つめる。
「あの、モランさん。ありがとうございます」
 信号に捕まり車が停止して初めて、ハリーは車の口を開いた。青年は何故か一瞬考える仕種をして黒い瞳を信号機からハリーに移す。漆黒の瞳なんて珍しい、とハリーは口に出さず思った。
「すまない。モランは偽名だ、本名はと呼んでくれて構わない。言わなくても判ってくれていると思うが、魔法使いだ」
「あ、じゃあ、。改めて、ありがとうございます。それと、初めまして、ハリー・ポッターです」
「こちらこそ、初めまして」
 差し出されたの右手を握り返すと、また目の奥で笑われる。表情が少なく、声が平坦で口調が少し突き放したような感じを受けるけれど優しそうな人だ、というのがハリーが持った印象だった。
 は誰もいない後部座席を振り返り、もういいぞ、とだけ告げる。一体何がいいのか、その疑問を口にしようとする前に、ミラー越しに二つの影がぱっと現れたのを見た。
「シリウス! それに先生!」
「ハリー、会いたかった!」
「会いたかったよ、ハリー。それと、私はもう先生じゃないからリーマスでいいよ」
「……今度ワゴンタイプを一台買うか」
 ハリーに会えた感激のあまり周囲が見えていない、別れた時に比べて見違えるほど綺麗になった名付け親に思い切り抱き締められ苦しがっていると、が傍らで呟き、リーマスが曖昧な同意が聞き取れる。
 信号が青になり、車が発進し始めてシリウスはようやく落ち着きを取り戻し、ハリーに何度も感謝の言葉を述べた。席越しで話すのはあんまりだと気を使ってくれたのか、は車通りの少ない路上に進路を変更し停車させるとリーマスとハリーが席を替わるように勧めた。
「よかった、無事だったんだね、シリウス」
「ああ。あの後すぐがおれを見つけて、匿ってくれたんだ」
「シリウスを? どうやって?」
 魔法省ですら手を焼いているシリウスの居場所をいとも簡単に見つけたという青年にハリーの視線が釘付けとなる。実はもの凄い人物ではないのかと視線で問いかけると、自分の事ではないのに、何故かシリウスが胸を張って答えた。
「占いだと聞いた。はおれ達の世代の中でジェームズと並ぶほど強力な力を持った魔法使いだったからな。今のおれでも、とてもじゃないけれど太刀打ち出来ない」
「当時から思ってたけど、みたいな才色兼備の人間って本当に居るんだよね」
「ルーピン、それは女性に使う文句のはずだが?」
「女性より綺麗で可愛いから用法は間違ってないと思うけど」
「そうだな。学生の頃も相当可愛かったけど、今は更に綺麗になって……」
「貴様等二人とも今すぐ窓を開けて半身乗り出せ。峠仕込みのドリフトで投げ出してやるから後輪に巻き込まれて死ね」
 仲が良いのか悪いのか判断のつかない会話をしていた大人三人の言葉に違和感を感じたハリーが首を傾げる。シリウスもリーマスも、そして何よりも口調が変わっている事も気になったが、それよりも。
「……え。あれ、ちょっと待って? って、もしかして二人と同い年?」
「流石ハリー、いい所に気が付いたね」
「色気は増したけど、外見は背が伸びた以外は卒業した時とあんまり変わってないよな」
「うん。充分10代で通じるよ、今度ホグワーツの制服来て混ざってみたら?」
「一日くらい気付かれそうにないよな」
「隣と斜め後ろの馬鹿二匹。車から降りて前に並べ、轢き殺してからバックでもう一度丁寧に轢いてやる」
 何となくだが、ハリーは何故がこんな口調で話すようになってしまったのか判った気がした。元からそうだったという可能性もあるが、傍に変な方向へと話を持っていきたがる人間が二人も居るのでは仕方ないような気もする。
 同時に、彼らは本当にシリウス・ブラックとリーマス・ルーピンなのかと疑問が湧き上がったが、言葉に含まれた雰囲気は間違いなく二人のものだった。そのハリーの様子に気付いたのか、運転席からこんなのが後見人で本当にいいのかといった言葉が放たれる。
「勿論です、シリウスがいいんです」
「……ブラック。いい義息子を持ったな」
 ミラー越しに、今度こそ本当には笑った。
 その笑みがあまりにも綺麗だったのでハリーが顔を赤くして俯くと、リーマスが恋敵が増えたよと冗談交じりに言う。そうじゃないだろうとが表情でつっこみ、しばらく後でシリウスが何事か納得した顔で妙案を口にした。
「おれとが結婚して、リーマスが愛人になれば解決するな」
「愛人の立場なら私より君の方が似合ってると思うけど?」
「そうしたらハリーの母親役がいなくなるじゃないか!」
「君が後見人のまま私かと養子縁組すれば済む事だろ」
「ハリー、もう一度訊く。本当にこいつでいいのか? というよりも、おれの家に招待出来る、主に人材の準備が皆無に等しい事に今気付いた」
「……それでもぼくは、シリウスがいいんです」
 平坦なくせに振り絞られたようにも思える声を聞いて、は諦めたように頷き、ハンドルを握りながら頭の中で世界各国のレシピを盛大に広げる。
 犬と狼の詳細な調理法が車内で説明され、馬鹿二匹が青い顔をするまで、残り30秒。